キャッチボール




 もうそろそろ春休みにさしかかろうかという金曜日の夜、俺はいきなりハルヒに電話で呼び出され、こちらの予定も聞かれぬまま、土曜の朝に指定の場所に来るように言われた。
 まあ、何時ものことだ。
 何時もと違うことと言えば集合場所の駅が違ったことくらいと「動きやすい格好で来いよ」と付け加えられた事くらいである。
 動きやすい格好などと言われても普段別に動き辛い格好をしているわけではないので、特別服装に気を使う必要も無いだろう。
 俺は目覚ましをセットし眠りに着き、翌朝何時ものように集合時間より30分早く着くように逆算して家を出た。
 こんな事をしても俺が最後なのは最早SOS団の常識と化しているのだが、それは諦めるたらそこで試合終了だからというより、あんまり女性陣を待たせすぎるのもどうかと思っているからこそのことだ。
 そもそも集合時間の30分前に全員集合出来るのが当たり前という現状に異を唱えたい気もするんだが、SOS団の団長様の説得出来る人材など居るわけも無いので、ここは俺が折れるしかないだろう。
 全く、横暴な話しだよな。

 集合場所に着くなり、
「遅い、罰金」
 ハルヒのお約束の一言が振ってきた。
 ハルヒの傍には長門と朝比奈さんが居て、どういうわけか古泉は居ない。
「古泉が居ないじゃないか、あいつはバイトか何かか?」
「一樹ちゃんは先に行っているんだよ」
 先にって、どこへだ。
「ほら、とっとと行くよ」
 俺の疑問を無視して、ハルヒが歩き出す。
 ふらふらと着いていく長門と朝比奈さん。この二人は行き先を知っているんだろうか?
「どこへ行くんですか?」
「さあ、私も知らないんです。ただ、お弁当を作って来くるようにとは言われちゃいましたけど」
 知らなくても着いて行くのが朝比奈さんクオリティだと思うので、そこへツッコミを入れるのは控えておこう。
 ああしかしお弁当か。ありがたいな。
 朝比奈印の手製弁当だ、美味くないわけが無い。
 今回のハルヒ的思いつきが一体なんだか知らないが、どんな苦労があってもそこに朝比奈さんのお弁当が待っているなら、この俺の気持ちをプラマイゼロ以上に持っていく事だって出来るだろう。
「ああ、俺が持ちますよ」
「あ、ありがとうございます、キョンくん」
 荷物持ちは男の仕事だ。
 俺は快く朝比奈さんから弁当の入っているであろうバスケットを受け取った。
 結構重い気もするが、この疲労が後の幸せに繋がるなら問題無いし、何より朝比奈さんにこんな重たいものをずっともたせていられない。
「そこ、速く歩くー!」
 俺と朝比奈さんの和やかな談笑に、ハルヒが檄を飛ばす。
 俺達は仕方なく少し早足でハルヒを追いかけた。


 集合場所のバス停から徒歩数分、俺達は目的地に辿り着いたらしい。
 何故それが分かったかというと、そこに古泉が居たからだ。
 何時もながらの正当派美少女スマイルを惜し気もなく晒すその姿の後ろには、何故かフェンスがあった。その向こう側はだだっ広い野原のような物が見える。
 私有地かなんかだろうか。
 しかし何だ、こんな所で何をしようっていうんだ。
 まさかミステリーサークルもどきを大地に刻もうって言うんじゃないだろうな?
「お待たせ、一樹ちゃん。鍵は借りられた?」
 古泉に話し掛けるハルヒも良い笑顔だ。
 おいおい、一体これから何が始まるんだよ。
 お前と古泉は楽しいのかも知れないが、俺は不安でいっぱいだぞ。
「はい、借りてきました」
 鍵ってなんだ、って聞くまでも無いな。この中に入るための鍵だろう。
 古泉が鍵を開け、ハルヒが大股で中へ入っていく。
「ここは何なんだ?」
「鶴屋家の私有地ですよ。鶴屋さんに借りたんです」
 疑問を耳打ちした俺に古泉がさらっと事情を教えてくれた。
 まあ、そんなところだろとは思って居たさ。
 ハルヒ的思いつきに使用される土地建物を提供してくれる相手なんて、そんなに多くないからな。
 それも大規模なものになると、機関か鶴屋さんかの二択みたいなものだ。
 二択と言いつつもその二つも裏では繋がっているような繋がってないような微妙な存在なんだが、そんなことは今この状況には関係無い話だ。
「何のためにだ?」
 フェンスの中に入り気持ちよさそうに大きく伸びをしているハルヒ横目で見つつ、俺は古泉に訊ねる。
 こいつは曲がりなりにも副団長だからな。俺たち下っ端団員が何も知らなくても、こいつだけはハルヒから事情を聞かされているなんてことも珍しくない。
「行けば分かりますよ。さ、あなたも中に入ってください」
 古泉はひょいと俺の腕を引っ張ってフェンスの中に招き寄せると、内側から鍵を閉めた。
 朝比奈さんと長門は俺たちが離話している間に中に入っていた。

「キョン、受け取れっ」

 腕を引っ張られたせいでよろめく俺の頭上に、ハルヒの手から投げられた何かが振ってくる。
「うわっ」
 その何かをまともに頭に食らった俺は、そのまま尻餅を着いた。
 堅いものでは無かったんだが、驚いていたんだから仕方が無い。
「ったく、鈍いぞキョンっ」
 ハルヒが周囲に響き渡るようなでかい声で俺に文句を言う。
 無茶言うな、お前や長門じゃないんだから。
「突然物を投げるなよな。……グローブか、これ?」
 地面に転がっている茶色い物体は、間違いなく野球のグローブだった。
 何でこんなものが有るんだ。
 野球と言えば6月の野球大会での悪夢を思い出すが、まさかまた野球大会にでも出ようって言うんじゃないだろうな。
「そっ、んじゃ、球投げるよ」
 片手にグローブ、片手にボールを持ったハルヒが、投球体勢に入る。
 俺はハルヒの剛速球を思い出す。
「わーっ、ちょっとまて」
 俺は慌ててグローブを拾い、手に構えた。
 俺は混乱していたのかも知れない。
 これはつまりハルヒの投げる球を手で受け止められるわけなんて無いと思っていたからこその行動だったわけだが、そんな余計なことをせず、先ずは避けることを考えるべきだったのだ。
 ハルヒの剛速球が、俺の頭の脇をすり抜けていく。
 髪の毛2、3本は持っていかれたんじゃないだろうか。
 デットボールでなかった事を感謝すべきか、それともハルヒに文句をつけるべきか。
「にっぶいなあ」
「お前と一緒にするな」
 俺は地面に転がったボールを拾うと、それをハルヒのところへ投げ返した。
 勿論遠慮無しの全力投球だが、悲しいかなまともな野球経験も無ければ運動神経並程度の俺の返す球なんて高が知れている。
 案の上ハルヒは俺の投げたボールを軽やかに受け取り、もう一度俺に投げ返してきた。
「とりゃっ」
 速い球だが、ストライク狙い撃ちという感じではない。
 野球にはあんまり詳しくないが、バッターへの投球と味方への投球の違いみたいなものだろうか。まあ、そのまんまの表現だが。
「うわっ」
 俺は足をもたつかせながら、その球を受け取る。
 ハルヒのコントロール能力はそんなに悪くない。こっちが受け取れるように考えて投げた球なら、受け取れない事も無い。
 球速のせいか腕は痺れるけどさ。
「ほらよっ」
 俺は受け取った球をもう一度ハルヒに投げ返す。
 今度は、こっちも手加減してやる。
「ていっ」
 何だその速度に似合わぬ子供みたいな掛け声は。
 ああ、でも俺の方にもツッコミを入れるくらいの余裕は出てきたな。
 俺が球を受け取り、投げ返し、ハルヒが球を受け取り、投げ返し……、まあ、要するにキャッチボールと呼ばれる行為が成立していたのである。

 何でキャッチボール、と訊かれても困る。
 俺だって理由なんて分からない。
 俺に分かるのは、ハルヒがこのキャッチボールを割と楽しんでいるらしいという事実だけだ。
 一体キャッチボールのどこが良いのかというところに着いては俺も良く分からないが、ハルヒが当たり前のことで喜んでいるというのなら、それは歓迎すべき事だろう。
 キャッチボールなら、おかしい事件が起こることも無いだろうしな。

 美少女トリオが見守る中、俺とハルヒは延々キャッチボールを続けていた。
 しかし、だな、
「……そろそろ辞めないか」
 ボールを追ったり投げたりという行為は、結構疲れる。
 相手が受け取れるような球を投げ合っているとはいえ、完全など真ん中直球じゃない以上、ちょこまか駆けずり回っていたりもするわけだからな。
「ええっ、まだ昼前じゃん」
「俺は疲れたんだよ……。だから、俺にお前と同じだけの体力や持久力を期待するな」
 他人に自分と同じかそれ以上を期待するのが間違いだと、いい加減気づいてくれ。
「仕方ないなあ。一樹ちゃん、キョンと変わってよ」
「はい、了解しました」
 ハルヒの言葉に頷いた古泉が、俺の所までやって来る。
 古泉は俺からグローブとボールを受け取り、俺が離れたのを確認してから、ハルヒに向ってボールを投げた。
 綺麗な放物線を描くボールが、ハルヒのところまで飛んでいく。
 上手いもんだ。
 野球経験ゼロの俺とは大違いだな。
 ボール投げで女子に負けるのはちと悔しい気もするが、こいつ相手なら仕方ないって気持ちの方が先に来る。
 ハルヒほどじゃないが古泉も結構運動神経は良い方だからな。
「うん、やっぱり一樹ちゃんは上手いね」
 だったら最初から古泉とやれ。
「いえいえ、昔とった何とやら、ですよ」
 本当かよ。
「んじゃ、こっちからもいっくよーっ」
「はいっ」
 ハルヒの元気な声に、古泉もやっぱり元気な声を返す。
 高校生の男女の休日の過ごし方としてはどうかと思わなくも無いが、健康的で清々しい光景だ。
 俺は朝比奈さんが持ってきてくれたお茶を飲みつつ、二人のキャッチボールをぼんやりと眺めていた。

 それから暫くして、容姿・頭脳・運動神経と言ったスペックの高さを日頃全く生かさないか無駄な方向にしか生かしていないと思われる男女二人組みの、運動神経だけは生かされているものの高校生らしさが有るかどうかというところについてはやや微妙な遊戯も一段落し、俺達は昼食を取ることになった。
 朝比奈さん特製のお弁当。
 今日は煮物、ハンバーグ、サラダなどと、おにぎりだった。
 男女比2:3の高校生が食べるにしては明らかに量が多いが、ハルヒと長門が居る以上、多すぎて困るなんてことは絶対にありえない。
「うん、美味いねこれ」
 殆ど一口で食っているくせに、よくそんなことが言えるもんだ。
 まあハルヒが嘘をつくとも思えないし朝比奈さんを悲しませたくも無いから、野暮なツッコミは入れないでおいてやるが。
「……」
 長門も無言のまま食べている。
 そういや長門は本当に何もしてないんだよな。
 キャッチボールもやってないし、弁当を作ってきたわけでも無い。
 午後はこいつも誘ってみるべきか?
 長門の場合、投げる事や受け取る事よりも、手加減の方法を教えないと駄目な気がするんだが。


 俺は朝比奈さんがハルヒと長門の気持ちのいい食べっぷりに対して顔色をころころと小動物のように変えているのを横目で見つつ、古泉に話し掛けた。
「なあ、今日は一体何なんだ?」
 聞く必要は無いのかも知れないが、一応聞いておこう。
 このキャッチボールが単なる前哨戦で、午後に何かとんでもないイベントが待ち構えているという可能性も無いわけじゃないからな。
「何も有りませんよ。ただ、涼宮さんがキャッチボールをしたいけど良い場所が思い当たらないと言ってきたので、鶴屋さんに場所の提供をお願いしただけです」
 古泉は、何の含みも有りません、という感じの口調であっさりと答えてくれた。
「……それだけなのか?」
「ええ、それだけです」
 古泉が首肯する。
「……」
「何か気になることでも?」
「いや……、何でキャッチボールなんだ?」
「さあ、それは私にも……、あ、でも」
 古泉が、何か思い出しましたとばかりにぽんと両手を合わせる。
 どうやら、心当たりがあるらしい。
「何だ、一体」
 俺がそれを聞き返そうとしたとき、

「やっほー!! 皆元気しているー!!」

 元気な来客がやって来た。
 SOS団の名誉顧問、鶴屋さんである。
「あ、鶴屋さん」
 ハルヒが一番最初に顔を上げ、朝比奈さんと古泉も鶴屋さんの方を見た。
「やー、何とか午前中に終わったからさー、あたしも来ちゃったよ。あ、ここ開けてくれる? あたし合鍵とか持って来てないんだ」
「あ、はい」
 鍵を保持したままだったらしい古泉が、フェンスの所までかけていく。
 どうやら、俺がハルヒの思いつきの理由を知るのは後回しになってしまったらしい。


 鶴屋さんが残っていたおにぎり三つをあっというまに平らげると、午後は全員でキャッチボールとなった。そもそも道具が人数分有ったのに何故午前中は見学組が居たんだという疑問が湧いてくるが、そんなことを今更口にしてもただの薮蛇にしかならないので俺はその疑問を頭の外に追い出すことにした。
 組み分けは普通に考えたら2×3なんだろうが、ハルヒはどういうわけか3×2を提案した。
 何時もの籤の要領で(ハルヒはこういうところだけは準備がいい)引いた結果、俺、ハルヒ、長門組と、古泉、朝比奈さん、鶴屋さん組に分かれた。
 この結果の良し悪しについて意見を述べるのは難しい所だが、心配要素である長門と朝比奈さんが同じ組にならなかっただけよしとしよう。

 道具を持ってバラバラと散らばる前に、俺は長門に向って耳打ちした。
「えーと、長門、手加減して投げろよ」
「……」
「威力も速度もコントロールもさっきの古泉くらいの感じにしてくれ。あ、あと、球に直接インチキするのも無しだ」
「……了解した」
 本当に伝わっているんだろうか。
 やや不安だったが、伝わっている事を祈るしかない。

 結論から言えば、俺の心配はほぼ杞憂だった。
 長門は俺の言ったことを理解してくれたらしく、まともにキャッチボールをすることが出来た。
 もう一組の方で全然まともに投げられない受け取れない状態の朝比奈さんが当初かなり苦戦していたりもしたが、古泉の指導と鶴屋さんの大らかさに見守られていたおかげか、朝比奈さんが後ろめたい思いをすることも無く、こちらはこちらでキャッチボールを楽しむことが出来ているようだ。

「……競争しよっか」
 ただのキャッチボールに飽きたのか、ハルヒがボールを手に持ったままそんなことを言った。
「何をだ?」
「ボール投げで」
「遠投か?」
「ただ投げるだけじゃつまらないじゃん。そうだなあ……、あ、そうだ!」
 ハルヒは何を思いついたのか、そのままもう片方の組で投げ合っている三人のところへ行ってしまった。
 ハルヒが古泉に何事か呟き、近寄ってきた鶴屋さんもそれに頷く。
 なんだなんだ、今度は一体なんだ。
「じゃあ、これからSOS団第一回ピッチング大会を始めるよ!」
 ただ投げるのとどう違うんだよ……。

 ピッチング大会と言うが、ようは的に見立てた場所まで全員でボールを何回か投げあい、的ごとに決められた点の合計を争うという単純な物だった。
 的にする空き缶を用意するため俺に一っ走りさせる辺りがハルヒらしいよなあと思うが、女子連中に行かせるよりはまだ良いか。
「ていっ」
 問答無用で一番手の座を取っていったハルヒが空き缶に向ってボールを投げる。
 かなり遠くにある空き缶にストレートで命中しているが、誰も今更そんなことには驚かない。
 鶴屋さんと古泉が拍手をし、朝比奈さんもそれに乗せられているくらいだ。
 女子どもにちやほやされるのは気分が良いのか、ハルヒは上機嫌のまま二番手の鶴屋さんにバトンタッチした。
 それから鶴屋さんが遠くの缶を狙いすぎたせいか惜しい所で外して、古泉が中距離くらいの缶に首尾よく命中させて、長門は何故か暴投、俺と朝比奈さんに着いては言う間でも無いって感じだった。
「なあ、」
 二周り目、鶴屋さんが投げたままどこかに行ってしまったボールを捜す振りをしつつ、俺は同じ方向に向っている古泉に問い掛けた。
「何ですか?」
「さっきは聞きそびれたが、結局何でキャッチボールなんだ?」
「……原因かどうかはわかりませんが、この間、涼宮さんのパソコンのモニタが『男の友情を深めるにはキャッチボールだ』って書かれたホームページを表示したままだったのを思い出したんです」
 パソコンを放っておいてハルヒが部室を飛び出していくなんて、珍しい話でもなんでも無いからな。それを古泉が偶然見てしまうというのも、そんなにおかしいことじゃない。
「何だそりゃ?」
「さあ、私にも良く分かりませんよ」
「こらそこ、もっとちゃんと探す!」
 こそこそと話していた俺達に、ハルヒの激が飛ぶ。
「あ、ああ」
「すみません、涼宮さん」
 俺達は話を中断し、ボール探しを再開する。
 結局ボールは古泉が見つけ、俺達は即席ピッチング大会へと戻っていった。

 6人での一回りを5回やった後に予め決めていた点数通りに集計した所、ハルヒが優勝、僅差で長門が二位、以下古泉、鶴屋さん、俺、朝比奈さんという、妥当と言えば妥当な結果に終わった。
「ビリはみくるちゃんだけど、女の子に罰ゲームってのもかわいそうだから今日の夕飯はキョンの奢りだよ。今日もキョンが一番遅かったし」
 おいおい……。
 まあ、意味不明な罰ゲームを用意されるよりは、奢りの方が幾らかマシだが。
 ごめんなさいと頭を下げる朝比奈さんに対して力なく微笑みつつ、俺はこっそりと小さな溜息を吐くだけに留まった。

 こういう一日も、多分、そんなに悪くないんだ。






 
 何気ない日常的な一幕(070406)