男子高校生的諸事情 人間で誰しも失態を犯すことが有るものだ。 そのときの俺の失態は失態というには些細な物だったような気もするんだが、約一名から不況を買うには充分過ぎる物だった。 その約一名が誰かというのはともかくとして、経緯はともかく状況からして人様から不況を買うこと自体はおかしくないという場面であり俺はその瞬間わが身の不幸というかあり得ないほどのタイミングの悪さを呪うと同時に、女子三名中二名のあまり普通とは考えづらい反応に対して遺憾と諦感を同時に感じつつも自分から何も言うことが出来ないという極めて厄介な状況に陥っていた。 ……などとややこしい説明をしているが起こったことはほんの短い時間の出来事であり、そこに至るまでに面倒な経緯が有ったわけでもない。 いつもの放課後、いつものように朝比奈さんがメイド服姿てお茶を入れてくれていて、長門が無言で読書に励みつつ、ハルヒさえもパソコンの前で大人しくはないものの少なくとも現在進行形で他人に大きな迷惑をかけては居ないだろうというその時間に、その事件は起きた。 ハルヒがらみの事件や事件もどきに比べればとるにたらなそうなその出来事は、俺にとっては間違いなく重大な事件……、いや、事件は事件の始まりだった。 「……あ、そうだ、教科書を返していただけませんか?」 その日最後に部室にやってきた古泉が、新しいゲームを持ってきたんですよと言って鞄を開いた直後に、ふと思い出したようにそんなことを言った。 教科書? 「世界史の教科書ですよ、3時限目に貸したじゃないですか」 「……ああ、そうだったな」 言われて思い出した。 そう、俺は古泉に教科書を借りていたのだった。 わざわざ教科書を借りたのにプリントでの自習だったことも有って今の今まで忘れていたんだ。俺が忘れていたということを知ってか、古泉が少しだけ呆れたような表情になる。 「ちょっと待て、今返す」 俺は慌てて鞄を取り出し中を探った。 別に後でもよかっただろうし古泉の機嫌のことなんて深く気にかける必要も無かったような気もしたんだが、後になるとまた忘れそうな気もしたので、俺はこの段階で教科書を返すことにしたのだ。 焦っているつもりは全く無かったのだが、そのときの俺は焦っていたのかも知れない。 鞄を探ろうとした俺は、手を滑らし鞄を床に落としてしまった。 当然のように、中身が床に散らばる。 「あっ、」 「あ、拾いますね」 ちょうどそのとき手の空いていた朝比奈さんが、俺の鞄の中身を拾い集めるべく長いスカートを抑えながら床にかがんだ。 「すみません、ありがとうございます」 朝比奈さんがそんなことをする必要は全く無いのだが、些細なことをわざわざ断るのも悪いと思い、俺は床にかがみながら謝罪兼感謝のような言葉を口にするだけにした。 机の反対側にいた古泉もため息を吐きながらやってくる。 ハルヒはモニタから顔を出すだけ、長門は無反応。 まあ、四人ともこれが普通って感じの反応だな。 特におかしいことは何もない、意味なんて無いような出来事。 ……と、俺は思っていたわけだが、そんな俺の穏やかとも呼べる日常は、次の瞬間、朝比奈さんの行動と反応によって崩されてしまった。 先に言っておこう。 そのときの朝比奈さんの反応は『それ』を見た女子高校生としては割と一般的なものであり、未来人的な特異性など欠片も無かった。 当然そこには悪意ところか他意が入る隙間も無いだろう。 『それ』はもちろん世界史の教科書ではないし、その他の教科の教科書でも参考書でもノートでもない。 それは本来学校には持ってきてはいけないものどころか、年齢的な理由により俺が持てるものですらない。 いい加減回りくどい言い方はやめよう。 要するに、男が一人で性的欲求を解消するために使うような本である。 「……」 朝比奈さんが目を逸らすことも出来ないまま硬直している。 「……」 そして俺もまた、そんな朝比奈さんと似たりよったりな状態だった。 何故、こんなものが俺の鞄から出てくる。 誓っても良いが俺の鞄から出てきたその本は俺の持ち物じゃない。 健全な高校生男子である以上俺もその手のものに対して有る程度の興味やら何やらが無いとは言わないが、俺はそんな物をわざわざ学校に持ってくるほどバカじゃない。 こういうものはもっとこっそり扱うものだ。 学校なんて何時持ち物検査があるかわからないし、見つかったらただじゃすまない。教師に見つからなくとも女子の目に入ったりする可能性だってある。 例えば、今みたいな状況とか。 ああ、しかし誰だ俺の鞄にこんなものを入れたのは。 学校にこんなものを持ってきそうな知り合いなんて……、心当たりがあるな。 谷口か。 奴が一体どんな理由で俺の鞄にこの本を入れることになったのかは俺には分からないが、犯人は奴に間違い無いだろう。俺の知る範囲でそんなバカなことをしそうなの谷口だけだ。 「キョンくん……」 朝比奈さんが、ゆっくりと顔を上げる。 真っ直ぐ批難されるだとか顔を赤く染めて目を逸らすとかならまだ良かった。 何でそんな、今にも泣き出しそうな顔なんですか。 「あ、あの、これはっ――」 「バカキョン」 ハルヒの声が聞こえたかと思うと、俺は頭に衝撃と痛みを感じた。 屈んでいた所をハルヒに頭から蹴っ飛ばされたのである。 「つぅっ、お前なあ」 「こんなもん学校に持ってくるなよな。一樹ちゃん、没収しておいて」 「はい、了解しました」 何とも説明し難い微妙な表情をしたハルヒが俺の主張を無視して古泉に命じ、何時もの笑顔を殆ど崩していない古泉がその本を手に取る。 古泉の手の中には、拾い集められた俺の教科書やらノートが有った。 どうやらこいつは、俺と朝比奈さんが硬直している間に床に散らばっていた物を全て回収しきっていたようである。 おいおいおい。 何だよ、その反応は。 お前の反応がどこかずれているのは何時ものことだと思うが、それはちょっと動揺しなさすぎだろ、さすがに。 「あのなあハルヒ、これは谷口が、」 「アホの谷口がどうかしたって?」 「あいつが俺の鞄に放り込んだんだよ、他にありえん。俺はこんな物を学校に持ってくるほどバカじゃない」 女の子の目の前でこんな会話をするのはどうかと思うのだが、男同士だからこそここで放っておくなんて感覚は多分ハルヒには通用しないと思うので、俺はこんな物がここに有った理由を説明することにした。 理由と言うか推測なんだが、他にありえん。 「ふうん……。まあ、信じてあげても良いけどさ、みくるちゃんや一樹ちゃんに見せた時点でどうかとは思うけど」 「だったらなんで古泉に回収させるんだよ」 「俺が持って帰るわけに行かないじゃん」 そりゃそうだが。 って、俺達も相当間抜けなやり取りをしているな。 間抜けさではなく居心地の悪さって面で見るなら、全員似たり寄ったりな気がするが。 朝比奈さんは泣き出しそうなまま古泉に寄り添っているし、自分の教科書と件の本を確保した古泉は俺とハルヒの間の空気を察してか段々心配顔になっているし、長門ですら本から目を上げてこっちを見ている。 俺とハルヒは、なんかこう、微妙さ溢れる会話の最中だ。 女子連中の前でする会話じゃないよな、これ。 「……一樹ちゃん、それ、適当な時に谷口に返しといてくれる? ごめんね、変な役目押し付けちゃって」 ハルヒが人に謝るとは珍しいが、状況が状況だってことをハルヒも一応理解しているのだろう。 というか、してなかったらさすがに大問題だ。 「あ、はい、了解しました」 古泉はいきなり話を振られたことにちょっと驚いた様子を見せつつも、すぐに何でもなかったかとでも言うように首肯した。ただし、頭にはハテナマーク付きという風な気がしないでも無い。 ハルヒが謝った意味を理解していないのかも知れないな。 こいつ、妙なところでずれているというか、恋愛とか性欲とかいう方面に恐ろしく疎そうに見えるときがあるからな。この手の本に対しても、男が性欲の解消に使う物という以上の認識は無いんじゃないだろうか。 ……何か物凄く問題を感じるな。 まあ、今ここでこれ以上話をややこしくしたくないから態々ツッコミを入れる気も無いし、男の俺が言えるようなことでも無いが、もうちょっと何とかなら無いんだろうか。 ああしかし、こいつの手から返すってのは谷口に対する報復としては上等だろう。 友人の友人くらいのポジションに居る学年一の美少女が自分の元にやって来たと思ったら、友人の鞄に忍ばせたはずの女の子に絶対見られたくないような物を返却されるのだ。 それも、笑顔で。 そのときの谷口が相当な精神的苦痛を感じることは間違いないだろう。 まあ、古泉にその役をやらせて良いのかという疑問は有るには有るが、悪いが今の俺にハルヒに逆らってまでその疑問にツッコミを入れるような勇気は無い。ハルヒに逆らうこと自体に問題は無い気もするのだが、ここで古泉の認識を改めるべく説教めいた物を始めるというのは、何か色々間違っている気もするからな。 ハルヒや長門はどうでもいい気もするんだが、ここには朝比奈さんもいるし。 「あ、あの……」 と思ったら、沈黙していた筈の朝比奈さんが口を開いた。 何だろう、何が言いたいんだろうか。 「えっと、あたし、ああいう本って、男の人には必要な物だって……、ちゃんと、分かっていますから。その、だから……、ええっと、うん、大丈夫ですから」 ……。 沈黙するしかない俺、同じく言葉の出ないハルヒ。 そんな俺達の状態を見てちょっと不思議そうな顔をする古泉。 やっぱりこっちを見ているだけの長門。 自分の言った言葉の衝撃の大きさに自分で戸惑いつつもそれ以上のフォローが出来ない朝比奈さん。 朝比奈さんは大丈夫かも知れないが、この場の空気が大丈夫じゃない。 古泉と長門は通常モードから大きく逸脱していないようだが、場の空気自体は既に瀕死だ。 ハルヒが黙っているという状態が先ず有り得ないのだが、ここで軽口で返せるような神経の持ち主だったら別の意味で間違っている気もするので、ああ、その、なんだ、こいつもこういうところは普通の感覚の持ち主なんだな、何て風に俺は妙に納得してしまったのだが、だからと言ってここから脱出する手段が思いつくわけでも無いのだ。 誰か何とかしてくれ。 「……えっと、ゲームでもしませんか、もしよろしければ、今日は皆さんで」 どうやら自分以外にこの状況を打破できるような人間は居なさそうだと感じ取ったらしい古泉が、手っ取り早く全員を巻き込めることを提案した。 「そうだね、そうしようっ」 「あ、ああ」 「じゃあ、その前にお茶入れなおしますね」 「……」 ぱっと切り替えるようにハルヒ、俺、朝比奈さんの順に反応し、長門も無言の主張でもって同意を示す。 かくして俺達は、あまりにも微妙な空気を引きずったまま人生ゲームに興じることになった。 長門が一位で、最下位常連の古泉が二位で、俺とハルヒと朝比奈さんの三人が仲良く最下位争いをする羽目になってしまったが、今日に限っては誰もその状況に疑問を覚えたりしなかったし、ハルヒがそれ以上機嫌を悪くすることも無かった。 何せ既に機嫌がどうとかいう次元じゃなかったからな。 人生ゲーム終了後、メイド服のままだった朝比奈さんの着替えタイムということで、俺とハルヒはそれぞれ通学鞄を持って二人で廊下に出た。 何と言うか、居心地が悪い。物凄く悪い。 「なあ、ハルヒ」 「何?」 「……悪かったな」 「別にキョンが謝る必要ないじゃん」 「そりゃそうだが」 「後で谷口を一発殴っておくかな」 「ほどほどにしておけ、あと、教師にばれないようにしろよ」 ハルヒと殴り合いをしたことは無いが、こいつは運動神経という意味で言ったら抜群を通り越しかねないような規格外ギリギリの人物だ。 そんな奴が人を本気で殴ったらどうなるか? 想像したくも無いね。 「分かってるさ」 ハルヒは短く答えて、それから、廊下にもたれかかるように屈みこんだ。 なんだなんだ、えらく元気が無いな。 「なあ」 大した長さじゃないはずのその時間が、えらく長く感じる。 俺もハルヒと同じように座り込んだ。 挟んだ扉の向こうから、普段だったら朝比奈さんと古泉の会話くらい聞こえても良いはずなのに、今日は殆ど無音だ。 居心地が悪いというか、妙に空気が重いのは向こうも同じなのかも知れない。 「何?」 「お前もああいう本読むのか?」 「ノーコメント」 「……」 「……」 「なあ」 「キョンって本当、バカだよね」 ハルヒは吐き捨てるように言い切ると、そのままそっぽを向いてしまった。 バカと言われるのはむかつくのだが、状況を考えると俺にも少なからず非が有りそうな気もしたので、反論するのは辞めておいた。 反論以前に何を言えば良いか分からないってのも有るんだが。 そう言えば、ハルヒとはその手の話題を話したことが一切無いなと今更ながらに気付いたりもするのだが、それに着いて追求するべき時は多分今じゃないし、そもそもそれが追求するようなことなのかどうかすら俺には分からない。 その手の話題と縁が無いのは、ハルヒが王様で俺がその王様の女子達への魔の手に対する防波堤だからだとか、あるいはハルヒが子供っぽ過ぎるからだとか思って居たんだが、そういうことだけが理由じゃないんだろうか。 当たり前のことだが、こいつも一応健全な男子高校生なんだよな。 以前、普通の人間じゃなければ男でも女でも何て言っていたような気がするが、だからと言ってこいつが端からおかしな性的嗜好を持っているとも思い難い。 一度、そういう話を振ってみるか? どういう反応をされるのか全く想像も着かないが、女子連中が居ないところでならそういうのもありだろう。 ああしかし、どういう風に切り出せばいいんだろうな。 俺も谷口あたりからこの手の話題を振られたことは何度かあるんだが、自分から振ってみた経験は無い。 そういや谷口も、ハルヒにこの手の話をしてみたことは有るんだろうか。まあ、有ったとしても散々な結果に終わっていると思うが、今度機会が有ったらちょっと聞いてみるか。 「着替えも片付けも終わりましたよ」 一人悶々と考えてる間に時間が過ぎていたのか、内側から扉が開かれた。 そこには、平常モードと大差ない古泉が、そこに立っていた。 そういや、こいつも変な女だよな。その手の本を見ても微動だにしないなんて、おかし過ぎるだろう。 「帰ろう」 ハルヒが立ち上がり、俺を含めた他四人がそれに続く。 疑問は色々有ったが訊けるような状況下じゃないし、一対一になったからといって簡単に訊けるようなことでもない。 俺は仕方なく、新たに生じた疑問を胸にしまっておくだけに留めることにした。 面倒なことになる前に打開策が見つかればいいんだが……。何で俺がそれを探す役なんだ、何ていう文句を言うのは辞めておこう、そんなことはもう今更出しかない。 解決できる人間が自分以外に居ない以上、自分がどうにかするしかない。 そういうものなんだろう。 坂を下る間に沈黙に耐えられなくなったのか、ハルヒが普段通りの調子でバカなことを言い始めたことに、俺は少しだけ安堵した。 やっぱり、こっちの方がハルヒらしいよな。 ずれているというか、色々いびつな人々。 乙女心も男心も複雑です(070120) |