女神候補



 SIDE:third person

 すっとタクシーの後部座席に乗り込んできた少女の姿を見て、それより少しだけ年長の女性は目を細めた。
「お疲れ様。今日は特に問題は無かったようね」
「はい……」
 少女の声には、ほんの少しだけ疲れた様子が窺える。
 疲れているからこそこうして迎えを呼んだ、という方が正しいのかも知れないけれど。
「……着くまで寝ていなさい」
「はい、すみません……」
 女性の言葉に応じて、少女は目を閉じる。
 女性の名は森園生、少女の名は古泉一樹という。
「全く……」
 古泉一樹が完全に眠ってしまったのを確認してから、森園生は小さく溜息を吐いた。
 眠りに落ちた少女の額をなでる手つきは、優しい。
「この子は何時も、無理ばかり……」
 手つきの優しさとは裏腹に、その表情には翳りが宿る。
「……仕方が無いこと、ということになるのでしょうな」
「分かっているわ」
 運転席からの言葉に、森園生が小声で反論する。
 仕方が無い、という言葉の残酷さを、森園生は良く知っている。
 このか細い少女に世界を守る運命の一端が任せられているのも、仕方が無い、どうしようもない……、少なくとも、森園生を始めとした周囲の人間にとっては、変えることの出来ない事実でしかないのだ。
 古泉一樹は、無意識のうちにこの世界を壊そうとする一人の少年からこの世界を守るという役目を課せられている。少年の名は、涼宮ハルヒという。
 そして、この世界がそういう風になっている理由を、誰も知らない。
 ただ、そういう出来事が存在することを分かってしまう人間が居る、という事実だけが存在している。
 今ここに居る森園生も、運転席に居る新川も、そういう人間達の中の一人なのだ。
「でも……、女神候補、だなんて……、馬鹿げているわ」
 森園生が、古泉一樹本人でさえ知らない言葉を、小声で呟く。
 古泉一樹は確かに涼宮ハルヒの無意識の衝動から世界を守る一人だが、別段、涼宮ハルヒの傍に居る必要性が有ったわけではない。そんなことをしなくても世界を守り続けることは出来るし、場合によっては、二人が直接出会うことで予想外の自体が引き起こされる可能性も有り得た。
 けれど古泉一樹が所属する(森園生と新川も所属しているが)『機関』は古泉一樹を涼宮ハルヒの傍に送り込むことを選んだ。それはもちろん、古泉一樹が無茶をしない、自分から世界を崩壊に向かわせるような人格的に破綻した人間ではないことを見越した上のことだが、それだけが理由というわけでもない。
「形があるものが欲しい……、という考えを持つものも居る、ということなのでしょう」
 新川の落ち着いた声が、既に何度か繰り返したやり取りをなぞっていく。
 この世界は、涼宮ハルヒの望むように変容していく。世界の破壊も、言ってみれば、その力の片鱗に過ぎないとも言える。
 そんな涼宮ハルヒを『神』と称する者達が『神』に何かを求めたとしても、おかしなことではない。そのために、古泉一樹は送り込まれた。
 表向きは、ただ、涼宮ハルヒの監視と保護、そして暴走を止めるための精神安定剤的役割ということになっているし、古泉一樹自身もそうとしか思って居ないが、本当は違う。
 『女神候補』という言葉が表す、余りにも端的な真実。
「だからって……、この子は、まだ……」
 この世界の理不尽さを知り、どちらかといえば古泉一樹に対してその理不尽な現実を押し付けるという立場にありながらも、森園生は古泉一樹に対して少なからぬ同情めいた感情を抱いていた。
 もっとも、それを本人の前で見せることは余り無いのだが。
「……」
 新川は何も答えない。
 それは、こういうときの森園生にどのように対応したら良いかということを心得ているからだ。
 現実を再確認して、愚痴を言ってみても、何も変わらない、変えられない。
 出来ることと言えば、己の無力さを知りながらも、現実が、馬鹿げた考えの持ち主達の思う通りに進まないよう、また、一人の少女が出来るだけ傷つかないよう、祈るだけだ。
 神でも女神でも、どんな宗教上の偶像に対してでもなく、ただ、祈り願い続ける。
「ん……」
 やがて、古泉一樹が目を覚ます。
 この少女は、森園生と新川の会話も、その背景にある事情さえも知らないまま、ただ、忠実に、己の役目を果たし続けている。
 今日だって、若干疲れ気味だというのに、多少無理をして涼宮ハルヒ及びその仲間達に付き合い一緒に遠方まで出かけていた。ただ、電車で帰るほどの体力が残っていなかったため、これから別の用事が有りますからと嘘を吐いて他の仲間達と別れた後、こうして『機関』のタクシーを呼んで帰宅することにしたのだ。
「あ……、おはよう、ございます」
 寝ぼけ眼の古泉一樹が、森園生を見上げる。
 こういうときの少女の顔は、年齢以上に幼い。
 幼いとか子供っぽいとか言われるのを本人は嫌っているようだが、これはもう、どうしようもない事実というものなのだろう。
「歩ける?」
 とはいえ森園生も、こんな状況で古泉一樹を苛めるような言葉を口にしたりはしない。
 厳しい上司を演じているつもりではあっても、それと同時に、一応の気遣いや分別を持っている振りをしていたくもあるのだ。
「はい、一応……、すみません」
「気にしなくて良いわ。それより、しっかり休んでおきなさい」
「はい……」
 タクシーから降りた古泉一樹は、森園生と新川に向かってそれぞれ礼をすると、普段住んでいるマンションへと帰っていった。
 家族は居ない、古泉一樹は一人暮らしだ。
 『機関』が生活の、経済面以外でのサポートを続けることも出来たのだが、古泉一樹はそれを断り、一人で暮らすということを選んでいた。
 一人で落ち着ける時間が欲しい、というのがその理由だった。
 けれど、一人になった少女が本当の意味で落ち着いてられるのかどうか、それは、森園生にも新川にも分からないことだ。
 演技の仮面を被っていないときの古泉一樹は余りにも純粋で、脆弱で、透明で、それでいて、奇妙なほどに掴み所の無い少女だからだ。
 ……そんな少女だからこそ『女神候補』に選ばれたのだろうか。
「新川、行きましょう」
 森園生は心に芽生えた一つの想像を振り払い、新川にタクシーの発進を命じた。
 こんなことを考えても、何の解決にも繋がらない。
 そもそも、解決、何てこと自体が、有り得ないのだから。
「はい」
 新川は、帽子を被りなおしつつ、その命令に応じた。

   





 
 『機関』サイドのお話、三人称でお送りしました。(070112)