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 『彼女』が涼宮ハルヒと朝比奈みくると共に騒いでいる。
 彼女がメイド服と称される服装をしていたのは、先々週までの事。
 先週は確か、一般的に看護士と呼ばれる職種のものが着る服装をしていた。
 本当の看護士が着るにしてはスカートが短すぎて機能的ではない。
 そのことを彼女に指摘したら
「コスプレ用だからな、これは」
 という返答を貰った。
 余り晴れやかとは言えない表情。
「コスプレ用?」
「あー、細かい事は気にするな、まあ、本物じゃないってことだ。私にナースのスキルはないしな」
「……そう」
 服を着ている事情は良く分からないが、本物ではないという事は理解できた。
 専門職の職業用の衣服に似せた、偽者の衣装。
 何の意味が有るのだろうか。
 わたしには分からない。
 今日の彼女達の服装は、チアガールと呼ばれるものらしい。
 わたしの知識にはないものだったが、彼女達の言葉から判断した。
 スポーツ選手などを応援する時に使うものらしいが、この団体の活動内容にそんなものが含まれているとでも言うのだろうか。
「よし、じゃあ、応援の練習に行ってきましょう!」
「はい!?」
「ほへ、この格好で部室の外に出るんですかぁ?」
「そうよ。だってせっかく着替えたんだもの、ちゃんと生かさないとね!」
 涼宮ハルヒが何かを言い出し、彼女と朝比奈みくるがその話に巻き込まれていく。
 わたしは既に何度か似たような光景を見ている。
 三日ほど前、三人は、ケーキ屋の開店祝いが有るからといって出て行ったきり、その日の内に部室に帰ってくることは無かった。
 わたしは彼女達の会話を聞きながらも、本を読み続ける。
 インターフェースの性能を持ってすれば、そのくらいの分業は容易い。
「んじゃ、行くわよ!」
「わ、バカ、引っ張るな」
「はわわわ〜」
 そうして、三人が部室から消えていく。
 わたしは三人が出て行くときに扉の方まで移動し開かれたままになっていたドアを閉めたが、それ以上のことは何もしなかった。
 それ以上……、それ以上とは、何だろう。
 わからない。わたしには、わからない。
 わたしは観察者。彼女達の周囲を見るのが役目。
 巻き込まれたい? 違う。そうじゃない。
 観察者として、自主的についていくべきだったか? それも、違う気がする。
 ……では、何だろう。
 思索の途中、わたしは部室に近づく気配に気づく。ある程度接触のある人間なら、扉の向こうであっても、誰が来たか判別できる。
 彼が、扉の前に立ち、扉をノックする。
 わたしはただ、扉を見上げる。
 それ以上のことを、わたしは知らないから。
「……こんにちは、やっぱり長門さんだけでしたか」
 古泉一樹が扉を開け、部室に入ってくる。
 そのまま部室の中にあるパイプ椅子の一つにでも座るのかと思ったら、彼は、わたしの傍までやって来た。
 わたしは本から顔を上げ、彼の顔を見上げる。
 何時もながらの笑顔で、彼はわたしを見下ろしている。
「僕が貸した本、読んでくれているんですね」
「……そう」
 今わたしが読んでいる本は、彼に借りたもの。
 彼が、貸してくれたもの。
「面白いですか?」
「……ユニーク」
「それならよかった」
 彼はそう言うと、わたしの傍から離れ、部室に備え付けられた棚からチェス盤を取り出し、そのチェス盤を机の上に置き、チェスの駒を並べ始めた。
 長い指先がチェスの駒を並べている、ただ、それだけの光景。
 読書をするわたしと同じくらい、自然と、そこに溶け込んでしまえるような、日常的という単語に該当しそうな、彼の、彼だけの時間。

 読書とチェス。
 切り離された時間の進行同士の距離は、どのくらいだろう。

「一緒にやりますか?」
 不意に、時間同士が途切れ、彼がわたしの方を見てそう言った。
「ルールを知らない」
「僕がお教えしますよ」
「……」
「それとも、僕ではお嫌、」
「違う」
 そういうわけではない、と思う。
 彼に、何かを教えてもらえる。
 わたしは、それが嫌だとは、思わない。
 思う……、という感覚自体が、未だにどこかあやふやな物であること自体は認めざる終えないけれども。
「じゃあ、こっちに来てください」
「……分かった」
 わたしは本に栞を挟み、彼の向かい側の席に移動した。
「良いですか、これは、」
 良く通る彼の声が、チェスのルールを説明してくれる。
 わたしは実際に駒を手に取り、それを動かしていく。
 彼の説明は、分かりやすかった。


 約一時間後。
「……参りました」
 わたし達は二度目のチェスの勝負を終えていた。結果、二回ともわたしの勝利。
 わたしは勝負の少し前にチェスを教えられた身で、当然、彼以外の人間のチェスの腕前など知らないわけだが、これは、彼が弱い、ということなのだろうか。
「長門さんは強いですね、僕には敵いそうにありません」
「……そう」
「これじゃ、勝負になりませんよね」
「……」
「すみません、あの、」
「気にしなくて良い」
「えっ、」
「気にしなくて良い……。わたしは、多分……『満足』という状態に有るから」
 自分の状態を定義する言葉は、どこか曖昧。
 充足、充実、満足……、端末に過ぎないわたしという個体に、そのような状態の定義が必要かどうかすら、わたしには分からない。
「そうですか、それは良かった。どうですか、出来たらもう一勝負」
 彼の提案、頷こうとするわたし。
 けれど、わたし達の意思伝達は、急速に現れた気配によって遮られることとなる。

「たっだいまー!」

 部室を出ていた三人が、戻ってきた。
 元気そうな涼宮ハルヒの後ろに、疲れた顔の彼女と朝比奈みくる。
「お帰りなさい」
「あら、古泉くんも来てたのね」
「ええ、一時間ほど前に」
「待たせちゃって悪かったわね。あ、これお土産だから食べてね」
 涼宮ハルヒがそう言って、近くのコンビニエンスストアのものらしい袋を彼に向かって差し出した。中に入っているのは、アイスクリームと呼ばれる氷菓子を始めとした菓子類。
「……お土産?」
 彼が困惑した顔をしている。
 チアガールと、お土産。……情報を解析、関連性が得られない。
 彼も、わたしと同じように考えているのだろうか。
 ……彼も。
「そ、お土産よ。応援する代わりに代金として頂いてきたってわけ」
「ああ、なるほど」
 涼宮ハルヒのその言葉だけで、彼は理解に達したらしい。
「奪って来たってのが正解だろうが」
「あら、これは正当な取引の結果よ。それにあたしとあんたとみくるちゃん三人分のチアガール姿に比べれば、全然安いくらいよ」
「あのなあ……」
 涼宮ハルヒは上機嫌、彼女は呆れ顔、彼は笑っていて、朝比奈みくるはほんのすこし困惑顔。
 わたしだけが、状況に着いていけないまま、ただ、取り残されている。
「とりあえず、いただきますね」
 彼はそう言って、ビニール袋の中からアイスを一つ手に取った。
 どこにでも売っているような、ただのバニラアイス。
「うんうん、食べちゃって良いわよ。あ、有希も食べなさいよ」
「……」
 涼宮ハルヒが、わたしにビニール袋を押し付ける。
 ビニール袋には、アイスが三つ。バニラアイスは……、無い。
 わたしは少し考えてから、イチゴ味を手に取った。
「んじゃあたしはこれ、はい、みくるちゃん」
「あ、はい、あれ、でも……」
 涼宮ハルヒがチョコ味を手に取り、朝比奈みくるがオレンジ味を手に取る。
 アイスは、これで終わり。
「おい、私の分が無いぞ!」
「あんたはサボっていたから無しよ!」
「なんだよそれ!」
「だってあんたの動き方、ぐだぐだ過ぎたじゃない」
「あのなあ、私はあれでも」
「まあまあ、お二人とも、落ち着いてください。……半分食べますか?」
 涼宮ハルヒと彼女の間に割って入った彼が、彼女の方を見て、そう言った。
 その手には、食べかけの、バニラアイス。
「……まあ、それで良い」
 すっと、彼女の表情から苛立ちの色が消える。
「古泉くんったら、キョンに甘いわね……。まあ、良いわ」
 その光景を見た涼宮ハルヒも、引き下がる。
 彼は、何も言わずただ曖昧な笑みを浮かべている。
 わたしには、その表情が表すものを解析することは不可能。
 わたしはただ、彼が食べかけのアイスを彼女に手渡す光景を、視線で追っていた。
 彼女の頬が、ほんの少しだけ高潮している。
 僅かな体温の上昇、それを見ても表情を変えない彼。
 彼女の表情が、元に戻る。
 彼女の手には、食べかけのバニラアイス。
 彼の、食べかけの。
「あ、有希、アイス溶けちゃうわよ」
「……」
 何時の間にか、わたしの手の中で、カップの中のアイスが少し溶けていた。
 端末とはいえわたしも有機生命体と同じ体温を持つもの。その手に触れていれば、冷却保存が前提のアイスが溶けるのは、当然のこと。
 そう、当然のこと。
「有希って結構とろいわよねえ、これじゃあ……」
「……食べる」
 わたしは涼宮ハルヒの指摘を受け流し、溶けかけのアイスを食べきった。


 翌日、昼休み。
 何時ものように読書をしているわたしのところへ、来客が来た。
 少し、珍しいこと。
「やっぱり居ましたね。……はい、どうぞ」
 ノックをしてから入って来たのは、彼だった。
 彼が差し出して来たビニール袋に、バニラアイスが二つ。
「……」
 わたしは無言で、ビニール袋の中を見つめた。
 昨日見たのと同じ、バニラアイス。
 昨日と、同じ。
「昨日のあなたを見て、バニラアイスが食べたいのかなと思っていたのですが……、違いましたか?」
「……違わない」
 そう、違わない。
 昨日の私は、確かに、バニラアイスが食べたいと思っていた。
 昨日の時点では解析し切れなかったけれども、改めて振り返って行動を見直して見れば、そういう意味だと解釈することが出来る。
 端末に過ぎないわたしに味覚的な趣向が有るというのも、おかしな話だけれども。 
 でも、今は……、わたしは、本当に、バニラアイスが食べたいのだろうか?
 このビニール袋の中、二つのバニラアイスを見ても、食べかけのバニラアイスを見たときと同じような感覚には辿り着かない。
 一度理解できたはずのものが、また、手の中から滑り落ちるように、理解の外へと弾かれていく。
 ……何故?
「長門さん?」
「……」
「アイス、食べませんか? 溶かしてしまうのはもったいないですし」
「……」
 彼にアイスを手渡され、わたしがそれを受け取る。
 僅かに、手が触れ合う。
 伝わってくる、彼の体温。
「……」
 わたしは無言でバニラアイスを受け取り、それを食べ始める。
 彼もまた、自分の分のバニラアイスを食べ始める。
 今は、わたしと彼が、同じことをしている時間。
「長門さんは、食べるのが早いですね」
 わたしが食べ終わった時点で、彼はまだ食べかけだった。
 体格と食べる速度というものは、比例しないもののようだ。
「なんでしたら、僕のも食べますか?」
「貰う」
 彼が差し出した食べかけのアイスを、わたしは躊躇うことなく受け取った。
 他人が食べていたものは、衛生的に、などという常識が頭の中で巡る合間さえなかった。

 二つ目の、彼の食べかけだったバニラアイスが、一つ目のものより美味しい気がしたのは、どうしてだろうか。




 彼からバニラアイスを受け取ったその日の放課後、何時もなら誰より先に部室に向かうはずだったわたしは、担任の教師からプリントを職員室に運ぶように頼まれたため、少し遅れて部室に向かうことになった。
 教師の要請を無視することもその小さな依頼を歪めることも出来たけれども、端末とはいえ、この星の有機生命体と同じ生活をなぞることを前提としているわたしは、わたしの判断で、その依頼を受けることにした。
 これも、わたしがわたしで居るために必要なこと。
 小さな積み重ねが、わたしという存在を形作るために必要なこと。
 たとえそれが、偽装のためのものだとしても。

 部室の中に人の気配を感じたわたしは、扉を開いた。
「あ、長門さん、こんにちは」
 部屋の片隅で刺繍をしていた朝比奈みくるが、わたしを見つけて挨拶をしてきた。
 涼宮ハルヒは居ない。どこかへ出かけているのだろうか。
 古泉一樹と彼女は、チェス板を挟みあう位置に座っていた。
 彼女が居る場所は、昨日わたしが座っていた場所。
 そう、わたしが。
「……これはこう、か」
「そうそう、そうですよ」
「なるほど……、案外ルール自体は簡単なんだな」
「ルールが難しすぎたら、こんなに世界中に普及したりしませんよ」
「まあ、それもそうか」
 どうやら彼女は、彼からチェスのルールを教わっているらしい。
 昨日、わたしがそうであったように。
「ああ、長門さん、こんにちは」
「あ、長門か……、茶でも飲むか?」
 どういうわけか先々週までと同じメイド服姿に戻っていた彼女が、座ったままわたしに問いかけてくる。何の意図も感じさせない、ただ、わたしが居ることに気づいて、だから、訊ねてみただけ……、そういう、たいして意味の無い行為。
「……いい」
「そっか」
 断れば、それ以上のことは何も言われない。わたしは、そういう存在。
 彼女の入れたお茶……、嫌いではない、と思う。味覚的なものはともかくとして、お茶を入れてもらう、という行為自体は嫌ではないと思う。けれども今のわたしは、どういうわけか、彼女の入れるお茶を飲みたいとは思えなかった。
「続きを教えてくれるか?」
「ええ、分かりました」
 彼女はすぐに、彼との会話に戻る。
 教える彼が、昨日わたしと相対していたときよりも楽しそうに見えるのは、多分、わたしの気のせいではないのだろう。
 わたしは所詮、端末。
 喜怒哀楽を見せ随時己の感情を言葉や態度で出来る少女とは、違う。
 彼女と、わたしは、違う。
 ただ、それだけのこと。
 ……わたしは、会話を続ける二人から視線を外し、窓際においてあるパイプ椅子を引っ張り出し、本を開き読み始めた。
 昨日彼に借りていた本はもう読み終わってしまったから、今から読むのは、違う本だ。
 先日本屋で購入した、SF小説。わたしの知らない、わたしが知るものとは違う宇宙の広がっている話。
 人間の空想の深さと緻密さに想いを馳せながら、わたしは本の中の世界へ入っていく。
 読書をしているときは、落ち着ける。
 それは、観察者としては不適格なことかもしれないけれども。
「おや、僕が貸していた本は読み終わったんですね」
 不意の呼びかけに反応して視線を上に押し上げると、彼がわたしを見下ろしていた。
 優しい、見守るような視線。
「そう」
「長門さんは本を読むのが早いんですね。……ああ、また何かお貸ししましょうか?」
「……あなたが、貸してくれると言うのなら」
 断る理由は、特に無い。
 そう、断る理由など無いから。
 だから、わたしは彼からまた本を借りる約束をする。
 そしてそれは……、きっと、彼という人間を知るために必要な行為だから。
 わたしは通学鞄を開き、借りていた本を彼に手渡した。
「おい、お茶のお代わり入れ終わったぞ。……ん、そりゃなんだ?」
 そのとき、お茶を入れていた彼女がわたし達のところへやって来た。
 お盆の上には、お茶が四つ。わたしのものということになっている湯飲みも有る。先ほどわたしは断ったはずだけれども、これは、ついで、ということだろうか。
 ちなみにこの湯飲みは、先週、わたし以外の女子部員三人が買い物に行って来たときに買ってきたものである。
 湯飲みにしては明るい配色が多い同じデザインで色違いのものの五つのうち、わたしに割り当てられたのは白いものだった。彼女は青、彼は緑、朝比奈みくるが桃色、涼宮ハルヒは赤。
「ああ、長門さんに貸していた本を返してもらっていたんですよ」
「へえ、お前長門に本なんて貸してたんだな」
「良かったら貴方も読みますか?」
 無言で湯飲みを受け取る私の傍で、彼と彼女が話をしている。
 お茶の味が、良く分からない。
 おかしい……、わたしの味覚機能に、異常は無い。彼女が入れたお茶に、味覚的に問題を発生させるような要因は、存在しない。
 これは些細な、エラー。
 エラー、……発生原因は、何? ……彼女?
 おかしい、今の彼女に、わたしにエラーを起こさせるほどの、要因など……、存在しない、はず。
「ジャンルは何だ?」
「ミステリですよ」
「ふうん……、まあ、借りてみるかな」
 彼女が、湯飲みが乗ったままになっているお盆をテーブルの上に置き、彼から手渡された本をぱらぱらと捲っている。
「ん、栞?」
 はらりと、本から栞が落ちる。
「ああ、僕のではありませんから長門さんのですね」
「そっか、返すな長門」
「……」
 栞が、わたしの手の中に帰ってくる。
 何の飾りっ気も無い、何か本を買った時に着いてきた、ただの栞。わたしが、彼から借りた本を読むときに使っていた栞。
「何か、難しそうな本だよなあ。……まあ、お前には似合っている気もするけど」
「先の展開を考えながら読むのも楽しいものですよ? もっとも、僕の予想は外れることの方が多いんですけど」
「お前らしいな」
 彼がおどけるように言って、彼女も笑う。
 何気ない、ただの雑談めいた会話。
 彼女が、涼宮ハルヒや朝比奈みくるとするのと大差ない、大きな情報の変動が感知されることも無い、ただの日常的な会話。
 そう、ただの、日常的な。
「……そう言えば、今日は涼宮さん、遅いですね」
 朝比奈みくるが桃色の湯飲みを手に取りながら、ぽつりとそんなことを口にする。
「良いんですよ、ハルヒなんて遅れて来たって。……あいつが居ない方がここはよっぽど平和です」
「それは、そうかも知れないけど……」
「朝比奈さんはハルヒが居る方が良いんですか?」
「ううん、そういう意味じゃなくて……」
 朝比奈みくるが、言葉を濁している。
 では、どういう意味だと言うのだろう。
「まあまあ、あんまり細かいことは気にしなくても良いではないですか。涼宮さんなら、そのうちやって来ると思いますよ。今はどこかで、楽しいことを探しているんでしょう」
「楽しいこと、ね……。私達が苦労することじゃなきゃ良いんだが」
「楽しむために苦労するというのは、そう悪くないことだと思いますが?」
「あのなあ……」
 おどける彼と、少し嫌そうな顔をする彼女。
 会話の様子や表情の移り変わりなどが先ほどまでと少し違うのは、涼宮ハルヒの名前が出たからだろうか。
「あ、二人とも、お茶、冷えちゃいませんか?」
「ああ……、とりあえず飲むか」
「そうですね。何時もありがとうございます」
「……別に、お前のためってわけじゃない」
 彼女が、彼の感謝の言葉に対して、顔を背ける。
 彼のためではない……、では、誰のため?
 今ここには、彼女にお茶を入れるようにと日々口にしている涼宮ハルヒは居ない。彼女が、涼宮ハルヒが居ない状況でまで、涼宮ハルヒの言葉を忠実に守る理由が有るとは思えない。
 では、これは、……ただの、習慣? ……本当に、それだけ?
 だって、彼女は、彼が……、そう、彼女は彼に、何と言った。
 ああ、そうだ、言ったはずなのだ……、そしてわたしは、二人の記憶を消さなかった。
 そう、そういうことなのだから。
「んじゃ、ルールは覚えたから、とりあえず一勝負だな」
「ええ、そうしましょうか」
 二人が、チェス盤を囲む位置に移動する。
 わたしは、部室の隅に残ったまま。
 片手には白い湯のみ、片手には戻ってきた栞。膝の上には、読みかけの、自分の本。
 わたしは少し考えてから、お茶を飲み干し、テーブルの上に置いたままになっているトレイに湯飲みを戻し、読書を再開することにした。
 本を、改めて開く。
 ……そう言えば、栞を挟んでなかった。
 記憶を探索しながら、わたしは読みかけのページを探す。ぱらぱらとページを捲る音が、耳に心地よい。わたしを、本の世界に吸い込んでくれる。
 日常的な意味でわたしが必要とされない、ただ観察者として存在するだけの世界から、違う世界へと誘ってくれる。

 結局その日、涼宮ハルヒは、古泉一樹の携帯に連絡をよこしたきり、部室に現れることは無かった。
「あの、そろそろ帰りませんか?」
「あ、すみません、ちょっとこの勝負が終わってから……、良いよな、古泉?」
「ええ、僕は構いませんよ」
「そうですか……」
 朝比奈みくるの下校の誘いを彼女が断り、彼がそれに同意し、そして、朝比奈みくるが少し寂しげな表情になる。
「……」
 わたしはそんな三人のやり取りを横目で眺めつつ、下校の準備をしていた。
 とは言っても、読んでいた本を通学鞄にしまうだけのこと。
「あ、待ってくださーいっ」
 朝比奈みくるが、わたしの後ろを追ってくる。
 身長も歩幅もほぼ同じだから、わたし達は自然と、別れるところまで一緒に帰ることとなった。
 けれどわたしが朝比奈みくるに対して話すことなど何も無いし、朝比奈みくるがわたしに話しかけてくるということも無い。
 沈黙が支配する、ただ、過ぎていくだけの時間。
「あの、長門さん……」
 先に口を開いたのは、朝比奈みくるの方だった。 
 何か、言いたいことが有るのだろうか。
「……」
「長門さん、昨日、古泉くんにチェスを習っていましたよね?」
「……そう」
 昨日朝比奈みくるを含めたわたし以外の女子三人が戻って来ていたとき、わたしと彼の間にはチェス盤があった。そしてわたしがそれ以前にチェス盤を触っていたことなど無い。
 だから、朝比奈みくるがわたしが彼にチェスを習っていたことに気づいても、何ら不思議は無い。彼女と涼宮ハルヒは、気づいてなかったようだが。
「あ、やっぱり……」
「……」
「そっか、うん……。やっぱり……」
「……」
「あの、長門さん……、無理、しないでくださいね」
「……わたしはわたしという個体が出来る範囲を把握した上で行動している」
「えっと、そういう意味じゃないんですけど……」
 では、どういう意味だと言うのだろう?
 朝比奈みくるの言いたいことは、わたしには理解できない。
 主語も述語もはっきりしない、ただの呟きにも、何らかの意図は有りそうだけれども、わたしにはそれをはっきりと解析するだけの知識・経験などが不足しているのだ。
 朝比奈みくるは、一体何が言いたいのだろう。
「……」
「……」
 それから、わたし達は別れる場所まで一言も言葉を交わさなかった。


 次の日の放課後、わたしは読書をしながら他の部員を待っていた。
 昨日の続きの今日。変わらない日常。涼宮ハルヒが何かを言い出すことは有っても、大きな情報の発生などが起こりようも無い、わたしにとっては、静かと呼べる日々。
「ああ、長門さんが一番乗りでしたか」
 わたしの次に部室に入ってきたのは、古泉一樹だった。
 彼は、何時もと変わらない、ただ、優しい笑みを浮かべている。
「はい、どうぞ」
「……これは?」
 彼に渡されたのは、一冊の本と、何か、金属製の細い細い板のようなものの先に、小さな八分音符のオブジェが黒い糸で繋がれたもの。
 本は分かる。これは、約束したものだから。
 では、もう一つは一体何?
「ブックマーカー、要するに栞ですよ」
「栞……」
「ええ、長門さんは良く本を読んでいますけど、あまり栞には拘ってないようでしたから、何か差し上げようかなと思いまして……、迷惑でしたか?」
「……迷惑では、無い」
 わたしの手の中に、彼から手渡された、ブックマーカーが有る。
 銀色の音符が、キラキラと輝いている。
「ああ、良かった。では、よろしければ本を読むときに使ってください」
「……分かった」
 そうして、そのブックマーカーはわたしの物になった。
 それから朝比奈みくるが来て、彼女が来て、何時もの日常が始まる。
 彼は、彼女とチェス盤を囲んでいる。聞こえてくる会話からすると、彼は彼女の感覚からしても『弱い』方に分類されるらしい。
「私は初心者なんだがなあ」
「あなたが強いか、ビギナーズラックということでしょう」
「んなわけないって」
「では、次は別のゲームを持ってきますよ」
「ふうん……、まあ、良いけどな」
 何気ない、二人の会話。
 楽しそうに聴こえるのは、多分、気のせいではない。
 だって、彼女は……、彼が、好きだから。
 彼が彼女をどう思っているのかはわたしの預かり知らぬことだけれど、彼だって、表情も感情も有るかどうか分からない端末などより、人間の少女と話をしている方が楽しいだろう。
 だから、これは、当たり前のこと。
 そう、当たり前の……、当たり前のこと。
 そして、彼女がそこに座っている限り、彼とわたしがもう一度チェス盤を囲むことは、無いのだろう。
 そう……、そういうことなのだ。
 わたしは視線を持ち上げ、読書をしている間も本の裏手側にずっと持っていたブックマーカーを、窓辺から差し込む光に翳す。
 小さな音符が、キラキラと輝いている。
 そのささやかな光が、先ほどからわたしの中に発生し続けている原因不明の小さなエラーを、吸い取るように分解し、消し去っていく。
 どうしてだろう? わたしには、その仕組みは分からない。わたしには、理解出来ない。
 でも、それは、きっと……、悪いことでは、無いから。

 ゲームという、切り離された時間の向こう側に時折思いを馳せながらも、わたしの、本の中での旅路では続いていく。
 彼から貰ったブックマーカーを、その共としながら。





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