状態維持


 この世はぬるま湯のようなものだと、誰かが言っていた。
 有名な小説の一文のような物を思い出しながら、あたしはその文章がどこから出てきたものなのかちょっと考えてみたけれども、結局は何も分からないままだったわ。有希に聞けば分かるのかも知れないけど、あたしはこんなことを誰かに聞きたいとは思わなかった。
 良いの、別に。
 それがどこから出てきた言葉なのかってことに、大した意味は無いんだから。
「それでですね、」
 今日は、ちょっとだけ退屈そうな素振りを見せたあたしに、古泉くんがどこから取り出したのか、一風変わった美術展のパンフレットを取り出して、解説をしてくれている。
 その美術展とやらは結構面白そうだったし、古泉くんの時折冗談が混じるような解説も楽しくて、あたしはそれなりに良い気分で耳を傾けていた。
 古泉くんの背中越しには、何時もと変わらないキョンと、みくるちゃんと、有希が居る。
 でも、あたしは知っている。
 キョンは出会った頃よりは前向きになってくれたような気がするし、みくるちゃんは少しずつあたしが望む理想の萌えキャラ路線にのっかって来てくれている気がするし、有希は有希で少しずつ他人と交わることで変わってきている。
 じゃあ、古泉くんはどうなんだろう。
 出会ったその日のうちにあたしの言葉に頷いてくれた彼は、何か変わったのかしら?
「……どうでしょう、涼宮さんさえよろしければ、今度の週末にでもSOS団で行きませんか?」
「あ……、ちょっと待って」
 古泉くんが勧めてくれるその場所は面白そうだし、SOS団で行くっていうのも良い案だと思う。
 でも……、頷く事に躊躇いはないはずだけれども、あたしには疑問があった。
 最初からあたしにとって誰よりも都合の良い存在で居てくれる、古泉くん。
 反発や抵抗や些細な反応で楽しませてくれる皆とは違う、あたしのために必要なものを積極的に用意してくれる人。
 彼が与えてくれるそれは、ぬるま湯のような、用意された世界。
「ねえ……」
 以前のあたしは、用意された物をそのまま受け取るだけなんて主義に反するなんて思っていた。今でもそういう気持ちが無いわけじゃないけど、今ここで問題なのはそんなところじゃないの。
 あたしが知りたいのは、あたしが触れたいのは、多分、もっと違うことだから。
「はい、何でしょう?」
「二人で行かない?」
「は?」
 あたしの申し出に、古泉くんが目を点にする。
 あっ、こういう反応は結構珍しいかも。
「そう、二人で。あ、もちろんあたしと古泉くんでよ。別に構わないでしょう」
「僕は構いませんが……」
 古泉くんがちょっとだけ微妙な表情になる。
 何を気にしているのかしら、って思ったけど、どうやら後ろの三人が気になるみたいね。
「団長命令よ」
 あたしはキョンとみくるちゃんと有希の顔を見ることも無く、言い切った。
 この言い方が一番効果があるのは確かだけど、本当はこういう言い方がしたかったわけじゃないのよね。
 あーあ、もうちょっと器用に言えたらなあ。
「……命令でしたら、仕方有りませんね」
 古泉くんがちょっとだけ苦笑気味な表情になってから、何時もの口調でそう言った。
 本当、何時も変わらないわね。
「当然よ。いい、こういうのは、」
 あたしは一旦胸を逸らし気合を入れなおしてから、二人で行く理由とか、当日までに必要なこととかを並べたて始めた。
 あたしは、古泉くんが一々あたしの言葉に驚いたり頷いたりする様子を見るのが結構好きなのよね。
 ぬるま湯のような世界に有る、互いに踏み出せない、踏み込まないままの関係。
 一つの場所に留まっているつもりは無いのに、あたし達の関係は何時でも殆ど変わらない。
 踏み出すような素振りを見せるたびに逃げられるのにも、もう慣れて来たような気さえするわね。
 ねえ、あたしに優しいくせにあたしに踏み込ませない、その理由って何?
 訊かれたくないみたいだから今は訊かないで居てあげるけど、やっぱり、気になるわ。
 でも、あたしはこの場所が、この関係が結構好きだから、結局は現状維持を認めちゃうのよね。別に、古泉くんのことを傷つけたいわけじゃないし。
 そうね……、古泉くんと居ると楽しいのは確かよ。でも、あたしは少し悔しいの。
 だって、現状維持を認めるなんて、主義に反するもの!
 でも、傷つけるようなことはしたくないし、今が楽しいから認めちゃうわけで……、ああもう、もどかしいなあ。
 こういうことを考えないのが一番楽だって分かっているんだけど、一旦気付いちゃったら、考えないで居るなんて無理なのよね。
 あーあ、何とかならないかしら……。





 
 状態維持というか現状維持。
 一応古泉も日々変わっていっているはずですが、ハルヒから見るとそれほど変化は無い部類に入る気がします。(061204)