あの朝に似ている




SIDE:I

「起きろ」
「ん……」
「起きろ、古泉。朝だぞ」
「ん……、あ……、はい……」
 眠りの淵から引き上げてくれるような声を耳にして、僕はゆっくりと目を覚ます。
 目を開けたら、彼が僕の顔を覗き込むような形で立っていた。
 えっと……、そうか、昨日は彼の部屋で寝たんだった。彼の家に呼ばれたのは始めてじゃないけれども、お泊り、という形で来たのはこれが始めてだ。
 彼の家族とご飯を食べて、彼の妹も交えて三人で遊んで、二人でくだらない話を重ねながら、夜も結構遅くなってから眠って……、そうそう、途中、停電何ていうアクシデントも有ったっけ。
 ああ、そうか、あれは昨夜のことなんだ。
 何だか、夢の中での出来事みたいだけど。
「……ちゃんと眠れたか?」
 ぼんやりしたままなかなか起き上がってこない僕を見てどう思ったのか、彼が心配そうに少しだけ眉根を寄せた。普段から全然素直じゃないし僕には冷たく当たってくることが多いのに、彼はどういうわけか、時折、ほんの時折、無防備なくらいの優しさを見せてくれる。
「ええ、大丈夫ですよ」
 そういう優しさが僕をどういう気持ちにさせるか、彼は、分かっているんだろうか。
 ……分かっているのかもしれないな。
 分かっていても、きっと、彼はこういう態度をとるのをやめないんだろう。そして、僕の反応を見て満足した振りをするんだろう。彼は、そういう人だから。
「朝飯、パンで良いよな。……と言っても飯を炊いて無いからパンしかないわけだが」
「他所様の家の食事に文句をつける気はありませんよ」
「そっか。んじゃ、着替えて降りて来いよ」
 彼はそう言って、さっさと部屋を出て行ってしまった。
 説明する必要も無いと思うが、彼は既に着替え済みだったのだ。
 僕は一人になってから、早く着替えないとと思っているはずなのに、ただぼんやりとしたまま思わず頬を緩めてしまった。
「本当に……」
 昨晩、彼は僕に口付けを求めてきた。
 頬に一度、唇に一度。
「あなたは……、優しい人だ……」
 けれど彼は、その後僕を抱きしめはしたけれども、それ以上のことを求めようとはしなかった。
 キスをして、抱きしめて……、本当に、ただ、それだけだった。
 何時の頃からか始まった男子高校生同士にしてはほんの少しだけ過剰なスキンシップは、今でも変わりなく続いているけれども、相変わらず、何の進展も見せていない。
 彼の家に来てしまったから、何か有るかも、何て思っていたりもしたけれども、本当に、何も無いまま眠ってしまっただけだった。
 身体を触れ合うこと以外での意味でなら色々有ったし、それはとても良い経験だと思うし、そういう意味では、僕は満足しているのだけれども……。彼は、どうなんだろう。
 今の彼が、僕に相対するなかで『満足』しているなんて部分が、有り得るんだろうか。
 不平不満を並べながら、溜息を吐いているのは、何時ものことのだけれども。
「古泉、早く着替えて降りて来い!」
 ごちゃごちゃと考えていたら、階下の方から大きな声が聞こえてきた。
 いけない、早く着替えてご飯を食べに行かないと。他所様の家であんまり人を待たせるのはマナー違反だ。
 僕は考えるのをやめ着替えを済ませ、階下へと向かった。

 台所兼食堂になっているその一室では、彼と彼の妹の二人が、既に食卓を囲んでいるところだった。彼の両親は今日は早めに出かける用事が有るということを昨日のうちに聞かされているから、両親は既に外出済みなんだろう。
 僕達も今日は、僕と彼と彼の妹の三人で出かける予定だ。
「遅れてすみません」
 僕はぺこりと頭を下げ、食卓についた。
「気にしなくて良いよー、キョンくんはいっつももっと寝ぼすけだもん」
「余計なことは言わなくて良い」
「ええー、だって本当のことだもーん」
 何時ものことだけれども、この二人の会話を聞いていると和む。
 彼は自分の妹が年齢以上に幼い雰囲気なのを少し気にしているようなところが有るけれども、無邪気なのは良いことだと思う。
 人が幼いままで居られる時間と言うのは、そんなに長くないのだし。
 それにしても……、彼が何時もはもっと寝ぼすけだという妹さんの主張は、本当なんだろうか。
「……とにかく、飯を食うぞ」
 妹さんを黙らせるのは無理だと判断したのか、彼が強引に話を切り上げた。
「はーい、いただきまーす!」
「いただきます」
 僕等はめいめいに挨拶をして、朝食を食べ始める。
「ほら、ジャムが口についているぞ」
「後で舐めるから良いんだもんっ」
「そういう問題じゃない!」
「まあまあ、良いじゃないですか」
「あのなあ……」
 僕が妹さんの味方についたからなのか、彼ががっくりと項垂れる。
 彼は彼なりに色々言いたいことが有るんだろうけれども、こういうときの彼は、必要以上のことを喋ろうとしない。話の風向き次第で僕が傷つくかも知れないとでも思っているんだろう。
 やっぱり、彼は優しい人だ。
 本当の意味では何一つ満足も納得もしていない癖に、今のままで充分だと思ったまま、ただ、こんな毎日が続いていくことを願っている。
 こんな毎日が壊れないことを、願っている。
「古泉くん、もっと食べないとダメだよ!」
「……あ、はい、そうですね」
 妹さんが二枚目の食パンを差し出してきたので、僕はそれを受け取った。
 色々な思惑を秘めたまま、けれどその殆ど全てに蓋をしたまま生きている僕や彼とは違う、無邪気な顔。
 彼女と同じかもう少し幼い頃は、僕も、こんな風に毎朝を迎えていた。そしてそれは、彼も同じだったのだろう。
 けれど僕等は、そんな頃には戻れない。
 僕等は、出会ってしまい回り始めた歯車を止める術を、持っていない。
 そして、今更帰ろうとも思って居ない。
 ただ、何時か過ごした朝に似ている光景にほんの少しの眩しさを感じながらも、そういうものを含めた世界の全てを、守ろうとしている。
 偽善や自己犠牲を彩る美辞麗句は、僕等には不要。
 僕等はただ、当たり前のような毎日を過ごしながら、時折、ほんの少しの痛みと共に、そんな事実を思い知らされているだけなのだから。

 




 
 『灯火の影の向こうに』の続き。
 翌朝の二人+妹。(070118)