ひめごと‐extended ver



 SIDE:I

「なあ、古泉、たまには何か賭けないか?」
 何時もの放課後、何時ものようにボードゲームを挟んで対峙していた彼が、ふと次の勝負の準備をしている間にそんなことを言ってきた。珍しいこともあるものだ。
 最初の頃はちょくちょく賭けめいたことをしていたけれども、最近はすっかりノーレートが板についている。特に理由は無い。何となく、ということだろうか。
「……賭け、ですか?」
 一体どういう風の吹き回しなのだろう。
 理由が分らない。実際ゲームの腕前は彼の方が上だけれども、何か要求したいことでもあるのだろうか。だったら、遠まわしになどせずに直接言えば……、などという風にいかないのは、その捻くれた性格ゆえか。
 僕もあまり人のことは言えない気がするけれども。
「そう、賭けだ」
「……何を賭けるんですか?」
「そうだな……」
 彼が顎に手を当てて考えるようなポーズを形作る。どうやら、言ってみただけ、ということだったらしい。……心配して損をしたかも知れない。
 それにしても、賭けか。
 彼がこんなことを言って来るのも、この部室に他の団員が居ないからだろう。居たところで置物状態の長門さんはともかくとして、涼宮さんはこういうことに結構口五月蠅いし、朝比奈さんが賭け事に対して良い顔をするとも思えない。
「もしかして、ただ言ってみただけなんですか?」
「負けた方が勝った方の言うことを一つきくってのはどうだ? ただし、この部室の中で出来ることで、拘束時間も5分以内、部員を含めた他人への口外禁止って条件付きでだ」
 僕の疑問には回答せず、彼が条件を提示してきた。
 意図はよく分らないけれども、そんなに可笑しいものでも厳しいものでもない。五分間彼の要求に付き合ってみるというのも悪くないだろうし、逆の場合に要求してみたいことがないわけでもない。
「……そのくらいの条件でしたら、僕は構いませんよ」
 拒否する理由は特にない、と思う。
「じゃあ、それで行くか」
 彼がニヤリと笑い、本日四戦目のオセロが始まる。
 一体何を考えているか知らないけれど、所詮些細な悪戯や暇つぶしに付き合う程度だ。
 心配するようなことは、何もない、……と思う。


 賭けるものが有ろうが無かろうが、勝負の経過や結果には大差など現れない。
 賭けの対象が曖昧すぎた故なのか、それともこれが実力の差ということなのか……。数分後、盤面は大方の予想通り白で埋め尽くされていた。
 彼が白だから、僕が負けたことになる。
「負けてしまいましたね」
 時計を確認して、オセロを片付け始める。涼宮さんに言いつけられた時間まで後二十分もない。五分間、という賭けの条件から考えても、今日の勝負はこれで終わりにした方が良いのだろう。
「さて、僕は一体何をすれば良いのでしょうか?」
 出来るだけ楽に済ませられることだと良いのだけれど。
「ちょっと考える、少し待て」
「決めてなかったんですね」
「ほっとけ、別に今考えたっていいだろ」
「……まあ、それもそうですね」
 最初っからこれと決められて押し付けられるよりは、その方が良いかも知れない。
 立ち上がった彼が、思案顔のまま視線を彷徨わせてる。本当に何も考えてなかったのだろうか。……彼らしいというか、なんというか。
「あの、まだですか?」
 そろそろ居心地が悪くなってきそうだ。
「ん、そうだな……。お前、ちょっとそこに座ってろ」
「それが命令ですか?」
「馬鹿、そんなわけあるか。……五分間、俺が何をしてもお前はそこから動かない、抵抗しない。それが命令だ」
「……あ、はい」
 何を、という言葉に一抹の疑問を覚えないわけでもないけれども、一度条件をのんだ以上、頷くしかないだろう。
 僕の回答をどう思ったのか、軽く眉をあげた彼が僕の顔をじろじろと見ている。途中彼の表情が少しずつ変化していくけれども、僕には彼の考えていることが良く分らない。
 普段僕の方から近付いても「顔が近い」の一言で離れていくのはどこの誰だったか。
 それにしても……、本当に、何をするつもりなのだろう。条件を考えれば何もないまま時間が過ぎていく方が有りがたい気もするけれど、出来るならさっさと済ませて欲しい気もする。
 矛盾している気もするが、この状態で何もされないというのはちょっと不安になってくる。怖がるようなことは何もないと思うのだけれども。
 なんて風に考えていたら、いきなり顎を掴まれた。
 顔が……、既に近いとかいうレベルですらない気がする。これは、顔にかかる息の熱さを感じる距離だ。
「あ、あの……」
 彼が何を考えているのか、さっぱり分らない。完全に想定外だ。
 まさかこの状況から殴られる、なんてことは無いだろうけど……。
 ……彼が、身体の角度を変えた。
「な、何を……」
 自分がどんな表情をしているのかさえ分からない状況に陥るなんて、一体どのくらいぶりだろう。言うべき言葉も作るべき顔の形も分らない間に、頬のあたりに僅かな熱を感じた。
 彼が、僕の頬に口づけたのだ。
 ……。
 ……一瞬、頭の中が真っ白になった気がした。
「えっ……」
 自分の口から出てきたはずの声が、普段の自分の声とはだいぶ違って聞こえた。
 ゆっくりと首を動かして見上げた先に、彼が居る。平然とした、何事もなさそうな様子の彼が、
「い、今、何を……」
「お前の肌、柔らかいよな」
 軽快な返事。
 顎に触れていたはずの手が、口づけを落とされたのとは反対側の頬に触れてくる。普段の彼からは考えられないほどの、優しい仕草。
 ……眩暈がしそうだ。
「なっ……」
「まだ五分経ってないぞ」
 思わず動きそうになった肩を、手で押しとどめられる。力強いはずなのに、その手つきですら優しく感じてしまうのは、僕の錯覚なのだろうか。
 時間は、あと一分有るかないか。……なんて風に考えていたら、今度は耳を軽く噛まれていた。
「え、あ、あ……」
 あ、あ……、こ、この人、何を。
 頬に、という時点でどうかと思ったけれども、耳って、それは、その……、何、考えてるんですかっ。
「んっ……」
「あうっ……」
 って、痛いってば……、いや、その、痛いとか、そういう問題以前に、ええっと、その……、ああもう、なんて言えば良いかさっぱりだ。
 考えてみても頭の中がぐるぐるしているだけで、まともな言葉なんて一つも出てこない。
「ふえっ……、あ、あの、そ、そろそろ」
 ああ、時間時間……。腕時計を確認して、そのまま彼の視界に入るように持ち上げる。
 何時の間にか、時間は予定の五分を少し過ぎていた。
「ん、ああ、そうだな」
 漸く彼が耳を噛むのを止め、僕から距離をとる。
 はあっ……、何だったんだろう、一体。悪戯めいたことをされるだろうとは思っていたけれど、まさかこんなことをされるとは思っていなかった。
 室内のどこかにあるはずのマジックでも持ち出されて、顔に落書きでもされるくらいの結果になると思っていたのだけれど……。
「……大丈夫か?」
「……」
「……その、すまなかったな」
「あ、いえ……。すみません、僕の方こそ、恥ずかしい所を見せてしまって」
 冷静に考えてみると、僕は僕で……、何とも、微妙な反応をしていたような気がする。あんまり思い返したくないけれども。
「……」
「……」
 互いに黙したまま、視線を合わせることすら出来ない。
 彼が何を考えているのかはよく分らないけれども、こういうことをしたからには、何かしらの理由が有るのだろう。もちろんそれは悪戯の範疇だろうけれども……、これはこれで、悪いことでは無いのだと思う。
 こういうことをして良いと思えるくらいには、彼は僕に対して好意を持っている。
 ……そう、解釈しても、許されるのかも知れない。
 何となくだけれど、そんな風に思えてしまった。
「……お前さ、嫌じゃなかったのか?」
 目を逸らしたまま、彼が訊ねて来る。
 顔が少し赤いけれども、そのことを指摘する気にはなれなかった。きっと、僕も似たような状態なのだろう。
「……」
 さて、どう答えるべきなのだろうか。
 嫌悪感は不思議と存在せず、寧ろ、これはこれで悪くないかも知れない、なんて風に思っているわけだけれど……、果たして、それを正直に彼に伝えても良いのだろうか。
「なあ……、嫌なら嫌って言えば良いんだぞ? 俺としても、ちょっとやり過ぎたかも知れないってくらいには思っているんだ」
 そう言いながらも、彼の口調にも嫌悪感のようなものは無い。
 自分が主体だからなのか、それとも、自分がしたことを自分で否定したくないからなのか……、両方、かな。
 実空間での口づけの記憶を抹消できるほど、現実は容易くない。
「嫌だというわけではないのですが……、少し、驚きました」
 笑顔を取り繕えた自信は無いけれども、言葉は割とすんなりと口から出てきた。
「そりゃ、驚かせるためにやったようなものだからな」
 他の理由が有ったら……、ということを考えるのはやめておこう。
「びっくりしましたよ。何かされるんだろうなとは思っていましたが、まさか……、まさか、あんなことをされるとは思っていなかったので」
 ちょっと、具体的な単語を口にするのは少し躊躇われた。
 なんと言うか、流石に恥ずかしい。
「あのくらいしないと、お前が驚きそうに無かったからな」
 ……僕は一体何だと思われているんだろう。まあ、彼が思う『普通』の範疇からは逸脱した人間だと思われていることは間違いないみたいだけれど。
 これでも、あなたと同い年の普通の人間なんですよと……、言っても信用される気はしないけれども、そういう一面もあるってことを覚えておいてもらいたい、なんて風に思うのは、僕のわがままなのだろうか。
「……」
 そう……、彼は、驚かせるために僕の頬に口づけた挙句、耳を噛むなんてことまでして来たのだ。そして、その事実を許容している。
 自分がやったことを、ちゃんと認めている。
「……何か言えよ」
 言い方を探していたら、正面から両肩を掴まれた。
 見下ろしてくる視線に少しだけ不安げな色合いが混じっていたような気がするのは、きっと僕の気のせいではないのだろう。
「あ、いえ……、その、言ったら、嫌がられるかも知れないと思ったので……」
「言えよ、ここで黙られる方が気持ち悪い」
 それもそうか。
 演技で全て押し通せればそれはそれで良かったのかも知れないけれども、ここまで来てそれは無理な相談というものだ。
 今日は少し、普段見せないようなところを晒し過ぎたかもしれない。
 ……たまには、こういう日もありだということにしておこう。
「あ、あの……、馬鹿にしないでくださいね」
「しないって」
「あの……、少し、嬉しかったんです」
 要約してしまえば、それはとても単純なことなのだ。
 嬉しかった、本当に、それだけなのだから。
「……は?」
「いえ、だから……、嬉しかったんですよ」
 呆気にとられた反応は予想通りだったけれども、言い直すわけにもいかないので、僕は念を押すようにそう言った。
 彼は……、どう、思っているのだろう。
 いっそ罵倒されるか突き放されるかとも思ったのだけれど、そういう様子は無い。責任感のようなものを感じているからだろうか。それとも、諦めに似た感情を抱いているからだろうか。
「……なあ、お前、そっちの気が有るのか?」
 うわ、はっきり言ってきたし。
「ち、違いますよ。……そういう意味ではなくて、その、あの……」
 そんなもの、有るわけがない。普段の自分のキャラ立てを考えると、今ここではっきり否定して良いものかという気もするけれども……。まあ、でも、否定させてもらおう。
 僕が恋愛的・性的な欲求を感じる対象は異性に限られるし、同性と友情を超える関係を結びたいなんて思っていない。
 それは彼だって同じことだろう。……多分。
「はっきりしない奴だな」
「すみません……」
「……」
「えっと……、冗談だとか、悪戯の範疇だろうって事は、ちゃんと分かっているつもりですから、安心してください」
 別の危機感を感じたらとっくに逃げてます。
「けど、嬉しかったんです……。あなたが、悪戯とはいえ、僕に触れてくれたことに……」
 ちゃんと説明して、分かってもらおう。
 今日は、曖昧な言葉で誤魔化すのはやめておこう。今日だけは。
「……なんだ、そりゃ」
 彼が不思議そうな顔をしている。
「いえ、その……、もっと、嫌われていると思ってましたから」
 嫌いと、はっきり言葉に出来るような嫌悪とは違うのかも知れない。幾つもの感情が綯い交ぜになった結果として、互いに距離をとる。それが僕等の関係なのだから。
 ……だから本当は、僕がこの口づけを許容してはいけなかったのかも知れない。嬉しい、なんて言葉で崩すようなことをしてはいけないのかも知れない。
「……」
「だから、嬉しかったんです。ああ、そうか、悪戯でも、このくらいのことを出来るくらいには、僕のことを、受け入れてくれているんだなって思えて……」
 けれど、今だけは。
 今だけは、そういう風に思っていたい。
 僅かな迷いだけで境界線を乗り越えてきた彼に、そしてそれを否定しなかった彼に、それで良かったのだと伝えたい。
 あなたの選択は、間違いではなかったのだと。
「あ、あの、すみません……、これでは、あなたのことを信用してなかったみたいですよね」
 信じていますよ、本当に。
 その信頼が正しい形で伝わっているとは思ってないですけど。
「いや……、まあ、謝る所じゃないだろ、それ」
「ですが……」
「お前の言いたいことは、大体分かった。……それで良いだろ?」
 一度視線を逸らしてから、もう一度ゆっくりと僕の目を見据え、彼がそう言った。
「……はい」
 否定されないなら、それで良い。
 口外禁止と最初に約束した以上、ここで起きた出来事が時間的・空間的な広がりを見せることは無いのだ。
 だから、これで良い。
 ここで終わらせてしまえば、何の問題もない。
 僕はゆっくりと立ち上がり、何となく彼と顔を合わせ軽く笑ってみてから、どちらともなく帰宅の準備を始め帰路に着いた。
 通学路の坂を下る間会話らしい会話は何もなかったけれど、言葉など無くとも、僕にとってそれはかけがえのない時間だった。


   

 
 『月の虜』に収録『ひめごと』の古泉視点バージョン。(070510)