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ドーリィガール  プロローグ



 好きになった相手が自分のタイプ、という奴もいるし実際にそういう場合も有るんだろうが、人間誰しも一度くらいは自分の好みのタイプってのを考えたことが有ると思う。
 別に恋愛関係に限った話じゃない。それこそ一緒に過ごすならどんな性格のやつが楽だとか、ああいうタイプだけはお断り願いたいとか……全てにおいて前向きな解釈が可能、あるいは受け身な奴ならいざ知らず、誰だって一度くらいはそういうことを考えたことが有るはずさ。
 別に答えを出さなきゃいけないような問題じゃないし、真面目に検討する必要が有るわけでも無い。ただ何となく、そうだな、それこそ話題が無いときに持ち出す程度のことかも知れない。天気の話をするようなものだろうか。天気の話よりは大分相手の懐に突っ込んでいる気もするが、適当に合わせたり流したりするのが難しい話ってわけでも無いさ。時と場合を選ぶ必要があるとは思うが、その手の話をすること自体が失礼だとは思わん。
 俺だって今までに何度かそういう会話をしてきたことが有るし、これからもそういう会話をする機会が有るのだろう、とは思っていた。しかしながら、今俺の目の前で繰り広げられているような光景を目にすることになるとは思っていなかった。
「……好きなタイプ、ですか」
 俺から見て斜めの位置に居る古泉が、軽く首を傾げた。わざとらしい、妙に間を持たせた動作だが、何か適当な受け流し方を考えているんだろうか。
「そうそう、お前にゃこれってのは居ないのかよ」
 話題と口調の時点で有る程度想像がつく人が殆どだと思うのだが、古泉が首を捻るその横から話を振っているのは谷口である。というか谷口がこの話を持ち出したんだが。この二人が一緒に居る、という状況自体は別に良い。俺の知らぬところで古泉と谷口がつるんでいたりしたら一体何事かと思うが、ここに古泉を連れて来たのは他ならぬ俺自身だ。細かい経緯は後回しにするが、俺が昼時に古泉を五組の教室まで呼び寄せ、弁当を開き――そんなわけで、古泉は俺が持ってきた弁当を食っている。昼食時を共にすることが多い谷口と国木田が不思議そうな顔をしていたが、俺はその当然の疑問に対して「罰ゲーム」の一言だけで回答を済ませた。谷口は若干納得しかねる顔で有ったがそれ以上のツッコミを入れる気は無かったようだし、国木田はそれだけで納得した。ついでに言うと、クラスに残っている他の連中は最初から何も言って来なかった。何せ俺と古泉は、SOS団の団員、言わば『涼宮ハルヒとその仲間達』の一員だ。またハルヒ絡みだと思われているんだろう。
 でもって別に谷口と国木田の同席を断る必要性も無かったので、結局四人で机を囲んで弁当を食うことになった。谷口一人が若干不満を抱いていたようだが、国木田が「別に良いんじゃない、困ることが有るわけでも無いんだし」と言ったら、仕方なく、と言った様子で席に着いた。それでいて、何故谷口がこんなにも機嫌良さそうに古泉と話をしているのかは――正直俺にもよく分からん。最初は週刊誌に載っている漫画の話をしていた気がするんだが。何時の間にかその週刊誌に載っているグラビアの話しになって、それが何故か、という経緯だったかな。読んでない漫画の話なんぞされてもさっぱり分からなかったし、二人が口にしているグラビアアイドルの名前も知らなかったので、その辺りの会話はちゃんと聞いて無かった。漫画のタイトルだけは一応記憶に留める努力をしてみたが、三日後には忘れそうな気がしてならない。だが漫画の話はともかく、好み云々については多少の興味が有る。古泉がこういうところで正直な意見を述べるとは思い難いが、例え嘘だとしてもどんな嘘を吐くのかという点が気になった。
「そうですねえ……どちらかというと、大人しい女性の方が好ましいとは思いますね」
「長門有希みたいのか?」
「彼女は少しタイプが違いますね。それに、髪は長い方が好きですし」
「ああ、良いよな。ロングヘア! ショートも捨てがたいが、やっぱ女子はロングだよなあ」
「長くてさらっとした黒髪なんて、とても素敵だと思いますね」
 適当に誤魔化して終わるかと思ったのに、古泉は一応会話を続けている。テンションで言ったら谷口の方が高すぎるくらいだが、意思疎通は出来ているらしい。この二人が話している光景を眺めているってのも妙な感じだが、たまにはこういうのも有りだろう。
 古泉の回答は――まあ、無難なところなんじゃないか。上手くSOS団やその周囲の女性陣に被らないところを上げているみたいだし。さらさらロングヘアで大人しい女の子、なんて、SOS団とは無縁の存在だ。朝比奈さんはロングヘアだがやや癖っ毛だし、大人しいと言うほど大人しいわけでも無い。長門は静かなタイプだがショートヘアだ。鶴屋さんはさらさらストレートロングヘアだが、あの人はハルヒと同じかそれ以上に良く喋る。
「で、顔の方はどうなんだ? 垂れ目と釣り目とか、可愛い方か綺麗な方か」
「……どちらかと言えば釣り目の方が好みかも知れませんね。後者については何とも言い難いところですが」
「おお、そうか、まあどっちも捨てがたいよな。じゃあさ、」
「ちょっとあんた、何してんのよ!」
 パンっと、乾いた音が会話を中断させた。他人の出鼻と勢いを挫くこと関しては天下一品。如何なる時でも自分が主役じゃ無いと気が済まない女王様。世界の中心は自分だと信じて疑わない――涼宮ハルヒその人の登場である。
 そのハルヒが小銭入れで谷口の頭を引っ張ったいたのだ。終わりかけギリギリでも無い時間にハルヒが教室に帰ってくるとは、珍しいことも有るものだ。昼休みはまだ十分以上残っている。俺達の前に有る弁当も食べかけだ。
「ってー、何だよ……いきなり人を叩くんじゃねえ」
「うっさいわね。あんた如きがあたしの許可も無しにあたしの可愛い団員達から個人的なことを訊き出すなんて、許されるわけないでしょう!」
 突如登場したハルヒは、これまた当然のように暴君のような台詞を口にした。団員思いなのはいいが、これじゃ子供のプライベートな会話にさえ口出しし始めるモンスターペアレントと大差ないんじゃないか。
「んだよ、そりゃどういう理屈だよ」
「理屈も何も関係ないの。SOS団の中ではそうなっているのよ!」
 そんなの初耳だ。だが初耳だとしても今さら驚くようなところじゃ無いし、多分この辺の心境は古泉も同じなのだろう。奴は完全にだんまりを決め込んでいる。話を振られない限り口を挟まないことにしたらしい。賢明な判断だと思うね。俺が似たような立場だったとしても同じ態度をとるだろう。現に俺は口を挟もうなどとは思って無いし、もう一人の傍観者で有る国木田も、一見して無害そうな表情を浮かべながら嵐がすぎるのを待っている。
「……わけわかんねえ」
 安心しろ。俺にもハルヒの理屈なんぞ分からん。安心出来るところでは無いような気もするが、お前も長い付き合いなんだから多少は学習した方が良いと思うぜ。というか、これ以上話を続けないって選択肢を選んだだけでも、成長したって証しなのかね。
 不満顔のハルヒは適当な椅子を引っ張ってきたかと思うと、ちょうど古泉と谷口の間に椅子を置き、無理やり割り込んできた。幾ら机を二つくっつけているとはいえ、五人も集まるとさすがに少し狭い。だがこの状況に対して文句を並べるようなバカは谷口くらいしか居ない。
「って、まて涼宮、俺のおかずを勝手に食うんじゃねえ!」
「何時までも残しているあんたが悪いのよ! あ、こっちもおいしそうじゃない。貰うわよ」
「……好きにしろ」
 今更ハルヒにおかずを取られたくらいで文句を言う気にもなれないね。どうせ学食で目当てのメニューが売り切れていたか、残った物に上手く有り付けなかったってことなんだろう。食欲に纏わる諸々は人間の機嫌を左右させる。そういう意味ではハルヒもひとの子だ。元々二人分にしては多すぎる量を持ってきてしまったし、好きに食えばいいさ。


 騒がしいままの昼食時間が過ぎ、さて五時限目である。古泉は授業開始前に自分の教室へと戻って行った。ごちそうさまです、というその台詞を口にする時まで奴は場違いなほど爽やかだった。何時の間にかお弁当のおかず争奪戦を繰り広げていたハルヒや谷口と同学年だとはとても思えん。連中が幼いだけという気もするんだが。
「……あれ、あんたの持ってきたお弁当だったのね」
 五時限目の授業は古文で、どうもこの学校の古文の教師はやる気がないのか監視が甘いのか、クラスの彼方此方で授業と関係ない会話が繰り広げられているというのに、何の叱責も飛んで来ない。そんな状況だからだろうか、ハルヒの方から俺に話しかけてきた。
「ああ」
 ハルヒは俺が弁当箱を開けた後にやってきたので、その時点ではその弁当箱の持ち主が誰か分からなかったらしい。何せ俺が弁当箱を片づける時に目を見開いていたからな。古泉が作ってきたと思っていたのかも知れない。
「あんたが作ったの?」
「まあな」
 そういう約束だったんだ。
「ふうん、あんたが作ったにしては結構美味しかったじゃない」
 ありがとよ。だが別に俺はハルヒに褒められるために弁当を作ったわけじゃないぜ。谷口や国木田のためでも無いが。
「でも、なんであんたが弁当なんて作って来たの? あんたの弁当だって普段はあんたのお母さんの手作りでしょ」
 何でそんなことまで知っているんだ、と思ったが、わざわざ訊き返すようなところでもないか。俺とハルヒは同じクラスなんだ。たとえ昼食時に一緒になることが殆どないと言っても、お互いどこでどんな飯を食っているかくらい知っていたところで何ら不思議はない。俺以外のクラスメイトの誰かから聞いたんだろう。……などと長々と述べてみたが、普通、家族と同居中の男子高校生の弁当は母親が作っているもんだよな。普段から俺が作っていると思われていたら、そっちの方が問題な気がする。
「罰ゲームだよ」
「ボードゲームの?」
「ああ、そうだ」
「……古泉くんが負けたのね」
「へえ、良く分かったな」
 てっきりその逆だと勘違いされるかと思ったんだが。現に谷口と国木田は間違いなく勘違いしていた。谷口なんぞ、お前も大変だよなあと言って俺の肩を叩いてきたぐらいだ。別に放っておいたところで何の害も無いし、訂正するとややこしい説明をしなきゃけない羽目になりそうだったのでそのまま放置したわけだが、特に問題は無いだろう。元々俺と古泉しか知らないことだし、古泉が谷口に真実を告げるとも思えん。
「あら、ちょっと考えれば分かるわよ。古泉くんがあんたの作ったお弁当を食べたいなんて言いだすとも思えないもの。あんたが古泉くんに自分の作ったお弁当を食べさせたいって理由もよく分かんないけど……でも、そっちの方が納得出来る気がするわ」
 説明的な回答ありがとう。ま、俺自身そう思う。そう思うというか、実際にそうしたのは俺なんだが。賭けの内容は実に簡潔だった、俺が勝ったら俺が弁当を持ってくるからそれを古泉が食べる。古泉が勝ったら俺が普通に飯を奢る。どっちにしろ俺が古泉に飯を食わせるというのも変な話だが、俺が古泉の食生活の杜撰さに呆れた結果がこれだ。
「……ふうん」
 その辺のことをかいつまんで説明してやると、ハルヒはぱしぱしと大きな眼を瞬きさせた。なんだ、その反応は。こいつのことだから、じゃああたしが栄養の有るものでも作ってあげるわ! なんて言いだすような気がしたんだが、そういう様子でも無い。即断即決即行動タイプのハルヒにしては珍しく、何か考えているようにも見える。
「何か文句有るのか?」
 俺と古泉の間で有ったことだ。ハルヒに文句を言われるような筋合いはない。弁当が食べたいと言うのなら一度くらい作ってやれないこともないが、毎日はお断りだぜ。第一、俺が作ったところで味なんぞ高が知れている。
「そんなんじゃないわよ。……バカ」
 バカで悪かったな。


 ハルヒが予想外の反応を見せた理由は良く分からなかったが、あっという間に時間は流れて放課後となった。つまらんという感想しか出てこない授業中に起こったことを一々解説する必要も無いだろう。そうそう、ハルヒがそれ以上弁当や食生活に関する話を振ってくるようなことも無かった。静かなのが後々妙なことを言い出すための潜伏期間じゃないんと良いんだが。
「ああ、今日は遅かったですね」
 ホームルームの終わり頃に担任に掴まってしまった俺を出迎えたのは、部室の扉の脇に立つ古泉一樹その人だった。部室の中から何だかきゃいきゃいと元気な声が聞こえてくる。またハルヒが何かやっているのか。古泉が追い出されているという状況からして、朝比奈さんをモデルにしたコスプレの類だろう。やれやれ、せめて朝比奈さん自身も許容出来るようなまともな衣装だと良いんだが。
「担任に用事を押し付けられたんだよ」
 見た目よりも重いプリントを渡され職員室まで往復してきたんだ。労って貰えるようなことじゃないかも知れないが、遅刻したことに文句を言われるような筋合いは無いね。
「ご苦労様です」
 相変わらず張り付いたような笑顔だ。ちっとも労われた気がしない。もっとも、本気で言われても困るんだが。どこか突き放し気味なこの態度は、何時も通りの古泉の姿とも言える。
「ああ、お弁当、美味しかったですよ」
「……今更言うのかよ」
「言うタイミングが有りませんでしたから。まさか、涼宮さんが戻ってくるとは思いませんでしたよ。彼女も美味しそうに食べていましたね。あなたが作ったものだとは気づいて無かったようですが」
 普段の振る舞いや見た目の印象から考えたら、そう思ってもおかしくは無いだろう。もっともハルヒは「罰ゲーム」という俺の発言の裏のカラクリにはちゃんと気づいたわけだが。
「さすがは団長、と言ったところですね」
 古泉の台詞がどこまで本気なのかはよく分からない。ハルヒを褒めているのか、貶しているのか。子供っぽいところを愛でているような雰囲気は有るが、それは果たして見守るだけってことなのかどうか。俺にはその仔細なんて分からないし、分かりたいわけでも無いんだが、この、消化しきれない何かが腹の奥底に溜まったままのようになっている感覚は一体なんなんだろうね。
「お待たせー! 見て見て、みくるちゃんの新衣装よ!!」
 いきなりドアを開いたハルヒが俺と古泉を部室の内側へと巻き込み、そこで俺達の会話は打ち切りと相成った。この団長様の勢いに敵うものなんぞ存在するわけも無い。部室内にいらっしゃった朝比奈さんの麗しさも加われば、ついさっきまで隣に立っていた男に対する些細な疑問など吹き飛んでしまう。
 ハルヒが用意したという、朝比奈さんの新衣装であるところのどこぞのウェイトレス服は、これはもう大変に可愛らしく、その点については何の文句の着けようも無かった。朝比奈さん自身は少々恥ずかしがっていたようだが、彼女もいずれ慣れることだろう。これを着て外に出ろって言われたりしないなら、これ以上朝比奈さんの心の平穏を荒すことも無いし、俺や古泉が余計な心配をする必要も無い。平和で良いことだ。
「さあ、じゃんじゃん撮るわよ!」
 にわか撮影会と化した部室の中で、レフ板を持った古泉が若干らしく無い表情を浮かべていた気もするが、そんなことは知ったことじゃないね。


 ――知ったことじゃない、と言ってしまうのは簡単だが、全く気にならなかったというわけでも無いんだ。少なくとも一昼夜開けても覚えている程度の記憶では有った。忘却の彼方に埋もれなかったことを喜ぶべきなのか、悲しむべきなのか。どちらでもない、中庸としか言いようがないところを漂っている気もするのだが、さて、ことの結論はどこへ向かうのだろうか。疑問に思った理由さえ分からないのに結論だけ求めても仕方ない気がするんだが。
「……これで終わりだな」
 原点回帰とでも言うのか、放課後の文芸部室の中での俺と古泉のボードゲーム対決は、ここ最近はオセロを始めとした基本的なゲームに戻っていることが多かった。ルールが複雑だろうと簡単だろうと古泉の弱さには何の代わりも無いんだが。
「おや、負けてしまいましたね」
 事実をなぞるだけの声音から悔しさを感じ取ることは出来ない。毎回毎回本気で向かって来られても困るんだが、負けたことが何の負い目にもなってないような状況ばかり続くのもいかがなものか。負けるのが楽しいなんてことは無いと思うし、勝負を楽しんでいるように見えるときも有るし、古泉が勝つということも無いわけでは無いのだが。……何というか、やりがいの無い勝負ばかり続けていると、別のことばかり考えそうになっちまう。やれやれ、これじゃ暇潰しにすらなってない。
「ハルヒ達、遅いな」
「ええ、遅いですね。……あまり大事になってなければ良いのですが」
 その意見には同意しておくよ。
 面倒なことが増えた場合の尻拭いが誰に回ってくるかなんて考えたくも無いね。
 本日ハルヒは不在なのだが、どうやらハルヒは朝比奈さんを片手に、お披露目がどうのこうのと言って部室から消えて行ったらしい。らしい、というのは俺が実際にその場面を見てないからだ。部室に着いたら何故か古泉と長門だけが居て、ハルヒが居ないのはともかく朝比奈さんも居ないということは何か有ったんじゃないかと思って古泉に事情を聞いてみたら、そんな説明をされたのだ。あの新衣装の朝比奈さんを外に出したのか! と思ったが、抗議すべき相手は目の前にはいなかったので、俺は項垂れるだけだった。ハルヒを追いかけて校内を走り回り、二人まとめて回収して来るような根性は無い。……まあ、俺もそれほど深刻に心配しているわけでは無いのだ。古泉がわざわざ止めようとしなかったことから踏まえて、放っておいても大丈夫ってことなんだろう。朝比奈さんには少々気の毒な気がするが、今のところ大事になりそうな気配はない。ハルヒ相手に『大丈夫』と思ったことが後でひっくり返されたことなど一度や二度では無いが、起こってないことまで心配しても仕方がないじゃないか。
 どうもこの一年数ヶ月の間に妙な方向に達観する癖がついてしまった気がするが、それは古泉も同じのような気がした。こいつも余り先のことを心配しているようには見えない。
「なあ」
 オセロの駒を弄びながら思い出すのは昨日の出来事だ。昼休みの取り留めのない会話と、レフ板を持っていた時に見せたらしくない表情。何がどうらしくないのかと問われると説明し辛いのだが、普段あんな不満そうな顔を見せるのは珍しい。笑顔の一部であるそれを『不満そう』と解釈するのもどうかと思うが、一年以上毎日顔を合わせていれば、特に努力などしなくてもその程度のことは自然と読み取れるようになる。
「昨日……何か嫌なことでもあったのか?」
 どうやって話を切り出そうか、なんて迷ってしまったのが良く無かった。ここで言葉に詰まるのもおかしいだろうと思って少々焦ったのかも知れない。変な質問をしちまったな。嫌なことってなんだ、嫌なことって。
「いいえ、特に何もありませんでしたよ」
「なら良いんだが……」
 いや、ちっとも良くない。
 古泉はそれで良いかもしれないが、俺の疑問は何一つ解決していない。疑問、というほど大層な物じゃないのかも知れないが、気になることは確かだ。
「お前、昨日言ってたことって本当なのか?」
「何のことですか?」
「昼休みのやつだよ」
「ああ、あれですか。……そうですね、嘘では有りませんよ」
 それはあれか。さらさらロングストレートも良いけど、ショートも良いですね、でもセミロングも、とかいうことじゃあるまいな。それじゃ答えてないのと同じだぜ。
「……癖の無い長い黒髪が好きなんですよ」
 古泉は苦笑を浮かべたが、その苦笑は普段の張り付いた笑みよりはよっぽど自然だった。言うことに多少の抵抗が有ったみたいだが、言わないよりは言った方が良いと判断したってことなんだろう。声と表情で大体分かる。
 癖の無い長い黒髪か。ふと、俺の脳裏に一人の少女の姿が浮かび上がる。長い黒髪、釣り上がった大きな眼。固く結ばれた唇。古泉の言う「大人しい」の定義には絶対に当てはまらないタイプだろうが、外見だけだったら――好み、だったのかね。
「黒髪が良いのか?」
「染めているよりは自然のままな方が良いですね」
 念を押すような俺の質問に対して、古泉は実にあっさりと答えた。さっきまでの抵抗もとい言い難そうな様子はどこへやら。俺が何を思い浮かべたかということを察知した上で割り切ったみたいだ。だが、それは半分正解で半分間違いだ。古泉が俺の思い浮かべたその人物に会ったことなど無いし、俺は『彼女』の正確な外見を、古泉を含めたこの世界の人物に説明してやったことなど一度も無い。別に説明しても良かったんだが、時間の都合や分かりやすさを理由に殆どすっ飛ばしていたからな。
「何か思い当たる方でもいらっしゃるんですか?」
「……いいや、別に」
 我ながら白々しい会話だと思うが、俺と古泉が思い浮かべたのは全く同じ人物じゃない。俺の方にだって古泉が思い浮かべたであろうその姿に覚えが有るんだが、俺が思い出したのはそっちじゃない。どうして二者択一の状況下で、わざわざ相手が知らない方のことを考えるのかって? そりゃあ、あの世界――あの、長門がエラーによって改変してしまったあの世界で、古泉がハルヒのことを「好き」だと言ったからだ。
 実に分かりやすい理由だね。それ以外の理由も何も無い。後にも先にも俺が古泉からその手の話を聞いたことなんぞ無い。あの特殊すぎる状況を、この世界(こっちの世界の方が特殊なのかも知れないが)と比べても仕方がない気がするが、あの世界の古泉にとってあれは間違いなく本音だったんだろう。あの時古泉はハルヒを好きだとは言ったものの、その髪型や顔形については全く触れていなかったが、容姿に惚れたって部分も少なからず有るんじゃないのか。そうじゃなきゃあんな女を好きになるわけがない。
 この世界の古泉がハルヒを好きだとは思えないし、何かしらの感情を持っていたとしても、それがストレートな恋愛感情だってことはまずないと思うんだが、基本的な好みは同じだってことなのかも知れない。同じだからどう、というわけではないが、新しいことを一つ知り、それと同時に心の奥に有った疑問がふっとほどけていったみたいだ
「……なんですか、その顔は」
 悟りの書というほどではないが、新しい呪文を覚えた魔法使いくらいの気持ちになった俺に対して、古泉はまるで呪いにかかった鎧を着てしまった戦士のような苦々しい表情を浮かべていた。
「は?」
「とぼけるんですか、あなたは……ああ、そんな風に勝ち誇った顔さえも無意識の産物なんですね」
 いやいや、別に俺はそんな顔はして無いだろう。勝ち誇ったってなんだよ? 俺は別に古泉に勝ってない。誇ってもいないし、そもそも誇れるようなことなんて無いぞ。ゲームの戦績程度で胸を張れるとも思えん。
「だから、あなたとこういう話をしたくなかったんです」
 何がどう「だから」なんだ。俺にはその経緯がさっぱりだ。好みがどうって話を俺とはしたく無いってことかよ。谷口は良くても俺はダメってことかよ。なんだそりゃ。意味が分からん。
「……帰ります。涼宮さんには急用ができたと伝えてください」
「って、おい……」
 古泉はぱっと立ちあがると、俺の声も聞かずにあっという間に立ち去ってしまった。ゲームはまだ途中だったのに、完全放置だ。な、なんだったんだ……理由がさっぱり分からん。全くもって意味不明だ。古泉の行動が謎めいていたり一見矛盾して見えたりするのは今に始まったことじゃないが、今回ばかりは本当に何もかもがさっぱりだ。なんでこの話がダメだったんだ? ていうか、谷口は良くて俺がダメっていう理由が見当たらないぞ。その逆の話題ならそれこそ腐るほど思いつくんだが。
 考える間に古泉の足音は既に聞こえなくなっている。あの様子からして戻ってくることは無いだろう。理由はさっぱり分からないが、今の状態じゃ携帯にかけても拒否されそうだ。仕方ない。気になることは気になるが、落ち着いた頃合いを見計らってから改めて話を振ってみるか。
「……うおっ?」
 背中側に圧し掛かるような重っ苦しいオーラを感じて振り返ってみると、長門がじーっと俺の方を見据えているところだった。現在この部屋には俺と長門しかいないので、視線の主が長門なのは当然と言えば当然なんだが、長門がこんな風に俺の背中を見ている、というのは珍しい。そもそも、嘗て長門が俺に対する視線にこれほどの威圧感を搭載してきたことが有っただろうか。いや無い。
「な、長門……どうしたんだ?」
 まともに質問出来ただけ上出来だと思いたいね。俺を焼き殺すんじゃないかと思えるほどの熱量を隠しもせずに投射してきた長門は、ふっと視線を持ち上げ、正面から俺と目を合わせた。……どんな表情をしていいか分からなくなりそうだ。
「……」
 ようやく長門の瞳から炎が去ったが、全てを溶かした後に凍りついたかのようなガラス質は、見事なまでに何物も写して無かった。古泉の行動の意味不明さとどっこいどっこいだ。なんだよ、一体何を考えているんだよ。
「……わたしも帰る」
 余計なお喋りは無用ということなのだろうか。
 長門はさっと本を閉じると、俺を部室に残しさっさと帰ってしまった。


 古泉の行動の意味不明さは、その後の長門の行動の不可解さも有ってか、随分と奇妙なものとして印象付けられてしまった。どっちかだけなら良いんだ。古泉はそれなりに、長門は多分に、普通とは言い難い行動をとることが有る。だが双方の行動が重ねられることはそう多くない。奇妙奇天烈な事件が発生している時ならいざ知らず、そういうわけでも無いようだし。
 はて、一体何が有ったんだろうか。
 状況の変化というより心境の変化だろうというところまでは想像がつくのだが、それが何で有るかっていう心当たりが全然無いのだ。俺に好きなタイプを知られちゃいけない理由って何だ? まさか古泉がハルヒを好きとか? いやいや、それは無いだろう。幾らあの古泉とはいえ、ハルヒを好きなんてことは――無い、と思う。例えそうだったとしても、それを俺に知られちゃいけないってのは変じゃないか。別に古泉が誰を好きになろうと古泉個人の自由意思だ。協力出来るとは限らんが尊重はしてやる。
「キョン、あんたさっきから変」
「……変ってなんだよ」
「変って言葉にそれ以上もそれ以下も無いわ。どうせまたろくでも無いこと考えていたんでしょ」
 変なこととろくでもないことはイコールでは無いと思うんだが、ハルヒの中では同等の物として扱われてしまうらしい。こいつの価値基準なんて知ったことじゃないし知りたいとも思わないが、俺は何時もこいつの不可解な言動で苦労させられている。時々で良いから誰か変わってくれないか。今はハルヒのことを考えているような余裕はないんだ。
 俺の傍らで眉を顰めるハルヒは、表情はともかくとして、顔立ちだけなら十人中七、八人くらいまでは振り返りそうな美少女だ。俺はこいつ以上に「喋らなければ良いのに」という評価が似合う奴を知らない。語るまでも無いが次点は古泉で、朝比奈さんは喋っていた方が微笑ましいので無関係だ。
「こっち見てないでちゃんと前向いて歩きなさいよ、ぶつかるわよ」
「……へいへい」
 俺だって壁や柱に激突したくない。手に持ったガラクタ同然の荷物が詰まった段ボール箱重い。やれやれ、何で貴重な休み時間にこんな荷物運びのようなことをさせられているのだろう。昼休みも半ばを過ぎた頃にいきなり連れ出されたかと思ったら、演劇部から譲り受けたという古いガラクタを持たされたのだ。一体何に使うつもりなのやら。ろくでも無いことが始まらなきゃ良いのだが。
「あら、古泉くんとみくるちゃんじゃない、珍しいわね」
 曲がり角のところでハルヒがぴたりと足を止めた。へえ、珍しいことも有るものだ。放課後ならいざ知らず、学年の違う朝比奈さんが休み時間に他の団員と一緒に居るなんてことは滅多にない。
「あっ、こんにちは」
「こんにちは、涼宮さん」
 二人が順番に頭を下げる。朝比奈さんの手元にはプリント、古泉も同じ物を持っている。一番上に有るものを見て分かった。これは三年生の授業で使うプリントだ。
「あの、そこで古泉くんに会ったら、運ぶのを手伝ってくれるって言ってくれたんで……手伝ってもらっているんです」
 なるほど、学年やクラスが違う者同士が偶然出会って行動を共にしている理由としては実に妥当だ。朝比奈さんと同じクラスの連中は何をしているんだと言いたいところだが、昼休み中だし、たまたま一人のところを呼び止められて用事を押し付けられていたのだろう。そういう場合にクラスメイトに会うよりも前にそれ以外の知り合いに遭遇するのは、別に不思議なことでも何でもない。
「ああ、そういうことだったのね。うん、良い心がけよ。親切の押し売りと安売りは良く無いけど、か弱い少女相手に手を差し伸べるなんて正しく紳士の鏡ね」
 褒めるのは良いが余計な言葉が多く無いか。別に古泉は親切の押し売りなんぞしないだろう。笑顔は安売りしまくっているようだが。
「いえいえ、このくらいどうということも有りませんよ。ちょうど行き先が同じ方向でしたからね」
 昨日の様子などどこへやら、古泉は視線の位置を変える最中に一瞬俺と目を合わせても、そこで笑顔を崩したりはしなかった。当然と言えば当然なんだが、妙にムカつく。
「そちらを手伝えないのが申し訳ないですね」
「良いのよ、気にしないで。SOS団の力仕事は基本的に雑用がやることなんだから、副団長である古泉くんが気にする必要はないわ」
 へいへい、どうせ俺は力仕事くらいしか出来ませんよ。ハルヒの頭越しに視線を持ち上げると、もう一度古泉と目が合った。別に何時も通りの表情だ。こいつに力仕事を押し付けることが出来たら多少楽になれる気もするが、出来もしないことを願っても仕方が無い。SOS団内部での役割分担を決めるのは団長であるハルヒに一任されている。男手や力仕事の担い手が二人以上必要な時はともかく、そうじゃなきゃ古泉は基本的に頭脳労働と場所の提供が担当だ。
「じゃあ、あたし達これを届けてきちゃいますね。二人とも、また放課後に」
「ではまた」
 朝比奈さんが頭を下げ、古泉もその横についていく。まるでどこかの姫と騎士の組み合わせのようだ。こっちは平民の子供その一とその保護者レベルだってのに。
「またね、みくるちゃん。あ、あんまり古泉くんをこき使っちゃだめよ!」
 お前が心配しなくとも、朝比奈さんに人をこき使うなんてことが出来るわけないだろう。
「ひゃ、ひゃ〜い」
 長い髪を翻しつつ、朝比奈さんが廊下の向こうに消えていく。
 ふむ……何だろうな、この、妙な違和感は。
 別に、何か妙なことが有ったわけじゃないのだ。古泉が朝比奈さんに手を差し伸べている、そんな場面に遭遇しただけだ。別におかしなことじゃない。俺が古泉の立場だったとしても同じことをしただろう。校内にいる以上自分の都合というものもあるが、休み時間だけで出来るようなことなら何の問題も無い。例え弁当がまだだったとしてもそんなもんは後で食えばいいのだ。
「ちょっとキョン、あんた何固まっちゃっているのよ」
「……何でも無い」
 促されるまま歩き始めてみたものの、心は先ほどの疑問を引きずったままだ。どうやらそう簡単に切り替えられるほど器用には出来てないらしい。状況そのものよりも、何でこんなに気になるんだ、という単純な疑問が心の中に染み渡ろうとしている真っ最中だ。固形物じゃないのできっちりと分けることも出来ない。このまま放っておくと、俺の中の古泉に対する認識の全てに疑問の色が浸透してしまいそうだ。それはそれでどうかと思うんだが。
「ねえキョン、あんた古泉くんと喧嘩でもしたの?」
「……は?」
「だってあんた昨日から様子がおかしいわよ。昨日古泉くんが先に帰ったって言ったときも何だか変だったもの」
「別に喧嘩なんかしてないって」
 古泉が俺の良く分からない理由で俺に怒っていて、俺の方がそれを疑問に思っているという状況では有るが、これは喧嘩とは言わないだろう。単なるすれ違いだ。単なる、と言ってしまえるほど簡単なものでは無いのかも知れないが、深刻になりすぎても仕方が無い。
「ふうん……」
 納得しかねるようなハルヒの視線は、相変わらず前方と俺の方を行ったり来たりしている。そんな風に余所見状態が続くと転ぶぞ、と思うのだが、ハルヒの足取りに迷いはない。慣れた学校の中だからってのも有るだろうが、こいつはバランス感覚も良いのだろう。荷物のせいで前に進むのでさえ苦労している俺とは大違いだ。
「古泉くんは普段通りに見えたし、あんたが喧嘩して無いって言うのなら喧嘩じゃないのかも知れないけど、やっぱりなんか変よ」
「なんかって、何がだよ」
 別にどこも変じゃないだろう、という気もしたのだが、例えほんの一瞬であってもハルヒの意見を聞いてみたいなどと思ってしまったのは、きっとこの状況に対するヒントが少なすぎるせいだ。俺には気づかないこともハルヒなら分かるかもしれない。ハルヒは昨日その場にいなかったわけだが、こいつは結構団員の様子をちゃんと見ているし、勘も良い。
「……そうね、古泉くんがみくるちゃんに良い格好を見せているのが気に入らないっていうのなら分かる気がするのよね。男ってそういう生き物だし」
 悪かったな。
「でも、さっきのあんたはそういう様子じゃなかったのよ。古泉くんが自分にはあんな風に気を使ってくれなさそうだから、不満を感じたんじゃないかしら」
「……そうか?」
「あたしにはそう見えたってことよ」
 ふむ……いや、別に、ハルヒの言葉に真っ向から反論したいわけではない。そういう側面が有ったかもしれない、という程度の認識は有るんだ。だがその部分が先ほどあげた良い格好云々より先に来るということも無いだろう。俺はそんな風に気を使ってもらうような立場じゃない。女子であれば、一人でもなんとかなる肉体労働を男性に手伝って貰うという場面も有りだろう。だが、男同士でそんなものが必要だとは思えない。自分の力で出来ることは自分でやるさ。
「自覚なさそうだけど、あんたはみくるちゃんが羨ましかったのよ」
 何故そうなる。
 逆はともかくそれは有り得ないだろう。有るわけが無い。ハルヒなんぞに期待した俺が間違っていたのだ。こいつは勘は悪くないが、困ったことに究極の勘違い暴走女でもある。
「あのなあ」
「ほらほら、早く動きなさいよ、休み時間終わっちゃうわよ。五時限目に遅刻したらあんたのせいなんだからね」
 聞く耳持ってねーし。


 反論し損ねたせいで、というわけでは無いだろうが、ハルヒに言われた言葉はなかなか俺の頭の中から抜け落ちていってくれなかった。そんなわけはないだろう、と思う。思うのだが……はっきりそうだと言い辛いのは、昨日古泉の不可解な行動を見てしまったせいだろうか。あのこととさっきのことに直接関係は無いのだが、全く無いとは言い切れない。俺の態度が不自然、あるいは不可解に見えたせいで反発を招き寄せた可能性だって有る。俺自身には何の実感も自覚も無いのだが、振り返ってみる必要が有るんだろうか。
「あれ、今日は朝比奈さんだけなんですね」
 放課後、何時ものようにノックをして部室に入ると、中には可憐なウェイトレスさんだけが立っていた。メイド姿じゃないのはハルヒがこっちを着ろと言ったからだろう。返事の声が朝比奈さんだった時点でハルヒは不在だろうと思ったが、長門と古泉も居ないとは思わなかった。
「涼宮さんは長門さんと一緒に出て行っちゃいました。古泉くんは今日は授業が多い曜日だからじゃないかしら」
 ああ、そういやそんな曜日も有るんだった。普段はあまり意識しないのだが、特進クラスだけ授業が一時間多い曜日が有るのだ。一週間で一時間程度増やしたところで何の意味が有るのかという気もするのだが、何故か時間割でそういうことになっている。
「ハルヒはなんで出て行ったんですか?」
「ううん、良く分からないです。わたしは留守番をするように言われただけですし」
 それじゃ仕方ないか。どうせろくでもないことをしているんだろうが、被害が少なければそれで良い。俺は定位置で有る椅子に腰を下ろし、朝比奈さんが入れてくれたお茶を啜った。至福と言っても良いくらいのこの上無い幸福の時間だ。ハルヒのようにうるさい奴も居ないし古泉が妙な話を振ってくることも無く、長門が異常事態の発生を匂わせていたりもしない。
 極めて平和で平穏なその時間を朝比奈さんにもおすそ分け出来たら、と思ったが、彼女は俺の向かいで刺繍を始めていた。おっと、これじゃゲームに誘うようなことも出来ないか。仕方ない、一人でのんびり時間を潰すことにしよう。だが、一人で時間を潰すと言っても特にやることが有るわけじゃない。宿題をやる気にもなれないし古泉のように一人でゲームをする趣味も無いし、長門の蔵書を読むような気分でも無い。
 幸福感は有る物の、何も無い手持ち無沙汰な時間。持て余している、と感じたのが悪かったんだろうか。
「キョンくん、どうしたんですか? 溜め息なんて吐いちゃって」
 空になった湯呑の中をぼんやりと見ていたところ、朝比奈さんに声をかけられた。彼女は、お使いを頼んだ我が子が違うメーカーの物を買ってきてしまったのを叱るに叱れない母親のような表情を浮かべていた。俺は何時の間に溜め息なんて吐いていたんだろうか。自覚は全く無いのだが。
「……いえ、何でも無いんです」
「本当に?」
 何も無い、とは思う。そりゃあ昨日今日と変な態度を取られたり妙なことを言われたりしているが、朝比奈さんとの間には何も無い。古泉と長門の不可解な態度と、ハルヒの理不尽な決め付け。これで朝比奈さんとの間にまで何かあったら俺は本気で頭を抱えるね。登校拒否になるかもしれない。
「ハルヒに変なことを言われたんです」
 話してみようと思ったのは、話せば何かヒントが貰えるかも知れないと思ったからだ。昼休みのハルヒのように妙なことを言われる可能性もあるが、ハルヒよりは朝比奈さんの方が大分まともだから、その分まともな意見を貰える可能性の方が高いだろう。
「変なこと?」
「ええ、昼休みのことですけど。俺の態度が変だって指摘されて……朝比奈さんのことを羨ましがっているんじゃないかって言われました」
「……わたし?」
「そうです。古泉が俺相手に同じことをしてくれるとは思えませんしね。とはいえ、それが理由で俺が朝比奈さんを羨ましがるってのも変な話だと思うんですが」
 自分のことなのに何となく説明的になってしまうのは、言われたことをちゃんと自分の物として受け止めて無いからだろう。ハルヒの言い分はおかしいと思う。しかしそうだと言い切れる確信は無い。自分に何の問題も無いと言い切れる時なら、こんなことは勘違いの一つで済ませてしまうのだが。
「ううん……わたしは、涼宮さんが間違ったことを言っているとは思えないですけど」
「どうしてですか?」
「えっと、そうですね。こういう言い方もおかしいかなって思うんですけど、キョンくんは古泉くんに気を使ってほしいって思っているんじゃないかな。誰かと比べて、っていうことじゃないとは思うんですけど……」
 俺が古泉に? 何で気を使ってほしいなんて思うようになるんだ。そりゃあ、もうちょっと気を回して……あれ、これじゃそう思っているってことになるのか? いやいや、そうじゃないだろう。日常的に気を使って欲しいと思うところが有るとしても、それは別に自分一人でこなせる範囲の力仕事を助けてくれってことじゃないぞ。
「そりゃあもうちょっと気を回せって思うときは有りますけど、あれはそういう場面じゃないでしょう」
「うん、でも……」
 朝比奈さんはそこで一旦言葉を区切った。その視線がぐるりと円を描くようにして部室内を回っていく。古泉をはじめとした、ここに居ない団員達のことを考えているのかも知れない。
「でも、キョンくん、古泉くんのこと好きでしょう」
 ……。
 …………は?
「あ、好きって言っても恋愛感情とかじゃないですよ。その、人間的にって意味です」
「あ……ああ、なるほど……」
 ……びっくりした。いきなり何を言い出すのかと思ったぜ。そりゃあ、人間的な好き嫌いって意味でなら別に嫌いな方じゃないんだ。あえてどっちかに分けなきゃいけないっていうのなら、好き、という方に分類しても差し支えないとさえ思う。でなきゃ毎日毎日顔を合わせてゲームなんぞするか。
「だから、その……キョンくんはキョンくんで、その『好き』って思う分だけのことをしているんだと思うんです。自覚が有るかどうかは分からないけど……その分、古泉くんからも同じだけの何かが欲しいって思っているんじゃないかなあ」
 自分のことだと思わなければ、朝比奈さんの話はそれなりに筋の通った物に思えた。好きだから、あるいは何らかの便宜を図っているから、その見返りが欲しい。まあ、想いや便宜の程度にもよるが、そう考えるってこと自体は別に普通のことだ。真っ当だと言っても良い。ハルヒ的超パワーや古泉的屁理屈が入る隙間も無い。
 だが、これが自分のこととなれば話は別だ。俺が古泉に何かを求めている? 一体何を。そもそも自分の方が何をしたかも分からないってのに、何を求めているっていうんだ。奴に便宜を図ってもらったりしなくても別に何も困らない。そりゃあ、もうちょっと融通を聞かせろ、と思うような場面に遭遇したことは一度や二度じゃないし、そういう状況になること自体は特別でもなんでも無いんだが。
「キョンくん、古泉くんと何か有ったの?」
「いえ、特に何もありませんよ」
 何も無いというわけじゃないが、これ以上朝比奈さんを心配させても仕方が無いだろう。全面的に同意することは出来ないが、彼女の意見は頭に中に留めておこう。何かの役に立つかもしれない。藁にも縋る思い、というほどじゃないが、ヒントが足りないのは相変わらずだ。
「それなら良いんですけど……」
 朝比奈さんはまだ何か言い足りなさそうな顔をしていたが、俺達のお喋りの時間はそこまでだった。ガチャリと、ノックも無くドアが開く。おい、ノックくらいしろよ。
「いえ、中から話し声がしたものですから」
 爽やかな笑顔に若干の棘を感じたのは俺だけでは無かったのだろう。隣で朝比奈さんが軽く肩を震わせた。
「ああ、朝比奈さん、先ほど涼宮さんが昇降口のところで呼んでいましたよ」
「え? 涼宮さんが……あの、あたしだけですか?」
 朝比奈さんがチラリと俺の方を見た。なんだか助けを求めているようでもあるし、俺に救いの手を差し伸べようとしているようでもある。一瞬、ここで手を取り合ったら二人して溺れていくフラグが立ちそうだ、なんて風に思ってしまった。
「そうです、あなただけですよ。僕等はここで待つように言われました」
「そうですかあ……。じゃああたし、行ってきますね」
 朝比奈さんは俺に向かってぺこりと頭を下げると、ゆっくりとした足取りでその場から立ち去って行った。歩調は緩やかだったものの、何時もと違う衣装で外へ出ることに対する躊躇いは感じられない。思考が別の方向へ傾いていたからだろうか。
 さて、これで取り残されたのは俺と古泉だけだ。
 昨日の今日、という状況では有るし、微妙な空気を好転させるような要素なんぞ何一つ見当たらない。せめて他に誰か居れば違ったのかも知れないが、完全に二人きりだ。古泉はふっと吐いた溜め息とともに笑顔の色を薄れさせてから、つい先ほどまで朝比奈さんが座っていた場所に座った。俺は当然その向かい側。普段だったらボードゲームを挟んでってところなんだろうが、今日はその気配さえ無い。
 古泉の方が冷戦を決め込むような態度を取っているからなのか、沈黙がいやに重かった。他のことをする気分にもなれない。古泉は俺の方を見ずに鞄から取り出した本に目を通していたが、全身から俺を突き放すような空気を放っている。話しかけるな、関わるなと態度で示されているみたいだ。
「……なあ」
 沈黙を守ることこそが最良の手段であり、ここで相手を刺激しない方が事態は好転したのかも知れない、という単純な結論に俺が気づくのはもっと後のことだ。この時の俺は、ただ、この沈黙に耐えられなかった。だってそうだろう。俺はこうなってしまった原因すら分からないんだ。
「お前、なんでそんなに怒ってるんだ?」
「別に怒ってなどいませんよ」
 そんな中途半端な笑顔で言われても信用出来るわけがない。古泉のことをろくに知らない奴が見たらただ笑っているだけに見えるんだろうが、俺から言わせてもらえればこんなのは完璧な不機嫌顔だ。見ているだけで背中が冷たくなってきそうだ。
「……っ」
 ぐっと息を飲み込み、次の言葉を探す。ここで、嘘吐け、なんて言って子供みたいに噛み付いてみるのは簡単だが、それじゃダメだ。そんな子供っぽいやりとりじゃ、古泉の言葉は引き出せない。俺の知らない理由で俺に対して静かな抵抗を試みる古泉が、そんな方法で心を開いてくれるわけが無い。心を――そもそも、古泉は俺に心を開いてくれているのか? 俺に分からない理由で冷たい雰囲気を醸し出す古泉を見ていると、今まで自分が見てきたものが揺さぶられてしまう。こいつが俺に見せている部分が本当の姿だなんて確証は無いんだ。
「なあ……お前は、俺のこと――好きか嫌いか、どっちだ」
 散々考えた後に口から出てきたのは、実に単純な質問だけだった。
「……いきなりどうしたんですか」
「良いから答えろ。どっちでも良いってのは無しだぞ」
 シンプルな回答を待ちながら目を瞑らなかった自分を褒めてやりたい。どんな答えが返ってくるかなんて、想像がついていたんだ。同じ質問をされた場合の俺の回答は先ほどの朝比奈さんとの会話の通りだが、古泉が同じ答えを持っているわけが無い。
 そう、古泉が――古泉の答えは、俺とは違う。

「大嫌いに決まっているじゃないですか」

 呼吸をするのと同じくらい自然に発せられた台詞が、部室内の空気を震わせる。鼓膜に届くまでの間、その言葉の余韻が消えない間、俺はどのくらいの絶望感を味わったのだろう。僅かなはずの時間が、俺の肩に重く圧し掛かる。
 古泉はただ柔らかな笑みを維持したままで、それ以上の言葉や意思など存在しないと言わんばかりだった。
 頭を殴られる以上の衝撃を受けた俺は、意味を成さない言葉を言い返すようなことすら出来なかった。古泉が俺にマイナスよりの感情を持っていたとしてもおかしく無いとは思っていた。そもそも、好きになれる要素が有るような相手でも無いだろう。古泉の立場から見れば、俺の存在なんてただ利用すべきものに過ぎないのだ。協力、という単語を用いるような状態になることは有っても、そこに本当の意味での連帯感が必要なわけじゃない。船の転覆を防ぐのに敵も味方も無い、そういうことなんだ。
「……僕に嫌われるのがそんなにショックなんですか?」
 古泉が笑っている。深く刻まれたその笑みは、嬉々として凱旋する時の若き名将のようだ。ハルヒが王なら、こいつはそういう立場なのだ。ということは、俺は自国で策略にはまって進軍さえ出来なかったライバル将校その一ってところか。で、古泉は俺が嫌いだが、俺はそうでも無い、寧ろ人間的に好意を抱いていると。――なぞらえるのもバカバカしいが、妙にピタリと嵌る例えだ。
「別に良いじゃないですか、僕があなたを嫌いでも、あなたは何も困らないんですし」
 ……違う、そんなわけない。
 俺は古泉のことが嫌いじゃない。嫌いじゃ無いどころか寧ろ好きで、好きだからこそ、好きでいて欲しくて――伝えたいことが言葉にならないのはどうしてだろう。重い空気のせいか? 男同士でこんなことを口にするのはなけなしの自尊心が許さないからか? そういう問題じゃないだろう。言って伝わるとは限らないが、言わなきゃ何も始まらないのに。
「たっだいまーっ」
 俺の思考に一時停止をかけたのは、バンっと予告も無く開いた扉から現れたハルヒだった。長門と朝比奈さんもそれに続いて入ってくる。当然聞こえたはずの足音なんて全然耳に入らなかった。衝撃の余韻を残したまま顔を上げ、ハルヒと目を合わせてしまう。ハルヒがパシパシッと瞬きを繰り返す。不穏な空気、いや、俺の様子が不自然であることに気づいたのかも知れない。ハルヒの勘は悪くない。
「ちょっとキョン、あんた何か有ったの?」
「……別に何も無い」
「うそ、あんた顔色悪いわよ。熱でもあるんじゃないの?」
「無いって。いたって健康そのものだよ」
「そんなわけないわ。何だか死に損ないのゾンビみたいな顔だもの。……あんた、今日はもう帰りなさい。帰って家でしっかり休むこと、これは団長命令よ!」
 いきなり横暴な、と思ったりもしたが、逆らう理由は無かった。今は部室に居たくない。古泉と同じ場所に居たくない。ハルヒが現れたせいか古泉の周囲から拒絶のオーラは消えているようだが、俺は古泉の方をまともに見ることさえ出来なかった。
「……分かったよ」
 俺は軽く首を縦に振ると、荷物を手に部室を後にした。


 ハルヒに促されて帰宅したわけだが、宿題をやるような気分にもなれず、俺はただベッドの上に座ってぼーっとしていた。
 古泉に「大嫌い」と言われたことが相当ショックだったらしい。なんだよ、その程度のことで――と、思えたら良かったんだろうが、そういうわけにもいかなかった。なんだか自分の弱さを見せつけられてしまった気分だ。
 古泉が、俺のことを……そりゃあ、好かれていると思っていたわけじゃないさ。でも、あんなにはっきり――いや、言わせたのは俺なんだが、だからって、あんな風に言わなくたって良いじゃないか。言いたくなるほど、取り繕えないほど、俺に嫌気がさしていたのかも知れないけどさ。仕方ないじゃないか、俺には古泉が不機嫌になった理由なんて分からなかったんだ。
 ああ、言い訳を続けている自分が嫌になる。俺がもっと器用なら、俺がもっと勘が良ければ、こんなことにはならなかったんだろうか。
「くそっ……」
 布団に突っ伏して視界を閉ざしてみても、見えてくるものなんて何も無い。
 明日、どんな顔して会えばいいんだよ。


 ――なんて、そんな風に答えが見つからないままうだうだと考えていたのに、翌朝、事態は急転直下の展開を迎えることになった。
 
 

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