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no fast no first 01



 最初彼が肉体関係を拒否したのは当然のことだと思った。
 何せ男同士だ。つきあうということになった時点で彼が性的な関係に至ることを想定していたとは思い難い。だから、残念だがこれは仕方ないことだ。身体を繋げなくても可能な性欲の解放の手段まで否定されたのは寂しかったがこれもまた仕方ないことだろう。……したいという気持ちはあったが何より彼を傷つけたくなかったから僕はその欲求を抑えることができた。元来僕はそれほどがまん強い方ではないのだが急いては事をし損じるということくらいは理解しているつもりだった。
 それが確か付き合い初めて一月経つか経たないかという頃の話でそれから半年近く過ぎた今も僕らの関係に何ら進展はない。あの時のまま、キス止まりも良い所だ。あれからも何度か求めてみたけれどもその度に拒否され続けて今に至る。
 そんなお預けをくらい続けている状況に不満が無いと言えば嘘になるが僕の中に降り積もっていくのは不満よりも疑問の方が比重が大きかった。
 どうして彼はこれほどまでに拒否し続けるのだろう。僕に彼を傷つける気はないし痛いのが嫌だと言うのなら最初は身体を繋がないところから始めればいい。何も焦る必要はない一つずつ前に進んでいけば……、と思うのに僕は未だスタート地点に立たせてもらってすら居ない。何せ彼は僕が服を少しまくりあげようとしたり股間に手を延ばそうとした時点で逃げる。一度ふとしたことから押し倒しそうになったときは本気で抵抗されて僕は腕に傷を負った。体格でも腕力でも一応自分の方が上だが本気で抗ってくる彼と相手を傷つけないように暴れる彼を押さえつけるしか出来ない僕では端から勝負にならなかったのだ。
 その時は状況が状況だったので明らかに僕も悪かったと言えるのが、怪我をした僕を見て頭を下げる彼とそれより少し前の抵抗し続けていた彼の姿を見比べて言いようのない違和感を抱いた。我に返ったと言えばそれまでかもしれないが明らかに行動が噛み合っていない。そしてその噛み合っていないという事実に彼も気づき始めている。……彼が無言のまま気づいていながらもどうにもならない自分を責めているように見えるのは僕の気のせいではないだろう。
 そんなことがあり以前以上に注意深く彼のことを見るようになってから一つ気づいたことがある。彼が拒否するその瞬間、彼が僕を見ていないという事実に。
 彼は、僕ではない誰かのことを思い出して彼は僕を拒否している。そして彼自身はそれに気づいていない。彼はそんなに器用な方ではないが気づいた上でのことだった自分の意志でどうにか出来るだけの意志の強さを持った人だ。それがないということはこれは彼にとって無意識下でのことなのだろう。
 一体誰が、いや、一体何が彼を苦しめ続けているのだろう。
 状況から考えて想像出来るものはいくつかあるがそれはどれも想像の域を出ないようなものだし、何より、彼に直接確かめられるようなものではない。記憶から抹消され記録にも残らないような、同姓との性的な接触に対する嫌悪を引き起こすような出来事……、そこから連想されるのは笑えない想像の数々だけだ。
 その、笑えない想像が真実であるという確証などどこにもないがその想像を抱いてからというもの僕は彼に対する肉体的接触を控えるようにしている。キスや、抱きしめるくらいは平気だったのだがそれも少し数を減らし距離を取った。それは僕にとって辛い選択だったが彼のことを思えば仕方のないことだった。過度な接触は彼の心を乱す危険性がある。押し倒しそうになったときだって本当は二人で同じベッドに入って眠っていた弾みで、というような状況だったのだ。同じ轍は踏みたくない。
 彼の心の奥底に眠る物を解決しない限り僕はこの先へ進めない。けれど、僕には彼の心を掘り起こすようなことは出来ない。無意識のうちに眠るトラウマが一体どれほどのものかなんて想像さえ出来ないからだ。ごく普通の、それこそ平凡な幸せに浸かって生きてきたかの様に見える彼を蝕んでいる過去。
 彼に恋心を抱いたことに後悔は無い、彼が僕の告白を受け入れてくれたことも。
 けれど僕は、もしかしたら、触れてはいけないものに触れてしまったのではないのだろうか。彼の心の底に眠る暗闇。それは多分、同性から性的な接触を求められるという事象が無ければ決して表面上に上ることなど無かったはずのものだ。僅かとはいえそれを引き出してしまった責任は間違いなく僕に有る。彼は、何も悪くない。
 進めないまま突き放し切れないまま、別れようと言いだす勇気も無いまま、今日も僕は彼の隣に居る。これから、どうすれば良い? 戻ることも進むことも出来ない袋小路で悩み続けるまま、今日も僕彼の隣に居ながらも彼を抱き寄せることすら出来ないでいる。





 古泉が俺と距離を取っている。
 キスをする回数が減ったし抱き寄せてくる腕に以前ほど力がこもっていない。まるで、今すぐここから自由に逃げてくださいと言わんばかりだ。
 古泉はばれてないと思っているのかもしれないが表情はともかくこんな分かりやすい行動、気づくに決まっている。確かに最初は気のせいかと思ったさ。だけど、クリスマスの夜、キスはしたのにそのまま抱きしめられることもなく別れの挨拶を交わすなんて不自然過ぎるだろう。これでも俺達は付き合っているんだぞ。恋人同士だ。俺の方がある程度以上の接触を拒否しているから関係自体は全然進展してないが……。
 そう、付き合って半年近く経つのに俺達の間には肉体関係が存在しない。古泉が求めているのは分かっているんだが俺が未だにそれを受け入れられないでいるからだ。だって怖いじゃないか、自分も男なのに、男相手に身体を開くなんて……、付き合うと決めた以上どっかで腹をくくらないといけないんだろうが最初に求められた時俺にはその申し出に頷けるだけの勇気が無かった。
 古泉は、痛いのが嫌なら、最後まで至るのが怖いなら、身体を繋げずに出来ることから初めても良いんですよと言ってくれたりもしたのだが……、俺はそれさえも断った。身体を繋げず、例えばお互いの手や口を使ってとか……、想像してみると生々しすぎるが、俺だってそういうことに興味くらいある。自分でする方については何とも言えないが、される側ならなってみても良いかもしれない、とかさ。他人にしてもらうってどんな感じなんだろうかってことに対する純粋な興味と好奇心。けど、俺は……そういう興味や想像は頭の中にあるのに、実践してみるまでに至ってないのだ。
 痛いはずはない辛いはずもない相手は恋人で、と思ってみても、心のどこかが警鐘を鳴らし続けている。警鐘、という単語が相応しいのかどうかは分からないが他に言いようがない。俺は古泉の要求を受け入れたいと思うのに身体が言うことを聴かない。自分の意思を超えたところで勝手に抵抗を始める。
 本能的な恐怖心ってやつなんだろうか? それとも、何か別の理由が有るのか?
 理由って何だ理由って。俺には全然思いつかないぞ。そりゃあ、古泉に迫られて色々考えることは有るわけだが根っから嫌だって思っているなんてことは有り得ないし無意識に拒否するような理由もない。じゃあ、何が理由何だ。
 古泉が俺を遠ざけている理由についてはその辺が原因なんだろうなってのは何となく分かっている。けれど俺には自分の身体が勝手に古泉を拒否する理由が分からないから開いてしまった溝を上手く埋めることが出来ない。キスをせがんだり抱きしめられるのを自分から望むというのは、ちょっと。それは俺のキャラじゃない気がするんだよな。キャラがどうのなんて言っている場合でもないと思うんだが。これって普通に考えて破局フラグなんじゃないか? と思うのは間違ってないと思う。古泉だって、ずっと抱けもしない相手と付き合って居られるほど我慢強くは無いのだろう。けれど自分から告白した手前振ることも出来ず、俺の方から別れ話を切り出すのを狙っているとか。……有りそうな話だよな。
「んっ……」
 寒い中布団を被りながらベッドの上で眠っている古泉のことを想う。古泉の家に泊まりに来るのはこれが初めてじゃないが一度押し倒されかけてからは同じ布団で寝ることは無くなった。抵抗した時に本気で腕を振り払って奴に怪我をさせた俺は気遣うように同じ布団の中はまずいですね、と言ったその言葉に逆らうことが出来なかった。あの一件は古泉も悪かったが俺も悪かった。大体、あの状況で我慢しろというのが無理な話なのだ。男子高校生の性欲がどういうものかってのは俺だってよく知っている。俺の方はどうなのかって? 幸か不幸か俺は古泉に対して性的な欲求を抱いたことは殆ど無いのだ。古泉が時折見せる悩ましげな横顔や熱っぽい言葉に背中が痺れるようなことは有ってもそれが性的な何かに変換されるかどうかというと答えは否――。と、はっきり言いきって良いものかどうか微妙なのだが性的な衝動に走る前に何かが俺の行動に歯止めをかけているような感触は有る。それが何、という質問に対する回答は用意できないのだがこれも多分俺が古泉の要求に応えられないのと関連していることなのだろう。
 本当に、一体何が原因なんだろうな。
 ベッドまでの距離は二メートルもないからこの布団の中を抜け出して古泉の隣に寄り添っていっそ身を任せてしまっても良いとさえ思えるのにそれをするだけの勇気も思い切りもない。何かが俺の行動をずっと押し留めている。背中を覆うような黒い存在。名前も形もないそれが俺の周囲を取り巻いている。それは古泉じゃない、古泉が俺の恐怖を誘うような存在になるなんてことは有り得ない。じゃあ、それは一体……。
「……くそっ」
 堂々巡りの頭を抱え込むようにしながら俺は無理矢理思考を振り払う。古泉がどう考えているかはともかくとして俺の方に別れるような意思は無いんだ。告白して来たのは古泉の方身体が俺も絆されてしまったのだろう。その割に何一つ進展してないという問題を抱えているわけだがそれはそれだ。俺は古泉が好きだし古泉の恋人でいたいし出来るなら求められる物を差し出したい。それなのに、どうしてそれが出来ない? 理由なんて知らない原因なんて分からない。何の手がかりもないまま放りだされ手を伸ばすことさえ出来ず俺はただ動きだせずに居る。なあ、どうしたら良いんだよ。
 誰か、教えてくれよ。


 快適とは言えない寝覚めを迎えた朝、俺は一人ぼんやりと天井を見上げていた。
「……だりぃ」
 ヤバい、風邪引いたかも、と思った時にはすっと差し出された手が俺の額に触れていた。割合真剣な表情をした古泉と目が合う。
「熱が有りますね。一応体温計を持ってきますからそのまま寝ていてください」
「あ、ああ」
 そっと肩を押されて起き上がるのを留められた俺はそのままの体勢で布団を少し上の方へと持ち上げた。身体が寒い、寒いのに熱い。この矛盾した状態は明らかに風邪だ。古泉と同じ部屋で同じように寝て特にどちらがうすぎだったわけでも布団が足りなかったわけでもないのに俺の方だけ風邪をひいた原因が有るとすればそれは多分寝不足による体力低下が原因だろう。何せ一月も半ばという寒い季節だ。不摂生はすぐに身体に響く。
「大人しくしていてくださいね」
 俺は子供じゃないのに耳に差し込むかたちの体温計を持って来た古泉はそう前置きを置いてから俺の体温を測った。金属の感触が少しくすぐったい。
「37度8分。今日は大人しく寝ていてくださいね」
「ん……、分かった。悪いな」
 今日は二人で少し遠くまで買い物に行く約束になっていたはずだ。ハルヒが家の予定だから週末にSOS団の予定が入らないことが確定している貴重な休日なんだ、二人っきりになれる良い機会だからその時間を満喫しようと、そう、思っていたんだが。
「いいえ、気になさらないでください。昨日の時点で気づかなかった僕にも落ち度は有ります」
「いや、それは……」
「何か?」
「何でも無い」
 昨日の時点では風邪を引くような様子なんて見せていなかったからお前がそんなことを気にする必要は無いと言ってやりたかったがやめておいた。一々説明して追及されるのも面倒くさい。寝不足の原因を誤魔化せるほど頭がまわりそうな状態でも無いからな。こうしてあれこれ考えている最中にも頭がキリキリと痛んでいるんだ。そんなに酷いもんじゃないが無理はしない方が良いんだろうな。
「何か食べれそうですか?」
「……今はやめておく」
「では、ゆっくり寝ていてください。昼過ぎにでもまた起こしますからその時までに消化の良い物を用意しておきますよ」
 そう言って古泉は俺の頭をそっと撫で、その手を目の上の辺りに置いた。これで眠れってことか。やれやれ、看病っていうよりまるで子供扱いだな。ちゃんと寝るけどさ。
 放っておくと子守唄でも歌いだしそうな古泉の手を軽く振り払って、寝るから、お前がいるとかえって落ち着かないからと言って部屋らから追い出した。古泉は少し傷ついたような顔をしていたがそれ以上何か言ってくることは無かった。古泉がいると落ち着かないという俺の発言ん及びその認識は余り間違っていない。昨日だって何度立ち上がってその寝顔を見ようとしたことか。居ない方が楽だなんて恋人としては間違っているんじゃないだろうかとさえ思うのだが実際こうなってしまうともうどうしようもない。触れるだけの距離居ながら自分から次の一歩を踏み出せないなんて状況は拷問も良い所だ。自覚したのがクリスマスの頃だから、それから約三週間。SOS団で行動しているときは良いがこうして古泉と二人きりになるとどうして良いのか分らなくなる時が有る。もう、キャラがどうの破局フラグがどうのなんて思っている場合じゃないのかも知れない。古泉の心が俺の所にあるなんて到底思えない……、と、そう思う一歩手前くらいまでは来ているのだ。それなのに家に誘って来たのは古泉で俺はそんな古泉に疑問をぶつけることもなくこの家に泊まりに来た。そして、やっぱり何も無かった。
「古泉……」
 言いたいことも訊きたいこともたくさん有る筈なのに何一つ言葉に出来ない。
 そんな自分が嫌だと思うのに古泉の方からどうにかしてほしいなんて思っている俺は、やっぱり、どうにかしている。


 昼過ぎになっても俺の熱は下がらず起き上がることは出来たが頭痛は相変わらず続いていた。
「今日一日寝た方がよさそうですね」
「あ、ああ……」
 答える声が覚束ないのが自分でも良く分かる。こんな状態になってまで考えるのは古泉のこと、いや、古泉と自分の関係のことだ。古泉は優しい。甲斐甲斐しく世話をしてくれるしコンビニのものでは有るが粥やらゼリーやら病人の胃にも優しそうなものを色々買って来てくれた。俺のことを気遣っているのだが同時にこの世話をするという状況を楽しんでいるようですらある。
 古泉が一体どう思って俺の看病をしてくれているのか知らないが日々離れていく距離を感じていた俺としては何とも不思議な気分にさせられる。今の古泉にも昨日までの古泉にも偽りは感じられない。じゃあ、この矛盾は何だ。突き放しながらも弱っていたら優しくするなんておかしいだろ。そういう趣味が有るってわけでもなさそうだし。
「口に合いましたか?」
「そこそこな」
「良かった。何分自分では食べた物が無い銘柄でしたので」
 そうだったのか。まあ、粥なんて健康な人間が率先して食うものじゃないから食べたことがない銘柄だったとしても不思議はないか。当たりで良かったな。これが不味かったら俺の機嫌は確実に悪くなっている。現時点でも機嫌が良いとは言い難いが。
「何だか浮かない顔ですね」
「風邪だからだろ」
「それだけだとは思えませんが」
 古泉が顔を近づけ俺に視線を合わせてきた。こうして近くで見ると古泉の顔の造形がとても整っていることがよく分かる。これだけ顔がよければどんな相手でも選び放題だろうに何で俺、という、既に通り過ぎて久しいような疑問が俺の頭のもう一度通り抜けていく。本当に、どうして俺なんだろう。同性の方が傍に居て気楽だとか性欲処理のためだとか言うのならば分からなくもないのだが抱けもしない相手のどこが良いんだろうな。
「ただの風邪だ。それ以上でもそれ以下でもない」
「それならよろしいのですが……。余り無理はしないでくださいね」
「分かっているよ」
 言葉で突き放してもう一度布団の中に潜りこむ。
 古泉が本気で心配してくれるのが分かるという事実が居た堪れない。距離をとっているのは古泉の方のはずなのにどうしてそんな風に振る舞えるんだろう。矛盾する二つの事実が俺の胸を締め付ける。いっそその優しさのまま抱きしめて不安さえも消してくれたら俺は楽になれるんだろうか。
「あの、本当に……」
「何でも無いって言っただろう! けふっ、けほっ……」
「ああ、気をつけてください。体調が悪いときに無理をしてはいけませんよ」
 声を荒げてせき込む俺の背中を古泉が布団の上からさする。そんな厚い布団越しに触れたって意味なんて無いだろうに。こいつ結構バカだ。でも、そんな馬鹿な仕草は嫌いじゃないんだ。
「……」
 何を言ったらいいんだろう。優しくされるたびに募るのは虚しさだけだ。抱きしめてもくれない癖に優しくしないでほしい。そりゃ、今の俺は病人だから、あんまり近付くと風邪が移る危険性が有るわけだが。
「どうしたんですか、一体……、何か気になることでも有りましたか?」
「……お前が、優しいから」
「え?」
「何で、優しいんだよ。……俺から離れようとしている癖に」
 熱で思考が緩みきっているせいなのか言うタイミングを失っていた言葉が想像していたよりも存外あっさりと唇から漏れてきた。
「何を、言っているんですか。僕は、そんな……」
 少しだけ震える声がそれが図星なのだと言外に告げている。俺の発した言葉が唐突過ぎたせいで上手く表面上を取り繕うことが出来なかったのだろう。そして、俺がその反応を正しく読み取ったことに気づいたのか古泉はそのまま黙ってしまった。誤算だったとでも思っているんだろうか。
「突き放すか優しくするかどっちかにしてくれ。……そういう態度だと、どうすれば良いか分らないじゃないか」
 どうするも何も自分はただ離れることも近づくことも出来ないまま触れるかどうかの距離で古泉の傍に居ることしか出来ない。古泉が好きだから。だけど求められることに応えることが出来ないから。足りないままの恋人で居ることしか出来ない。古泉が、それじゃダメなんだと言葉にしてくるその日までは。
「それは……」
「曖昧なのは嫌なんだ。嫌なら嫌ってはっきり言って欲しい。そうしたら、そうしたら……」
 どう、するんだっけ。
 ああ、ダメだ。ここから先は声にならない。何度も何度も想像したことだけれども言葉にするには勇気も思い力も足りなさ過ぎる。だって俺から言い出すなんて出来ない。曖昧なのが嫌だというのは本当だけれどもこの曖昧な距離を自分から崩すなんて不可能だ。突き放されれば自分でどうにかしようと思えるのかも知れないが自分から突き放すことなんて……、無理、だ。
「嫌では有りませんよ。あなたのことは誰よりも好きです。その気持ちに変わりは有りません」
「じゃあ、なんで……」
「何故と問われたら、回答はただ一つなのでしょうね」
 古泉は笑った、のだと思う。視線を逸らしていたから表情はよく分からない、ただ、さっと布団を剥がされ急に寒気が襲ってきた時にはそんなことを考えている余裕は無かった。一体何がと思う間もなく身体を引き寄せられ唇を唇で塞がれる。
 やめろと思う暇も言うタイミングも無かった。ただ、その舌が唇の上を張った隙にのしかかってくるような体重を殆ど力任せに突き放していた。
「あっ……」
「こうなることが分かっているから距離を取ろうと思った。それではいけませんか?」
「それ、は……」
 古泉のいうことは何も間違って居ない。近づいてくれば近づいてくるほど突き放したくなる衝動が湧きあがる今の自分に対して古泉が一定以上近づいて来れるわけがない。古泉なりに気を遣ってくれているんだということを俺はたった今理解した。馬鹿だろ、俺。そういうことにはもっと早く気づくべきなんだ。気づいてどうにかできるような問題じゃないとしてもちゃんと気づいていればこんな馬鹿なやりとりをせずに済んだのに。
 傷ついたと言うよりもただ俺のことを慰めたいと思っていることが丸分かりの様子の古泉が少し離れたところで俺を見守っている。どうしてそんな表情が出来るんだよ。確かに今のは突然過ぎだったが悪いのは明らかに俺だ。だからお前が傷ついて落ち込むべきなのにどうしてそうならないんだよ。悪いのは俺で、被害者はお前なのに。
 これじゃ、俺の方が被害者みたいじゃないか。
「俺、は……、お前とキスがしたいし抱きしめ合いたいしお前が求めてくれる物を、ちゃんと、お前にやりたいんだ……」
 実行が伴わない言葉に説得力なんて無いと分かっているはずなのに勝手に言葉が紡がれていく。普段だったら絶対に言わない、言えるわけもないようなことなのは確かだが今は熱のせいで大分事情が違うらしい。らしい、というのは自分でも自分の行動が御しきれないからだ。何、言っているんだろうな。
「ええ、知っていますよ」
「……え?」
「あなたが、そういう風に思いながらもその通りに出来ない理由を……、何となくですけど、想像がついているんですよ」
「じゃ、じゃあ……」
「ですが、それをあなたに言うことはできません」
 ぴしゃりと、冷たい声で古泉は言った。
「なっ、ど、どうしてだよっ」
「どうしてでも、です」
「気づいているなら教えてくれよ。俺は……、俺は、知りたいんだ。俺はお前を受け入れたいんだ。無意識に身体が動く理由って何なんだよ? 俺は何も知らない、何も分からない。けど、お前がそれを知っているって言うのなら、教えてくれよ……」
 ああ、俺はまた古泉を頼っている。
 自分で正解に辿りつけないからってこんな風に古泉を追い詰めて一体どうなるっていうんだ。古泉だって苦しいんだ。性的な衝動も俺への労わりも俺の知らない何かに気づいたことも……、その全てをひっくるめて、それでも古泉は笑っているんだ。俺何かのために。
「……知っている、というわけではないのです。僕はただあなたの言動から原因を推測したにすぎません」
 古泉の冷たい表情が僅かに揺らぐ。言えないんじゃない言うことに迷っているだけだ。だったら言葉を引き出してやれば良い。
「それでも、良い」
 何も無いよりは想像でも推測でも良いから何か有る方が良い。一体何が俺の行動の自由を制限しているのか。俺はその答えが知りたい。たとえば古泉が思ったことが正解じゃないとしても分析好きの古泉の意見を聴いた後でなら答えに繋がるものが得られるかも知れない。
「多分、これは……、あなたにとって、聴くに堪えないことです」
「なんだよそれ」
「何、と言われてもそうとしか言いようがないのですが。……それでも、聴きますか? 聴かなかった方が良かったと思うようなことなんですよ」
「……言ってくれ」
 古泉の深刻すぎる表情が気にならなかったと言えば嘘になるがここまで来てお預けを食らうなんてことに耐えられる自信は無かった。たとえ古泉の言葉がどんなに衝撃的だろうと知らないよりは知った方が良い、と。
 ――その時の俺は、そんな風に思っていたんだ。

「あなたは……。多分、同性からの性的虐待を受けた経験が有るのだと思います」

 一瞬、古泉が何を言っているのか理解出来なかった。
 性的虐待、せいてき、ぎゃくた、い……。単語が頭の中でくるりと回るものの着地する場所が見つからず想像の中を漂うような感じだ。それが何を意味する言葉なのか分らないわけじゃないのに言葉が上手く消化されない。
「もちろんこれは僕の想像の範囲のことですから確証は有りません。しかし、同性からの接触を過度に拒む要因として考えられる原因としてはそれが一番有り得そうな話です。具体的なことは分かりませんし、恐らくあなた自身はその時の衝撃が理由で記憶を排除しているのでしょうが」
 古泉が推測の裏付けをするように話を続けるが決して難しくないはずのその話の内容が俺には理解出来なかった。いや、理解したくなかった。
 性的虐待? 俺が? 俺にはそんな記憶はないし俺の周囲に虐待なんてことを強いて来るような変態はいなかった。少なくとも、俺はそう記憶している。でも、古泉のいうことが確かなら、俺はその記憶を忘れているってことになるのか? 何だ、それ。
「俺、が……」
 ドンっと、下腹部に衝撃のようなものを感じた。古泉に触られたわけじゃない寒さに負けたわけでもない。痛い個所は胃腸の辺りとは少し違う。この場所は……、と、考えていたら今度は急に猛烈な吐き気が襲ってきた。
「うっ……」
「だ、大丈夫ですか」
 古泉が手を伸ばしてくるがその手を取ることも突き放すこともできぬまま俺は布団とパジャマの上に盛大に胃の中身をぶちまけていた。胃液と食べ物の匂いが混じった嫌な匂いが鼻につく。
「あっ」
「あ、服が。……す、すみません、今着替えを。いや、そうじゃなくて、お風呂を」
 何でだろう、古泉の方が慌てている。俺も決して冷静と言えないわけじゃないんだが。別に古泉は何も悪くない古泉はただ俺にせがまれて推測を口にしただけだ。そう、それだけなんだ。
「ごめん、服と布団、汚しちまって」
「そんなことはどうでも良いんですよ。ええっと、そうですね、まずは服を脱いでシャワーを浴びましょう。このままじゃ気持ち悪いですよね? 風呂を沸かしても良いのですがそれだと時間がかかり過ぎますので」
「あ、ああ……」
 そうだな、確かにこの状態は気持ち悪すぎる。着地点の無い言葉がぐるぐる廻っているせいで匂いもべたつきもあまり気になっていなかったが幾らなんでもこのままにしておくわけにはいかない。口の周りや顎にもかかっているから着替えるだけってわけにもいかないしそろそろ寝汗が気になって来ていた頃なのは確かだからここは古泉の言うとおりシャワーを浴びるべきなのだろう。
 慌てたままの古泉に促されるまま、差しのべられた手を断って俺は一人風呂場へと向かった。服は洗濯するので適当に置いておいて良いと言われたので適当に脱いで風呂場に入る。古泉が住んでいるマンションはどういう人間が住むことを想定しているのか知らないがユニットバスでは無くちゃんと風呂場とトイレが別のそこそこ立派な作りをしている。
 シャワーのコックを捻り水が肌に心地よい温度のお湯になったところでそれを頭の上から被る。髪を洗う気は無かったんだが出来れば全身を洗い流したかった。昨日の夜からかいていた汗とさっき身体にもかかっていた吐瀉物が流れ落ちていったのを確認してから、スポンジでボディソープを泡立て、身体中に泡を塗りたくる。汚いものが全て落ちてくれるように、出来るだけ念入りに……、おかしいな、何で俺はこんなに真剣になっているんだ。ただ身体を洗うだけのことにこんなに情熱を傾ける必要なんてない。そもそも今は風邪をひいているんだ湯船に浸かるならともかく半端に浴びているとかえって冷えることもあるシャワーをこんなに長く浴びている必要なんてないじゃないか。
 古泉の言った言葉が頭の中で巡っているせいだろうか。
 性的虐待、って……、そんなわけないだろう俺の周りにはそんなことを強いて来るような変態はいなかったお前の思い違いだ、という風に言い返せなかった。こみ上がって来た吐き気と言いたくもないような場所の痛みが古泉の推測が事実なんだと訴えている。
 一体何時、どこで、そんなことが有ったんだ。
 俺の記憶には何も無い何も覚えていない。記憶から抹消された出来事だと古泉は言った。衝撃が強すぎて強制的に排除したのだと。
「あっ……」
 思い出そうとと思ってみても何も思い出せずただ同じ場所を思考が巡り続けるだけだ。衝撃のまま思い出せたらいっそ楽だったんだろうか。それとも、事実を突き付けられても思い出せないほど辛い出来事だったんだろうか。
「あの、そろそろあがった方が良いと思いますよ」
 扉の向こうから古泉の声が聞こえる。ああそうか、少しシャワーを長く浴び過ぎたな。これじゃかえって冷えてしまう。馬鹿だなあ、ただでさえ風邪をひいているのに余計長引かせるようなことをしてどうするんだよ。いくら古泉が優しいからって甘え過ぎだな。そう、古泉は優しいんだ。優しいから推測を口に出来なかった、最後まで言うことを迷っていた。ああそうだな、お前の言う通り、これは、聴かなかった方が良かったことなのかもな。知らないで通り過ぎることが出来たら……、いや、それは無理だ。こうして言ってもらえなければどこかでトラウマが爆発していた可能性だってある。だから、これで良かったんだ。
 身体はだるいし頭はぐちゃぐちゃだし忘却のかなたにあることを思い出せたわけでもなかったが、きっと、これで良かったんだ。


 古泉が用意してくれた着替えに袖を通し蒲団は吐瀉物で汚れたため俺はベッドの方で眠ることになった。僕が寝ていたところですけど、と言って力なく笑う古泉を見て、ああ、俺はこいつに言わせたくないことを言わせてしまったんだということに気づいてしまった。言われた俺の方の衝撃も凄かったが古泉だって言いたくなかったのだろう。古泉は優しいから、もしかしたら、全部分かった上で、言わないまま俺の心が離れていくのを待っていたのかも知れない。だってそうだよな、古泉とこんな関係にならなかったら行動に反映されることも無かったような出来事だ。俺は古泉が男だから好きになったんじゃなくてたまたま好きな奴が男だったってだけのことだ。好きって言って来たのは古泉の方だったが、俺だって古泉が好きなんだ。絆されちまったって言った方が良いのか? 何にせよその事実に揺らぎは無い。だから俺は古泉の隣に居たいし古泉の要求に応えてやりたいと思うのに今は古泉に触れることさえ出来ない。不確かで衝撃的な一言が胃の上に重くのしかかっているみたいだ。いや、不確かという表現は適切じゃないな。これだけ動揺しているんだ。古泉が言った言葉が真実だったのだろう。


 
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