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酔っぱらいとケチャップと


 酔うのは別にかまわないというか、二十歳を超えた以上節度を守って飲酒に興じるくらいはまあ許してやらないことも無い、というのはごく普通の成人男子の感覚、だと思う。
 同居人という立場上多少他人よりうるさくなってしまう面はあると思うのだが、そうだとしても、たとえば古泉が少し遅く帰って来て、一人で酒を飲んで酔っ払って、ちょっと台所を汚した程度なら――何も、言わないでやったさ。
 しかしなんだこの惨状は。
 まさしく惨状としか思えないような、この赤い海は。
 一瞬血かと思って肝を冷やしたが、俺はその次の瞬間には血にしては鮮やか過ぎる色合いを見てその正体に気づいた。
 何てことはない、ただのケチャップだ。
 ……問題は、そのケチャップが台所中に塗りつけられている上、どうやらその張本人らしい古泉が冷蔵庫の前で眠りこけているという方にある。ついでに言うと本人もケチャップ塗れなんだが、どういうわけか古泉が晩酌をしていたらしいテーブルの上にケチャップが必要そうなものは見当たらなかった。
「おい……、古泉、起きろ」
 とりあえず当人を起こさないと話にならない。ぺちぺちと顔を軽く叩いてみたら、古泉はうっすらと目を開き始めた。場所が場所だからか、熟睡という感じでは無かったのかも知れない。
「へ……、あ、おはようございます」
 血じゃないと分かっていても、赤い海で目覚める古泉を正面から見てしまうのはあまり気分の良いものじゃなかった。別に古泉が血塗れな所を見たことが有るわけじゃないが、何となく、今はすでに遠い昔となったはずのことを連想させてしまうからだろうか。
「お前、これは何だ?」
「え? これ? ……え、えええええ。何ですか、これ……」
 俺の背後、赤い海と化している空間を見て古泉が目を見開く。一応付け加えていくと古泉の服のそこかしこにもケチャップがついてたりするんだが、触覚より視覚の方が分かりやすかったのだろう。手を持ち上げた古泉が、手に付いた赤を確認して、ひっ、と小さく息を飲んだ。
「ケチャップだな」
「あ、あ……そう、ですね……。ああ、良かった……」
 良くない、と言い返してやりたいところだが血の海よりはマシで有ることに間違いはないので、俺は反射的に良い返したい気持ちをぐっと堪えた。
「お前がやったんだろう?」
 この家の住人は俺と古泉の二人きり、他の誰にも合鍵を渡していないという状況を踏まえると、とてもじゃないが他に犯人が居るとは思えない。
「え、あ……、そう、なんでしょうか……」
 どうやら当人には記憶が無いらしい。まあ、覚えていたら起きた瞬間にあんなに驚いたりしないか……。古泉はそんなに酒に弱い方じゃないはずなんだが、たまに、こうして飲み過ぎて記憶を飛ばしてしまうことが有る。ひとの酒癖に一々ツッコミを入れるつもりはないし記憶を失ったこと自体に関してはあれこれ言うまい。しかし、なんでケチャップなんだ。
 このマンションは賃貸で、汚れが増えれば増えるほど敷金が引かれるというのに……。
「……すみません」
「掃除するぞ」
「……はい」
 反省は、一応しているみたいだな。
 まあ……、一人で掃除をしろとは言わない。待っていると言っていた癖に眠気に負けた俺も悪い。ヤバいと思って起きた瞬間古泉の部屋に行ってみたら古泉は不在で、ダイニングまで向かったらこの惨状……、おかげで、一気に目が覚めた。あんまりい目覚めじゃ無かったけどな。
 さて、説明するまでもないと思うがケチャップなんてのはそう簡単に落ちるものじゃない。
 カレーとどっちが難易度が高いか? 比べたことはないがどっちも似たようなものだろう。妹がカレーを絨毯にこぼして母親が難儀していたことが昨日のことのように思い出せる。
「しかし、なんでケチャップ何だよ」
「さあ……」
 絞った雑巾から流れる液体が赤いというのが何とも言えない。視覚的に痛すぎないかこの色は。普通は白灰とか黒とか茶色だよな。掃除中によく見る色って。
「目についたからですかねえ……。冷蔵庫にある中で、一番派手な色合いなものですし」
「あのなあ……」
 確かに現在人参やトマトと言った見た目鮮やかな食材を切らしている冷蔵庫の中に限れば、ケチャップは一番目につく色だったかも知れない。しかし、目につくからと言ってそれを取り出して辺り一面に振りまくとか、普通はやらないだろ、普通は。
「何だか、目の前が真っ赤に染まったような感覚は……、覚えて、居るんですけど」
「ケチャップの色か」
「ええ、多分……」
 自信が無さそうなのはどうしてだ、とは訊けない。
 こうして古泉が酒に酔った時のことを頼りなく話すというのは別に珍しいことでは無いし、同居人である俺は古泉が酔っぱらったその現場に居合わせるということも何度も有った。
 そして、その時々内容は違うが、古泉が何か昔のことを思い返しているような場面に遭遇したということも、何度かある。酔った時に限っての記憶のフラッシュバックとでも言うべきなんだろうか。酔っぱらった時に前後不覚になった挙句時制の感覚を失うということ自体はきっとそんなに珍しくは無い、と思う。けれど古泉の場合、記憶が揺り起こされる時期が限定され過ぎていた。
 高校時代という名の輝くような鮮烈な日々と、その背後に有った日々と。
 酔った古泉から灰色の世界に招かれることに対しての恐怖を切々と語られたことも有れば、俺が知らない機関の誰かに対する愚痴を延々聞かされたこともある。
 古泉が昨日一人で飲みながら思い出したことも、そのことのことなのだろう。
 鮮烈な赤は、閉鎖空間で輝いていた古泉自身を思い起こさせる。
 恐怖に震え仲間を呼ぶ代わりに、その手で世界を赤く染めようとしたのだろうか――。
「落ちますかねえ……」
 何時の間にか疑問を脇へ追いやりケチャップの汚れを落とすのに必死な古泉は、本人がそうだと言った通り、昨日のことを全く覚えていないのだろう。
 そのまま、忘れて居れば良いと思う。
 ケチャップのような一面の赤なんてなくても、お前を襲ってくるような青い巨人も、世界を押しつぶすような灰色も、もうここには存在しないのだと。
 そんなことは、俺だけが知って居れば良いことだ。
 掃除が終わって表れるのは、赤くもないし青くもないし灰色でもない、何時も通りの茶色と白を中心とした生活臭溢れるただのダイニングだ。この赤が落ちれば、俺達は何時も通りの時間に舞い戻る。
 輝くような日々はもう遠いが、同時に、古泉を雁字搦めにしていた様々な要素と直接向き合うことも、もう、無い。
「落ちるかどうかじゃない、落すんだ」
「……はい」
 しゅんと効果音が聞こえてきそうなほどしょげ切った古泉が、言葉の勢いとは裏腹に、一生懸命壁に付いた汚れを落としている。全部元通りというわけにはいかないだろうが、出来るところまでやってみるしかあるまい。
 赤い色の落ち切らない雑巾を片手に、俺もまた壁の汚れを拭い始めた。



 絵茶中のネタより。
 大学生で同居なのはただの趣味です。(080323)


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