キスとネクタイ




 すっと引っ張ったネクタイが思ったよりも軽く感じたのは、実際の重さの問題じゃなくて、そのネクタイの先、要するに古泉の反応がそれについていけてなかったからってことになるのだろう。
 唇が重なる。僅かな時間。
 常よりも柔らかいなと思うのは自分の側に主導権が有るからなのか、それともこの夏の暑さのせいなのか。ほんの数秒の出来事じゃ、その辺のことを細かく考える余裕もない。というか、余裕が有ったらこんなことはしていないか。
 ……ここに居る自分の主体の片隅辺りに、切羽詰っているんだろうなあとどこか冷静にとらえる自分がいるのは何時ものことで、俺はそんな自分の一部に感謝しつつも同時にどこかに消えて欲しいと思ってしまったりもするんだ。
 なんて言うか、その……、我に帰りたくないときってのも有るよな。突っ走るだけ突っ走って、後で悔やんだり悩んだりすればそれで良いじゃないか。
「あ、の……」
 呆然としたままの古泉が、心底不思議そうな顔をしたまま俺のことを見下ろしている。
「どうしたんですか、一体、」
「どうもしないっ」
 目を合わせづらくて、思わず下を向いたまま言ってしまう。
「痛いですよ」
 その拍子に殆ど無意識のうちにネクタイを引っ張ってしまったからなのか、古泉が小さく抗議の言葉を口にする。高さの問題からなのか、ちょうど耳に響くような位置から。
「……う、うるさい」
「引っ張らないでください」
 ネクタイを取ったままの手を、軽く掴まれる。少し苦しそうな抗議の声とは裏腹に、その手つきはひどく優しい。思わず、その優しさの由来とは何だとか、普段からもうちょっとそういう部分を見せろとか言いたくなるくらいだ。
 ……まあ、普段から優しい古泉なんて気持ち悪いだけの気もするが。
「本当に、どうしたんですか」
「……どうもしない」
「じゃあ、どうして、」
「したかっただけだ」
「……は?」
「キス……。悪いかっ」
 うわ、言っちまったよ。……口に出すと恥ずかしいなんてもんじゃないな。この場で青酸カリを所望したいくらいだ。何時の間にか顔を覗き込んできたこのハンサムスマイルには、どうもそれ以上の効力がありそうな気もするが。
「そう、でしたか……。ああ、いえ、悪くは無いですよ。ちょっと、意外だと思っただけです」
「……くそっ」
 ああもう、一々言うなそんなこと。
 別に、お前の意見が聞きたいわけじゃないんだよ。そりゃな、合意ってのは必要なもんだと思うが、そういうのとは別次元で物を考えたいときだって有るじゃないか。
 多分、今は。
「あなたらしいと言うべきなんでしょうね」
「なんだよそれ……」
「……多分、あなた自身には分からないことです」
「はあ?」
「本人が気づいていない、本人には分からないからこそ魅力になる、ということにでもしておいてください」
「なんだよそれ、わけわかんね。うわっ……」
 抗議をしようとしたら、今度は古泉の方が俺のネクタイを引っ張ってきた。そのまま、唇を奪われる。
 本当、奪われるって形容詞がぴったりだと思うね。こいつ相手の場合。……まあ、他の奴のことなんて知らないし、知りたいわけでもないけどさ。
 特に何がどうって言うんじゃない。古泉の持つ容姿とか雰囲気とか、そういうのを全部ひっくるめての印象だ。
 癪に障るときも有るが、俺は多分、そんな古泉が嫌いじゃないのだろう。……だから、こうして、色んなことに目を瞑ったままなんだ。
「……自分からする方が良いって思うのか?」
「さあ、どうでしょうね」
 俺の疑問を、古泉が軽くはぐらかす。
 俺は抗議の代わりに、もう一度古泉のネクタイを強く引っ張った。
 不意打ちだったからか首を絞められた古泉が本気で苦しそうな声を出していたりしたが、そんなの知ったことじゃない。
 
 

 



 
 (07)