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取れかけのボタン


「まさか、こんなことになるとは思っていなかったのですが……」
 わたしの目の前で、彼が表情に苦いものをたたえている。
 それは時折見かける表情に似ているけれども、そこに浮かぶものが何時もとは少し違うように思えるのは、きっと、わたしの気のせいではないだろう。
 三年近くの経験を得て、わたしも少しは彼のことが分かるようになった。
 仮面のような笑顔の種類も、今なら少しは見分けられる。
 今の彼は、困惑しているのだ。
 何せ下級生の女子達に囲まれた結果、制服のブレザーのボタン、その殆ど全てを持っていかれたのだから。
 彼、古泉一樹は……、下級生の女子達に人気があるし、当人にも一応その自覚はあるようだけれど、だからと言って、彼女が実際に何らかの手段に出てくるとまでは想像していなかったのだろう。
 彼やわたしを含めたSOS団の構成員は、一般生徒からは少し遠巻きに見られることが多い存在だ。でも、卒業式である今日という日は、多少事情が違ったらしい。
 式も終わり後は部室で打ち上げという時になって、わたしは彼と今日始めて一対一で話すことになった。もう二人は、それぞれ教室での用事で遅れているようだ。
「……第二ボタン」
 数日前、クラスメイトの誰かが教室内で言っていた言葉を思い出す。
 彼女はわたしに向かって、あなたは貰う人が決まっているから良いわよね、というようなことを言っていた。貰う人……、決まってなど、居ない。そんな約束など、誰ともしていない。
 ただ、わたしは……、そうなって欲しいと願ったのかもしれない。でも、そうなるという保証はどこにも無かった。
 現に、彼のブレザーの第二ボタンは既にここに無い。 
 残ったボタンは、とれかけの第一ボタンだけ。
「……すみません、気がついたらこれしか残っていなくて。これでも、最低一つは守ろうと頑張ってみた結果なのですが」
「知っている」
 彼が下級生の女子たちに囲まれている場面に、わたしも遭遇している。
 そして、困っている彼を助けようとしたら、涼宮ハルヒに止められたのだ。こういうときは鷹揚に構えるべきだとか、ボタンくらい他の子にあげなさい、などと言われたりもした。
「第一ボタンだけでは格好がつきませんね」
 一つきりになったボタンを弄ぶようにしながら、彼がわたしの方を見て少し困ったような微笑を浮かべている。
「……第二ボタンの伝承は、心臓に近い位置であることに意味がある。だから、この学校の男子の制服の形状から考えるに、この場合は第一ボタンが通説の第二ボタンに該当すると考えても問題ないはず」
「長門さん……」
「少なくとも、わたしはそれで良いと思っている」
 そういう風に、思いたい。
 本当は、ボタン一つですら、他に誰にも渡したくなかったけれども……、それは、わたしの我侭でしかないから。
 彼が守り通したボタンをわたしに与えたいと言うのならば、わたしは、それで良い。
 それで、充分。
「長門さんには、敵いませんね」
 思案顔になった彼が、その場でブレザーを脱ぐ。
 行動の意味が理解できなかったわたしの肩に、彼がそのブレザーをかけた。
「……」
「ボタンだけでは格好がつかないので、と思ったのですが……、迷惑でしたか?」
「……良い。これで良い」
 ブレザーから伝わってくる、彼の温もり。
 ボタン一つなどよりも、もっと価値があるもの。
「良かった」
「……」
 取れかけのボタンのついたブレザーと、彼の笑顔。
 わたしの欲しかったはずのもの以上のものが、ここにある。
 与えてくれた彼にわたしが返せるものは、一体なんだろう。卒業式、ボタン……、ああ、そうだ。
「目を閉じて」
 クラスメイトに言われた言葉の続きを思い出しながら、わたしは彼に声をかける。
 彼の方から与えてくれたと言うのならば、こういう選択も、受け入れて貰えるだろう。
「えっ、」
「目を閉じて」
 もう一度、同じ言葉を繰り返す。
「……分かりました」
 僅かに揺らぐ瞳、そっと伏せられた瞼、印象的な長い睫。
 彼が、ここに居るということ。わたしを、受け入れてくれているということ。
 わたしは腕を伸ばし、背の高い彼を引き寄せるようにその肩に腕を回した。
 わたしが背伸びをして、彼が少し屈みこむ。
 そうして、互いの唇が重なり合う。
 幸福の色合いのまま沈黙した世界で、わたしの背にかかっていたブレザーがぱさりと床に落ちた音だけが耳に届いた。


 



 
 お題その7、卒業式後の一場面(070330)


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