springsnow
一台きりの自転車
それは、日曜日のこと。
海辺の道を行く自転車を、古泉一樹がこいでいる。
わたしは、その自転車の後部、荷台と呼ばれる場所に座っている。
流れていく海辺の景色、潮の匂い。
饒舌な筈の彼の語り口も今日は比較的大人しめだ。
わたし達はただ時折通りがかるトラックや自動車の音や、潮騒だけを耳に、自転車で海沿いの道を進む。
二人分の重量を運んでいるはずなのに、自転車をこぐ彼の足取りは軽快だ。
ちなみに今日は、
「ああ、体重はそのままで。女性にこういうことを言うのも何ですが、重さが無いと誰かを乗せているという気がしませんからね」
などということを言われているので、わたしは重力への干渉を行っていない。安定性の悪い荷台から落とされること無いよう、多少の重心の調整は行っているけれども。
「いい景色ですね」
時々彼が、そんなことを口にする。
振り返ったり、振り返らなかったり。
振り返ってくるときは、決まって笑顔。
前を向いたままの時も、多分笑顔なのだろう。
「……そう」
私が答えたり、答えなかったり。
会話とも呼べない、短いやり取り。
何の意味が有るのかさえ分からないやり取りを繰り返しながら、わたし達は海沿いの道を自転車で進んでいく。
ことの起こりは、今朝のこと。
唐突にわたしの住むマンションまでやって来た古泉一樹が、わたしにマンションの出口まで来るように言ったのだ。
用事は来てから伝えますと言った彼の言葉に微かな疑問を覚えたものの、わたしは部屋を出てエレベーターへと乗り込んだ。
マンションの入り口を出てすぐの所では、古泉一樹が立っていた。
動きやすそうな私服の彼の背中には、自転車が一台有った。
どうやら彼はここまで自転車に乗ってやって来たらしい。
彼は、自転車を指し示しながらこう言った。
「今日一日、二人で行けるところまで行ってみませんか?、この自転車で」
唐突な申し出。
わたしはその発言の意味がつかめぬまま彼の方を見たけれども、彼はただ笑っているだけだった。
それはどこか、何時もよりどこか子供っぽい印象を受ける笑い方。
高校一年生を演じるにしてはどこか大人び過ぎているような何時もの雰囲気が、今日は無い。
「どうでしょう、今日一日僕に付き合ってもらえませんか?」
「……」
わたしは、少しだけ考えてから、首を縦に傾けた。
それから、わたし達二人は自転車に乗って移動し始めた。
目的地は有るようで無い。彼の言う「行けるところまで」という言葉が指し示す場所が、今日のわたし達の行き先。
目指す方角もどの道を良くかも知らない。
彼の頭の中に地図は入っているようだけれども、自転車をこぐ彼の背中を見る限り、それはあまり重要な事では無いようだ。
彼はただ「海が見たいんです」と言って海の近くまで出ると、そのまま海沿いの道を自転車で走り始めた。
内海を抱く海沿いの道を、わたし達は進む。
会話と呼べるほどの会話も無く、特筆すべきような出来事にも出会わぬまま、ただ、景色と共に時間だけが通り過ぎていく。
移動し始めてか5時間と38分後、彼は昼食を取りましょうといって通りがかりのファミレスに自転車を止めた。
「妙なことに着き合わせてしまってすみません。ここは僕のおごりですから、なんでも好きなものを食べてください」
一体どこに謝る個所があるのかは、わたしには理解出来ない。
同行するように申し出たのは彼でも、それに頷いたのはわたし。
わたしが了承している時点で、彼が謝るような理由は無い。
わたしはその部分を疑問に思いつつも、ここは追求するよりも素直に奢られていた方が都合が良さそうな気がしたので、その部分については触れぬまま、手にしたメニューから食べたい物を幾つか注文することにした。
昼食後、のんびりと食後の珈琲を飲んでから、わたし達は再び自転車で海沿いの道を進み始めた。
昼食の前もその後も、同じような時間と景色が続いていく。
海沿いの景色の変化を、わたしはただじっと眺めていた。
時折彼の後姿を見るけれども、その背中から感じ取れる物が変わるわけでも無い。
ただ、何となく。
楽しそうだな、とは思っていたけれども。
「疲れてませんか?」
大分日も傾きかけた頃、彼は信号待ちの時に振り返ってそう問い掛けた。
逆光のため、彼の表情を読むことは出来ない。
彼の周囲の光学情報を解析・屈折率を操作して、その表情を読むのは……、やめておいた。
それは、今のわたしと彼にとって必要なことではないから。
「……平気」
「食事の方は……」
「まだ、大丈夫」
「では、もう少し行きましょうか」
彼がそう行ったのと同時に、信号が変わる。
自転車が、また動き出す。
わたし達の一日限りの道のりの到達点が、もう少しだけ、先になる。
途中コンビニでパンとおにぎりと飲み物を調達したわたし達は、時間を惜しむように、ただただ自転車で海沿いの道を進んでいた。
夕食は、自転車に乗ったまま。
揺れる荷台の上は少し食べ辛かったけれど、こういう体験も悪くないかも知れないと、今は思う。
彼が自転車を止めたのは、日もすっかり落ちた頃。
「そろそろ限界ですね……、これ以上行くと、終電がなくなります」
帰りは電車で、ということらしい。
彼は荷台からわたしを下ろし自分もサドルから降りると、荷台を外し自転車を畳み始めた。折り畳み出来る自転車だから出来る芸当だ。
テキパキと畳む彼の姿を見て、わたしはふととある事を思いつき、自転車に手を伸ばした。
「ああ、ありがとうございます」
十数キロは有りそうな自転車を、彼が軽々と持ち上げる。
わたしが重力をゼロにしたから出来る芸当だ。
それからわたし達は、近くの駅に向かって歩き、電車に乗り込んだ。
ここから電車を乗り継いでわたし達の住む町まで、乗換えを含めると3時間くらいだろうか。
わたし達はボックスシートに向かい合わせに座り、空いている場所に自転車を置いた。
日曜日だから出来ることだ。
「……行ける所まで、行ってみたかったんです」
暫く行きのとは逆に流れていく景色を見ていた彼が、ぽつぽつと言葉を紡ぎ始めた。
視線は、窓の外に注がれたままだ。
「……」
「自分の足で、というのはちょっと無理がありますが、交通機関に頼っては意味が無いので、自転車でと思いまして」
彼が、わたしの方を見る。
子供のように無邪気な笑みを浮かべた彼の瞳に、わたしの顔が映る。
相変わらずの、無表情のままのわたしの顔が。
「……」
「ちょっとした好奇心みたいな物ですね。……今日一日、楽しかったですよ。ありがとうございました」
「……そう」
あなたの、行ける所まで。
わたしを連れて、あなたが行ける所まで。
それは、この狭いとも広いとも形容し難い世界の中、箱庭のような場所に居続けることしか出来ないあなたの……、あなたとわたしの、ささやかな、本当にささやかな、抵抗とも呼べない、悪戯めいた児戯のようなもの。
「あの……」
わたしが手を伸ばし頬に触れたのをどう思ったのか、彼が少しだけ不思議そうな顔をした。
「……わたしも、楽しかったから」
逃げるわけでも進むわけでもない、ただ、道を行くだけの一日。
そんな、何でもない一日。
けれどわたしはその一日を、確かに、楽しい、と思っていた。
どうしてそういう風に思うのかは分からないけれども……、彼に、つられたとでも言うのだろうか。
「長門さん……」
「……」
体温を感じていた手を下ろし、わたしは、彼から視線を外し、窓の外を見た。
わたしの能力を持ってすれば暗闇の中でも景色を見通すことは出来るけれども、わたしはただ、何もせず、その暗闇を見て居たかった。
視界の端で、彼もわたしと同じように窓の外を見ているのが確認できた。
わたし達の瞳に映る景色は、角度こそ違っても、同じもの。
どうしてだろう。
そんな在り来たりの事実が、今は少しだけ、嬉しかった。
某所で貰ったお題その5。
一樹と有希のほんの少しだけイレギュラーな休日の過ごし方。
自転車に乗ってどこまでも、というのは青春っぽいかも、などと思う次第(070126)