遠きもの望むもの


「……興味がお有りですか?」
 視線を一点に集中させていたわたしの耳に届く、低く澄んだ声。
 疑問符が付いていると思われる声に応えるように、わたしは視線を声の主の方へと移す。普段だったら見上げる、という動作になる動きも、今はただ首の角度を横に動かしただけに過ぎない。
 屈んで天体望遠鏡の調整をしていた少年が、わたしに向かって微笑みを浮かべている。
 この少年が笑っているのは何時ものことだけれども、この笑顔は、何時ものものとは少し質を異にしているような気がする。……わたしには、そう感じるだけの理由が分らないけれども。
「……有る」
「おや……、だったら、ご自分で触ってみますか?」
 答えるわたしに対して軽く瞬きをしてから、少年は言った。
「……良いの?」
「ええ、構いませんよ。そう簡単に壊れるようなものでも有りませんからね」
 そう言って少年こと古泉一樹は、天体望遠鏡の傍の位置から少し距離をとった。代わりにわたしがその場所に収まる。
 天体望遠鏡。
 空に有る星達を見上げるためにこの星の人類が作った道具。
 銀河を統べる情報統合思念体に作られたわたしからすれば稚拙とも思えるその道具が、わたしの興味を引き付ける。
 理由は、良く分らない。
 けれど、理由がなければいけないというものでもないと思う。
 今のわたしは、理由がなくとも生じる興味や衝動といった事象が存在することを知っているし、そういったものを自分の中にある事実として受け入れることも出来る。
 全部が全部、というわけではないけれども。
 ……今日、わたし達SOS団は、涼宮ハルヒの発案により、わたしの住むマンションの屋上で天体観測をすることになった。
涼宮ハルヒは何事か目的のようなことを口にしていたが、それを心から望んでいるわけではないというのは、何時も通りのことだ。宇宙人未来人超能力者に現れて欲しいなどと口にする彼女も、本当は、そんなものを求めているわけでは無い。ただ、そうだったら面白いと思い込んで……、いや、思い込もうとしているのだろう。どうして彼女がそう思うのかなんてわたしには分からないけれど、彼女の行動などから、彼女の意識・無意識レベルでの思考パターンを分析することは可能なのだ。けれど、そこから先のことは分からない。
涼宮ハルヒの目指す先は、何時も未知数。計算するたびに答えが変わる彼女の行く先を、わたしは追いかけ続けている。それがわたしの役目だから。
 とはいえ、今日は特筆すべき程のことが起きているわけでは無い。
 今日はただ、五人で集まって騒いでいるだけに過ぎない。ひとはそれを、日常の一コマとでも呼ぶのだろうか。
 今、涼宮ハルヒと副々団長なる肩書きを持つ少女はわたしの住んでいる部屋のキッチンを占領して料理を作っている最中だ。それに加えて雑用係の少年は買いだしに行かされているので、屋上に居るのはわたしと古泉一樹の二人きりだ。
 秋も深まりつつある肌寒い季節に少し厚着をして、わたし達は星空の元に居る。
「その螺子を回して調節してみてください。ああ、そうですそうです」
 望遠鏡の操作法が分らないわたしに、彼が使い方を教えてくれる。
 言葉に倣うように幾つかの個所を弄っているうちに、レンズの先の映像が鮮明な物へと移り変わっていった。
 レンズ越しに見える星々。
「……」
 目に映る物に対してかけるべき言葉を見つけられないわたしは、ただ星を眺め続ける。その間古泉一樹は何も言わない。わたしの隣に居るだけ。隣で、笑っているだけ。
「……他の星を見るには、どうしたら良い?」
「ああ、それはですね」
 わたしの質問に、古泉一樹が答える。
 こうして、わたし達の天体観測が続いていく。彼の教え方はとても丁寧で分かりやすかった。
人に物を教わるという時間は、有意義な時間の過ごし方だと思う。わたしには、まだまだ知らないことが多過ぎるから。
 そのおかげだろうか、本来ならとっくに来ているはずの他の団員達がなかなかやって来ないことも気にならない。時間を忘れるというのは、こういうときのことを言うかも知れない。
 わたしの認識する時間自体は、一秒もずれていないけれども。
「皆さんなかなか来ませんね」
「……そう」
「そろそろ首が疲れませんか?」
「平気。……もう少し見ていたい」
 わたしは情報操作で筋肉の弛緩などを調節出来るため、普通の人間が長時間姿勢を固定することで生じるような痛みとは無縁でいられるのだ。
「失礼しました。では、皆さんが到着するまで存分に星空を眺めていてください」
 古泉一樹がそう言って、わたしから少し距離とる。もう教えることはないと判断したのかも知れない。それは間違いではない、わたしはこの短い間に天体望遠鏡の操作方法を殆ど覚えた。
 ……けれどそれは、古泉一樹がわたしから距離をとる理由になるのだろうか。
 わたしは別に、邪魔だとか不快だとか言ったつもりはないし、そのように思っているわけでもない。……古泉一樹の方がわたしに対して何か思っている可能性はあるけれども。
「……良いの? わたしばかり使っていて」
 この天体望遠鏡は、古泉一樹の持ち物だ。わたしが一人で占有して良い道理は存在しないだろう。一人占めするのを望んだのが涼宮ハルヒならばともかくとして。
「構いませんよ。……僕としては、あなたが天体観測に興味を抱いてくれたことが嬉しいですからね」
「……嬉しい? どうして?」
 古泉一樹の言葉が、わたしの心に疑問を投げかける。
 彼が個人的な事象でわたしに対してこのような言葉を使うのは珍しい。嬉しい、だなんて。
「自分の趣向を他人に認められるのは嬉しいことですよ。長門さんだって、自分の友人や知人が読書に興味を持ってくれたら嬉しいでしょう?」
 答えをもらう代わりに、質問を投げかけられた。
 嬉しいかどうか……、確かに彼の言う通り、そういう状況は好ましいものだと思える。なかなかそういう状況にはなってくれないけれども。

以下、続く