プロローグ


 世界が繰り返されるまで、後四時間と三十六分。
 背面を覆い尽くすような窓の向こう側の暮れゆく空を眺めながら、わたしはこの二週間の間に起ったことを思い出していた。涼宮ハルヒが十七日の午後に用意した夏休みの計画通りの、プール、花火大会、金魚すくい、虫取り、アルバイト――その全てを果たしたけれども、この夏は終わらないだろう。既に一万回以上繰り返されていることなのだ、その経を踏まえればある程度の先読みは可能だ。三十日までの涼宮ハルヒの行動から考えて、今回もまた、時間は巻き戻される。
 わたしが八月三十一日午後七時二十四分――二十五分にこの場所に居たということさえ、無かったことになる。消えゆく出来事と知りながら無為の時間を過ごす意味がとは一体何だろう。わたしの記憶は残るけれども、あの三人、わたし以外の団員達の記憶は残らない。彼等は成長も経験も、この夏休みが繰り返されているものだと気付いたたことさえも……、その何もかもを失い、八月十七日へと舞い戻る。昨日の別れ際の彼等の顔が忘れられない。多少の違いは有ったものの、三人が三人とも、その顔に不安と絶望を描き出していた。……元来ひとの子では無いわたしにとって人間の感情の変化というものはあまり縁の無い、理解し難いもので有ったが、人の一生を悠に超えるほどの時間を経たことにより多少は分かるようになってきた。発露の方法や仕組みを自ら再構築するという点にはまだ至らないものの、彼等の思考や感情、そしてその変化を有る程度類推することは出来る。彼等の記憶は二週間毎に無かったことにされてしまうためそれが役に立たない場合もあるけれども、繰り返されているからこそ分かることも有る。
 特に毎回繰り返されているプールでの行動は顕著だ。あの時点では十七日の朝という起点とも呼べる時刻からあまりあまり時間が経っていないせいもあってか、涼宮ハルヒとその周囲の人間の殆どはパターン化されているとしか思えない行動をなぞっていくだけという状況に有る。相違点をあげるとすれば、涼宮ハルヒが行う遊戯の順番やわたしを含めた他の団員達が呼ばれる順番が多少前後するという程度だろう。
 行動が分岐するのは涼宮ハルヒが夏休みの計画を立ててからのことだが、その先で有っても、既に幾度か見たことがあるような光景に遭遇してばかりだ。二週間という限られた期間の間に開かれる花火大会や盆踊りの回数に自分達の足で行ける範囲でという条件を付け加えればその数はかなり限定されるし、虫とりや天体観測、遊園地への行楽など多少日程がずれたところで大した違いはない。
 パターン化し分類することすら可能になりつつある、終わらない夏休み。
 観測者であるわたしは、その夏をただ眺めているだけ。彼等に請われれば力を貸すことも出来るけれども、わたしにこの夏を終わらせるだけの能力は無い。わたしは彼等と違ってこの終わらない夏休みの記憶を持ち続けているけれど、それは所詮ただの知識。活用する手段が見つけられなければ何の意味もない。
この夏に関する質問を口にしながらもわたしの回答を途中で遮断させた少年の顔をもう何度見ただろうか。……うんざりしたあの顔を、わたしはまた見ることになるのだろう。この次か、あるいはその次か。何度先になるかは分からないが、この夏が終わらない限り、わたしは彼等の諦念や絶望を何度でも見ることになるのだ。
 繰り返し触れるが、この夏は終わらない。
 八月十七日から三十一日までの二週間という時間は後五時間足らずで全て無かったこととなり、わたし達はまた八月十七日から始まる二週間を過ごすこととなる。前回までのシークエンスを含めた記憶を掘り起こし情報の整理を試みてみても、この夏を終わらせる方法は分からない。それは元々わたしに課せられた使命では無いが――。
 ……その時、唐突に、部屋の呼び出し音が鳴った。オートロックのマンションの入口で誰かがわたしの部屋の番号を押したのだ。元々わたしの部屋の番号が押されることはあまり無いのだが、時折誰かが間違って押すことは有る。今回もそうかと思って聞き流していたら、二回目が鳴った。それも無視したら、三回目が……、七回目まで達したところで、わたしはインターホンの受話器を手に取った。これだけの回数鳴らされるということは、間違いではないだろう。
「……」
 インターホンを手にした時、何かがわたしの脳裏に閃くような感触が有った。過去の経験値から得られるものとは違う。……それは、同期を行うときに感じる一瞬の思考の揺らぎに少し似ていた。
『もしもし、古泉です』
 聞こえて来たのは既に随分と耳慣れてしまった声だった。音声で分かる、本人で間違いない。
 古泉一樹。彼は、涼宮ハルヒに影響されて有る能力を賦与された人間の一人だ。また、涼宮ハルヒの作った学内団体であるSOS団の副団長でもある。一体何の用だろう。八月三十一日に古泉一樹がわたしの元へやってくる用事……、これは、今までに無かったパターンだ。
「……」
『今日はちょっとした相談、いえ、提案が有ってやってきました。……ご想像の通り、この終わらない夏、エンドレスサマーに関することですよ』
「……わたしは観察者、解決に尽力する立場では無い」
『ええ、それは分かっています。ですから、これは解決では無く観察に関することです』
「……」
 一体何を考えているのだろう。
 昨日の別れ際の若干投げやり気味な調子とは違う、部室で日々聴いていたものとも違う、しっかりと地に足が着いたかのような喋り方。……聞いてみても良いかも知れない、と思った。そもそも、今わたしが自室で過ごす時間自体が無意味なものなのだ。そんな時間に予定外の何かを組み込んだとしても、失うものなど何も無いだろう。……寧ろ、新しい何かを得ることが出来るかも知れない。
『もしよろしければ部屋に入れていただけませんか? こんな時間に一人暮らしの女性の家へ訪問した挙句家にあげて欲しいなどと口にするのは大変非常識だと思うのですが、ここで話をしていると通りすがりの方々に不審に思われてしまいますので。ああ、あなたが外へ出て来る、というかたちでも構いませんが』
「来て」
 解除のスイッチを押し、古泉一樹を部屋へ呼ぶ。
 この少年が一体何を伝えようとしているのか……、興味が、有った。


本文より一部抜粋しております