さて、なんでこんなことになっているんだろうか。
 いきなり投げっぱなしな発言で申し訳ない上これでは読者諸君には何も伝わらないだろうが、俺は今全ての説明を放りだして疑問符だけを並べ立てるという、これ以上無いくらいの現実逃避に走ろうとしていた。ああ、逃避しているって自覚は有るんだ。自覚が有るだけマシとはよく言ったもので、当然、何故逃げたいのかという理由についても多少なりとも把握している。とはいえそれを一々説明するだけの気力体力根性その他が有るかどうかってのはまた別の問題だ。
「んっ……」
 たった今俺の股間に顔を埋めて手と舌と口を動かしている男は、相変わらずうっとりとした目つきをしている。俺の方からだと角度的な問題や長い髪に隠れているせいもあってその整った顔の造作全てを見ることは出来ないわけだが、それがまた何とも――いやいやいや、そういうことじゃないだろう。
「…くっ」
 くらりと、脳内が揺さぶられる。
 散々別のことを考えて気をそらそうとしても、ねっとりとした舌によってすぐに引き戻されてしまう。あーあ、何でこいつはこんなに上手いんだろうね。俺はこいつ以外の相手を知らないわけだが、それでもこいつが上手い方だってのは何となく分かるんだ。今まで見てきた本来なら十八歳未満閲覧禁止視聴禁止とされている数々の画像のせいかもしれない。最近すっかりその手の物とはご無沙汰だ。それもこれも、溜まってくると、いや、溜まる前に古泉と……まあ、そういうことなのである。
 遠回しな表現をするのはやめよう。
現在俺と古泉は、所謂不順同性交友をする間柄なのだ。所謂、と頭に着けるほど一般的な言い回しでは無いような気がするし、同性な時点でいろいろ間違っている気もするが、世間的に間違ってようと違和感があろうとこれが事実だ。幾らなんでも目の前に有る現実を否定してかかったりはしないぜ。目に見えるものと触れているものまで疑い始めたら、何も信じられなくなっちまう。
「む、ん……ふ…」
 鼻から抜ける声が空気と俺の鼓膜を揺らし、脳裏に響く。何でこいつの声はこんなにエロいのだろう。普段から良く通る声だとは思うが、ひとたび性的な雰囲気を纏い始めると、その声は熱っぽい色艶を含んだものに変化する。子供番組の司会のお姉さんがどろどろした昼ドラの助演女優に転身したかのような変わりっぷりだ。
「……もう、良いって」
 散々弄られているというのに、まだ射精には至らない。それもこれも古泉がツボを心得ているからだ。熱を与える方もそうだが、こいつは焦らす方に関してもその才能を開花させている。おまけに俺の限界値もよく分かっている。限界値云々については学習の成果のような気がするが、一緒に歩んでいるはずの俺は未だにその辺についての知識も経験値も足りていない。古泉がどこでどう感じてどの辺がポイントで、なんてことを学習出来ればちょっとは反撃できたんだろうが、生憎俺の学習速度は亀の歩みみたいなものだ。
 同性とのセックスなんて想定外も良いところだったんだ。いきなりどうにか出来るほど俺は器用じゃないぜ。――なんて言えた時期は既に遥か過去と化している気がするが、たった数ヶ月で恋愛や性欲に関する認識を根本から変えられるわけ無いだろう。その割に気持ち良いことは気持ち良いこととして学習しているわけだが、それは俺が男役だからで――そう、何故かかそういうことになっていた。
 何故か? 果たしてそれは疑問に思うところなのかどうか、という疑念も有るわけだが、一応ツッコミを入れておいた方が妥当な気がするので入れさせていただこう。逆の方が良かったとか自然だったとかいうわけではなく、例え役割が逆だったところで似たような疑問を抱いていたんだろうが、どっちにしろ謎であることに違いは無い。じゃあ変わりましょう、なんて言われても怖いのでこの疑問を口にしたことはないし、そもそも上が良いと言ったのは俺なわけだが……ますますもって意味不明だ。あの時の俺はどうしてあんなことを口走ったのだろう。
 いや、理由を忘れてしまったわけじゃないんだ。
 一緒になりましょうよ、などという寝言みたいなことを言ってズボンを脱ぎ始めつつある古泉を横目で見ながら、俺はその日のことを思い返していた。


「好きです」
 静かなはずの空間に響き渡ったその一言は、実に簡潔なものだった。
 心に抱いた想いを告げるのにこんなに分かりやすい言葉も無いだろう。何せたったの四文字だ。です、という部分を抜けば二文字しかない。嫌いって言葉より短くて済むし暑いとか寒いとか言うよりも短いぜ。何せその三分の二だ。
 英語に直すとアイラブユーか? 中国語だとウォーアイニーだったかな。どっちにしろ日本語で言うよりは長いわけだが、長いだけあって日本語で最短の表現を使うときよりは多くの意味を含んでいる。日本語と違って主語も有るし述語も有る。簡単に言えば、誰が誰を好きかってのがちゃんと伝わるってことだ。
 ではこの場合の『好き』という表現はどうだろうか。
 俺の目の前に立つのは俺より背の高い男、つまり古泉一樹その人なわけだが、現在この部屋には俺とこいつの二人しか居ない。夕日が差し込む放課後の部室。告白のためには悪くない場所だと言えよう。しかし何で俺達は二人きりなんだ? ってそんな理由は考えるまでもない。単に他の連中が帰り支度を始める時間になっても俺達の勝負はついておらず、この勝負が終わってから帰宅――と、別に珍しいことでもなんでもないじゃないか。実際にそうやって二人きりになったことはあまり無いが、勝負に熱中して帰宅を遅らせるなんてこと自体は別におかしなことじゃない。普通だ。実に普通だ。
 そんな普通の、別に逸脱している訳でも特殊な要素が付随している訳でもない、ただ過ぎていくだけの時間。宇宙人に襲われることも時間移動の必要に迫られる訳でも亜空間に放り込まれる訳でもない、きわめて平和で平穏だった――それが既に過去形になってしまったと限ったわけでは無いが、急速に遠のいているように思えるのは俺の気のせいじゃあるまい。崩したのは俺じゃない、俺の目の前にいる男だ。
 なあ、古泉、お前は何を言っているんだ?
 好き、という言葉だけなら色々と連想できるんだが、状況からしてこれは「僕はあなたが好きです」と解釈すべきなんだろうか。何せここには俺と古泉しか居ない。名前をハッキリ言われなくたってその言葉の対象が誰かくらいすぐに想像がつく。前後の会話から別の人物の名前を引っ張ってこられるような状況ですらない。というかそもそも会話なんぞ無かった。ゲームが終わりさて帰るかと思って立ちあがったところ、いきなり腕を掴まれ壁際に追い詰められたのだ。意図も脈絡もさっぱり分からない行動に異を唱えようとしたところで、さっきの台詞だ。到底説明が足りているとは思えない状況なわけだが、余計な情報が無い分ミスリードが起こる可能性も低いと言えよう。……ああ、もう。
 あれこれと遠回りをしているが、要するに俺はこの状況がどういったもので有るかを理解したのだ。理解出来なかった方が幸せなんじゃないかという気もしたが、気付かなかった場合に全く別の、それこそトラウマものの状況になった可能性も考えると、気付いて良かったってことになるのだろう。マイナスにマイナスをかけたらプラスになります、という数式を無理やり納得させられている子供になった気分だ。
「あー、悪い、その……」
 ここは、ごめんなさい、とか、すまんお前のことをそういう目では見られないんだ、とか、まあなんだ、常識的な範囲での断りの返事を用意すべき場面だったんだ。古泉の言っている言葉の意味は一応理解出来たものの、それが納得できるわけもなかったし、納得しようとも思えなかった。古泉が俺を好きだって? わけが分からん。古泉が、俺を……なんでだ? だって古泉は男だし俺も男だ。性別ってのは恋愛と性欲における最大のキーポイントの一つだろう。その辺の認識は個人によると思うのだが、少なくとも俺にとってはそうだ。ここでその認識及び常識の外側に有るような発言をしているのは俺じゃなく古泉なわけだが、状況から考えて俺もこの発言の意図を汲みとれた方が良いってことなんだろうか。しかしながら、それは俺には困難な要求だった。たった一言だけで長年(といっても十数年だが)付き合ってきた常識を覆せるわけが無い。
 好きか嫌いかという大枠で捉えれば古泉のことは嫌いじゃないんだ。好き、という単語を用いるのはいかがなものかという気もするが、そこそこ気にいってはいる。引っかかるところも多いが、悪い奴じゃなさそうだしな。俺の好感度が十段階評価だとしたら、六と七の間くらいを与えてやっても良い。だが、だからと言って恋愛対象として見ていたわけじゃない。だったら断ればいいじゃないか? 正しくその通りだね。断ったところで何ら問題は無いだろう。ごめんお友達で居ましょう。その回答に何の問題が有る。これ以上無いくらい妥当じゃないか。男同士だとか立場がどうだとか、そういうことに一々触れる必要も無い。恋愛対象じゃない、その事実だけで充分だろうし、それ以上の説明は必要ない。ああ、分かりやすい、実に分かりやすくていいね。これ以上無いくらいシンプルな回答だ。だから俺はそれを言葉にすれば……そう、それで良かったはずなのに、俺ははっきりとした断りの返事を発することが出来なかった。
 理由? そりゃあ、古泉の瞳がまっすぐに俺のことを捕えて離さなかったからだ。
 射抜かれる、という表現が相応しいような状態と言えるかもしれない。あまりにも真剣な古泉を見ていると、頭の中が真っ白になるかのようだった。俺は何を言えばいい? 何をしてやればいい? 頭の中が高速で回転をし始めるが、回したところで元々無いものが出来たりはしない。バナナをミキサーにかけてもマンゴージュースは作れないんだ。
「あの……迷惑だとは思うんですが。それでも、僕はあなたが好きです」
 そこで、ああ迷惑だ、と言い返せたら良かったんだろうか。しかしそれは無理な相談だった。本人にこんな風に言われてしまっては、迷惑だなんて言えるわけ無いじゃないか。もしかしたらそれはそうやって俺の発言を塞ぐための古泉の策略だったのかも知れないが、当時の俺にそんなことに気づく余裕は無かった。目の前にある言葉と事実についていくのが精いっぱいで、ろくな返事すら思いつかなかった。
「あなたが好きで好きで、本当にどうしようもなくて……だから、あなたが欲しくて……欲しくて、仕方ないんです」
 欲しいってなんだ。
 あっという間に許容量を越し、気がつけば何も残らないも同然の状態になってしまった頭の中に古泉の言葉が反響する。何だかひどく嫌な予感がする。予感、じゃないな、確信に近いかもしれない。喉の奥が乾いていく。言葉が発せられないのは頭の中が空っぽに近いからだけじゃない。追い詰められている。古泉は切々と現状を訴えているようだが、それは同時に俺の行動を奪うための鎖でもあったのだ。物理的にも壁際で、俺は完全に逃げ場を失っていた。
「だから、僕は……」
 何、と思う間もなくそのまま押し倒された。壁と床の間に蹲るようになってしまった俺の身体の前に古泉が覆い被さっている。なんだなんだ、なんでこうなっている。ここにきて俺はようやくこの状況がかなりの危機的状況なんじゃないかと気づき始めていた。遅い、遅すぎる。危ないと思ったらさっさと逃げるべきだったのだ。古泉が考えていることやそれが理解できるかどうかなんてことよりも、自分の身の安全の方が大事だったはずだ。何故そういう考えに至らなかったんだ。鈍いにもほどがある。
 あっという間に唇を奪われ、舌まで入れられた。始めてなのにディープって。混乱しているところに追い打ちをかけられたようなものだ。抵抗さえ出来なかった。気持ちいいというわけでは無かったと思うが、頭がぼうっとしている。ただでさえ薄れている思考がまた溶かされていく。って、それじゃダメだ。ダメなんだ!
 抵抗を始めようとした俺の身体を抑えつけた古泉が、俺の耳元で呟いた。
 その言葉が決定打だったのだろう。窮地に追い詰められた俺は、理性と常識とその他もろもろを必死で総動員して、一つの結論を導き出した。

「俺が上なら良い!」

 ……そのままいただかれましたとさ。






……本文より一部抜粋しております