ファーストネーム


 とある日の放課後。
 俺が部室に行ったときにはまだ長門が居るだけだった。
 まあ別におかしな事ではない。
 団長様が彼方此方をうろついているのは珍しい話ではないし、古泉や朝比奈さんが遅れてくることや用事で来ないこともそんなに珍しい話ではない。
 しかし、長門と二人きりか。
 元々居ても居なくても同じような相手だとは思っているが、完全に二人っきりとなるとちょっと気が重いかも知れない。
 何せこいつは俺にとって最も非日常現象に近い場所に居る奴だからな。
 女子連中は受身だったり間接的だったり無自覚だったりするが、こいつだけはダイレクトな、自覚ありで不思議現象を起こせる宇宙人だからなあ。
 まあ、幾ら二人きりとはいえ部室で何か起こるなんてことは無いだろうが。
 男二人で男同士らしい会話の一つをした記憶も無く、性別以前の、そもそも普通の人間同士でする会話じゃないだろうそれ、みたいな会話した記憶しかないのもどうかとは思うんだが、俺は別に、この関係を打開したいとか思っているわけでもないんだよな。
 長門と俺が普通の友人同士になるなんてのは、ちょっと無理な相談な気がする。
 それこそ、不可思議美少女トリオの誰かと男女のお付き合いをするなんていう有り得なさそうなことよりも更に無理なことのような気がしてならない。
 ……まあ、この比較の仕方もどうかと思うが。

「なあ、長門」

 別に会話をする必要はなかったし、反応を期待出来るかどうかも分からなかったが、俺はふと以前から気になっていたことを切り出してみることにした。それはただ何となく、間が持たなかったからというのが理由であって、それ以上の意味なんて別に無い、何でもないようなことなんだが。
「……」
 無言のまま、長門が顔を上げる。
 珍しい反応、でもないか。
 デフォルト無口無表情でも、長門は俺が呼べば応えてくれる奴だもんな。
 それにしても、こいつは不思議な奴だよな。Yシャツにズボンだけの夏服姿だっていうのに、見ているだけで何となく、涼しげな印象が与えてくるなんてさ。……それも、こいつが宇宙人製ヒューマノイドだからか?
「前から気になっていたんだが、お前の名前。えーっと、下の名前、有機物の『有』に希望の『希』だよな」
 本人相手に確認するのも変な感じだ。
 普段名前で呼ぶことも無いしな。
「そう」
 平易な声で、長門が答える。
 男にしては背が低くて見た目からして性別の良く分からないような外見をした奴だが、声の方も性別不詳って感じだ。声変わり前って言うのとは、少し違う気がするんだが。
 まあ、長門の外見が一見女に見えないことも無いよな、何て俺が始めて思ったのは、こいつが始めて私服を着た夏合宿のときのことなんだが。
 それだけ制服の力は偉大ってことなんだろうか。
 いや、そんなことはどうでも良いんだが。
「で、読みは『ゆき』だよな」
「そう」
「……なあ、人の名前に向ってこんなこと訊くのも変だと思うんだが、なんで『ゆうき』じゃなくて『ゆき』なんだ?」
 変な質問だってのは承知している。
 けど、『ゆき』とも『ゆうき』とも読める漢字、女ならともかく男だったら普通『ゆうき』って読まないか?
 俺の偏見かも知れないが、男の名前で『ゆき』って発音は結構珍しいと思うんだよな。居ないわけじゃないだろうけどさ。
 長門の名前を考えたのが長門なのかそれとも長門の親玉なのか、この名前に何か思惑が有るのか無いのか、俺はそのあたりのことをさっぱり知らないんだが……、まあ、前からちょっと疑問に思っていたのさ。
 本当に、ちょっとした疑問に過ぎないんだが。

「それがわたしの名前だから」

 迷いの無い、真っ直ぐな長門の返答。
 説明には全くなっていないが、その瞳には強い意思を感じさせる。
「……そうか」
 何だかよく分からないことに変わりはなかったが、とりあえず納得した振りはしておこう。
 まあ、本人がそうだって言うのなら、そういうことなんだろう。……長門なりの拘りが有るのかもしれないしな。
 不意に、長門が首を動かした。
 見ているのは、窓の外か?
 別に外には何も無いというか、見下ろしても見上げても何時もと変わらない景色があるだけなんだが、長門のその行為には、何かしらの意味が有るんだろうか?
 と、俺が考え始めた所で、長門はあっさりと視線を本に落とした。どうやら俺とこれ以上会話する気も無いらしい。
 俺はわざとらしく軽く肩を竦めると、既に定位置と化しつつある座り慣れたパイプ椅子に腰を下ろした。暫く待っていれば、騒がしい団長と副団長、それに、唯一の癒しの天使とも呼べる上級生のうちの誰かがやって来て、この部室もにぎやかになることだろう。

 ……。
 ……俺が、長門有希の名前の由来らしきものを知るのは、もう少し後のことになる。







 
 九月頃を想定して(070108)