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Girl meets Girl 06




 避けられたのは幸運だったとしか思えない。
 ついさっきまで俺が座っていた場所を、朝倉の持っていたフォークが薙いでいた。
 はらりと、何かが肩に落ちる感触。
 俺は視線を笑顔のままの朝倉から動かさずに、硬直しかけた手を動かして確かめる。どうやら、フォークが俺の髪を結っていたゴム紐とリボンを切ったらしい。
 視界の端に、千切れた青いリボンが落ちていた。
 後少し動くのが遅かったら、こうなっていたのは俺自身だったんだろう。
「な、朝倉、お前……」
「あーあ、避けられちゃった。まあいっか、空間制御の方は上手くいきそうだし」
「空間……」
 俺は朝倉から目を離さないように注意しつつも、さっと周囲に視線を配る。
 さっきまで有った俺達の間のテーブルが消え、椅子も消え、その他の内装も他の客達も全部消えてしまっていた。
 ここは、どこだ。
 明らかに喫茶店の中じゃない。というかそもそも現実の世界だとすら思えない。
 うねうねと揺れる極彩色の壁らしきものに囲まれた、距離感さえつかめない奇妙な場所。
 俺は、とある場所を思い出した。
 閉鎖空間。
 様子は大分違うが、ここには少なからず似たものを感じる。
 俺がこんな馬鹿げた状況で飛来するフォークを避けられたのも、正気を失わないで居られたのも、あのときの記憶が有ったからだろう。
「そっ、本当は完全な密室の方が良かったから学校の教室がベストだっんだけど、学校だと9組の子や長門さんがいるから、あなたと二人っきりになれる機会が作れそうに無かったのよね」
 朝倉が、どこから取り出したのか手にナイフを握っていた。
 密室が、ということは、ここは密室じゃないんだろうか。
 他に人が居た喫茶店の中で密室云々と言うのも間抜けな話しだが、朝倉はどうやら長門や古泉と同じくどうも普通の人間ではないらしい。
 まともな物理法則や常識が通じるという感覚は捨てるべきだろう。
 けど、密室じゃ無いなら逃げれば……、
「あ、でも普通の人にとっては密室と同じだと思うよ。閉鎖空間の発生に伴う次元の歪みに便乗して作っちゃった擬似的な亜空間だから、あの9組の子とかだったら突破できるかも知れないけど」
 ……おいおいおい。
 言っていることの詳細はさっぱりだが、それって色々反則なんじゃないか。
「たいしたことじゃないよ、タイミングを上手く掴めるまでちょっと手間取っちゃったけど」
 あーもう何なんだこいつは。
 俺はその場で一歩下がろうとしたが、見えない何かに阻まれたかのようにそれ以上後ろに下がる事が出来なかった。
「ふふ、キョンちゃんを殺したら、涼宮さんが凄い大きな情報爆発を起こしてくれそうだよね」
 またハルヒかよ。というかお前もそっち方面でのハルヒがらみかよ。
 ああもう本当にもてもてだなハルヒよ。
 しかしハルヒに興味がある連中は何でまず俺のところに来るんだよ。
 俺はただの一般的な女子高生だ!
 文句と要望は直接当人に言ってくれ!
「あーあ、今から楽しみだなあ」
 朝倉が今からピクニックにでも行くような陽気さで、俺の方へと近づいてくる。
 俺は……、動けない。理由は良く分からないが、足首から下が動かなかった。
 ちょっと待ってくれよ……。
 朝倉が、ナイフを構えなおす。
 俺の身体のどこを狙っているか分からないが、正直言ってどこを狙われているかなんて考えたくも無い。
 ナイフが、すっと空中を薙ぐ。
 もう終わりだと、そう思った瞬間、天井から赤い光が降り注いだ。
「えっ、やだ、本当に突破されちゃったの?」
 朝倉の口調は、友達に昨日見たテレビ番組の内容を聞く時のような口調だった。
 その間にも幾つ物赤い光が朝倉の前で複雑に交差し、最後に一つになり、朝倉の身体を吹き飛ばす。
 そして、空中からふわりと二つの人影が降りてきた。
 音も無く空とも言えない微妙な場所から振ってきたのは、見慣れた少年少女だった。
 古泉と長門である。
「専門家を舐めないでください。長門さん、これで大丈夫ですね?」
 赤い光が、古泉の掌に戻っていく。
 球体に変化した時とは少し違うが、これもこいつの能力ってことなんだろう。
「同じ空間に入れば充分対処は可能」
 長門は以前閉鎖空間で見た時と同じ戦乙女スタイルだ。
 ただし持っている槍の輝きの5割増しくらいになっている。
 そう言えば、あの時は最大出力じゃないみたいな話をしていたな。
「では、後はお任せいたします」
 古泉は長門にそう言うと、朝倉を無視し、俺の方によってきたかと思うとあっという間に俺の身体を持ち上げた。
 ……足が竦んでいたから、抵抗する間もなかった。
「了解した」
 長門が答える声が聞こえた、気がした。
「え、あ、ちょっ……」
「しっかり掴まっていてくださいね」
 そのとき俺は、既に喫茶店を覆う空間の壁のようなものを乗り越えて空中へ飛び上がった古泉の腕の中だった。


 一体何なんだ。
 助けに来てくれたらしいことは分かるし、そこについては感謝しても良い気もするんだが、今この状況については全く持って理解出来ない。
 そもそも、朝倉が作り出したとかいうあの空間からして謎だらけなんだが。
「お、おい……」
「あんまり暴れないでください」
 空中を飛びながら何時もの笑顔で言うな、ちょっと怖いから。
 というかここはどこだ。あの極彩色の空間を出たはずなのになんでまだ空が変な色をしているんだ。
「朝倉涼子が閉鎖空間の発生に干渉して亜空間を作り出したため、擬似的な空間が階層状になってしまっているんですよ。ここは、その途中の階層です」
「階層って……。そうだ、お前何で長門を置いてきたんだよ!」
 性別に関する通俗的な感覚に全面的に同意してやる気は全く無いが、男が女を敵(だよな?)の前で見捨てるなんて言語道断だぞ。
「朝倉涼子に対処するためです」
「対処って、お前は――」
「僕に彼女に対処するような能力は有りませんよ。僕があそこにいても長門さんの足手まといになるだけです。僕に出来るのは彼女の邪魔にならないようあなたを連れて逃げること、それだけです」
 古泉が口にした足手まといという単語に憂いは全く感じられなかったが、俺はほんの少し後ろめたかった。
 長門も古泉も頑張ってくれているのに、俺は何も出来ない。
 それどころか、二人の重荷にしかなっていない。
 足手まといってのは、お前じゃなくて俺みたいな奴のことを言うんだと思うぞ。
「今回僕があそこまで辿り付けたのも、この空間が閉鎖空間の派生として存在しているからに過ぎません。もしもこれが本当にTFEI……、失礼、情報統合思念体製のインターフェースが自力で作り出した情報制御空間だとしたら、僕には入り込むことさえ出来なかったかも知れません」
「事情が良く分からないんだが……」
 閉鎖空間と情報制御空間とやらの違いを教えてくれ、俺は前者はともかく後者は知らない。
 ……あんまり入りたいとは思わないが。
「専門分野が違うと思っていただければそれで結構ですよ」
 分かった、その辺りで手を打たせてもらおう。それ以上説明されても理解できる気がしない。
 ん、そういや朝倉は長門の同類か何かなのか?
「ええ、そうです。彼女は本来長門さんのバックアップ役のはずですよ。今回の件は完全に独断専行のようですが」
 そうだったのか……。
「僕も詳しい事情までは知らないのですが」
 いや、俺よりは全然詳しいと思うぞ。
 というかそれだけ知っていれば十分だろう。
「……そういや、俺たちはどこへ向っているんだ?」
「さあ、どこでしょうね」
 ……待て。
「何せ閉鎖空間発生時への干渉による亜空間創造など始めてのことですからね。僕にも長門さんにもさっぱり分かりません。分かるのは、僕が閉鎖空間と似た要領である程度力を振るえるらしいということと、移動性能だけだったら彼女等より僕の方が上らしいということだけです」
 最初に言っていた専門家云々ってのはそのことか。
「出口は分かるのか?」
「上に行けば出られると思っていたのですが……」
 さっきから古泉は延々と高く高く上っているが、未だに頭上に空が見える気配は無い。
 時折何かが小さく割れるような音がして天井らしき部分の色が変わるんだが、それだけだ。
 これが階層を突破しているってことなんだろうか。
「長門が朝倉を倒せばどうにかなるのか?」
「そうです、と言いたい所ですが、それも不明です」
「不明って……」
「何分始めてのことですからね。あっ……」
 そのとき、携帯がなった。
 俺の携帯の着信音じゃない、古泉のだな。
 しかし、こんなおかしな空間でも電波は通じるんだな……。
「すみません、取っていただけますか?、胸ポケットに入っていますので」
「ああ」
 俺は古泉の着ている制服のブレザーから携帯を取り出した。
 着信かと思ったが、どうやらメールのようだ。
 これ、見ていいんだろうか?
「見ても構いませんので、画面を僕に見せてください」
 本人がいいって言うなら良いんだろうな。
 俺は携帯を操作してメールの本文を表示した。
 何だ、これ?
「どうやら閉鎖空間の方は消滅したようですね」
「……暗号か何かか?」
 携帯の液晶に移っているのは、正体不明の記号交じりの文字列だけだ。
「ええまあ、そんなところです」
 そんなものまで使っているのかよ。
 しかし、閉鎖空間は消えたんだよな。
 じゃあ、ここは……。
「空間が崩壊する兆候は無さそうですね。長門さんの方の戦況は分かりませんが」
「……なあ、一度戻らないか? この状況で長門と別行動ってのはやばい気がするぞ」
「そうですね……。ああ、その必要は無さそうです」
 古泉が視線だけで地上の方を示す。
 その先に、地上から緩々と上昇してくるセーラー服姿の戦乙女が居た。
 その姿には傷一つ無かったが、何故か眼鏡だけが消えていた。
「お疲れ様です、朝倉涼子を倒したんですね」
 やってきた長門に、古泉がねぎらいの言葉をかける。
「排除は無事完了した」
 古泉は何時もの笑顔で、長門は無表情。
 違いと言えば長門が眼鏡っ娘じゃなくなったことくらいだな。
 しかし、二人とも……、とても『敵』を一人倒した後になんて見えない。
「あ……」
 肩が竦む。
 怖い、と思う。
 長門も古泉も、俺を助けるためにやって来てくれたのに……。
 ふっと、体を支えてくれる腕に力が篭る。
「大丈夫ですよ。もう危険は有りません」
「え、あ……」
 違う、そういうことじゃない。
 そういうことじゃなくて……。
 俺はただ目を瞑り、首を振った。
 お礼の言葉とか、労いの言葉とか。
 本当ならそういう言葉を言わなきゃいけないはずなのに、何の言葉も出てこなかった。
 不意に、前髪に触れる何かを感じる。
 古泉、じゃないよな、古泉は俺を抱きかかえているわけだし。
 じゃあ、これは……
「……不安そうな相手に対しては、こうすると良いという記述を見かけたことがある」
「長門……」
「不安?」
 長門が、何時も通りの無表情のまま俺に訊ねる。
 けれどどうしてか、その瞳の色が何時もとほんの少し違うような気がした。
 例えそれが、眼鏡の有る無しや、光の加減のせいだったとしても、
「あ……、いや、もう、大丈夫……、だと、思う」
「……そう」
 長門が、そっと手を引っ込めた。
「……二人とも、ありがとな」
「いえいえ、どういたしまして」
「これもわたしの役目」
 両極端な答えだな、この二人らしい気もするけどさ。
 俺は思わず、その答えに笑ってしまった。
 多分、安心したんだろうな。
 古泉がどういうわけか釣られて笑い出し、長門がそれをきょとんとした表情で見ている。
 そんな時間が、何だか嬉しかった。
 ……さて、当たり前だが俺達は朝倉が作り出したらしい謎の空間から脱出できていない。
 本当なら和んでいる場合ではないのだが、ついつい気が緩んでしまっていたらしい。
 ああ、俺と古泉だけじゃないぞ、長門もだ。
 何で表情が読めない奴の気が緩んでいたのかが分かるって、そりゃな、
「……重要な事項を忘れていた」
「何ですか?」

「涼宮ハルヒと朝比奈みくるがこの空間のどこかにいる」

 こんな超重要事項を言いそびれていたんだからな。
 聞いた瞬間、俺と古泉は揃って絶句していた。
 そりゃそうだろう。
 知らぬは本人ばかりなりのその張本人が、未知との邂逅以外の何でもないこのおかしな世界に引きずり込まれてしまったってことなんだからな。
 おまけに、朝比奈さんもか。
「……場所はわかりますか?」
 俺より早く復活した古泉が、まだちょっと顔を引きつらせたまま長門に訊ねた。
「詳しい場所は不明、ただし、二人は一緒にいると思われる。そうでないと朝比奈みくるが巻き込まれるとは考えられない」
「どういうことですか?」
「閉鎖空間は発生場所は違えども、発生源そのものは涼宮ハルヒ。詳細は不明だが、朝倉涼子は何らかの手段でその発生する瞬間の涼宮ハルヒの精神そのものに接触した可能性が高い。朝比奈みくるが巻き込まれたのは物理的に近くにいたからと考えられる」
「なるほど……、では、涼宮さんが巻き込まれたのは偶然ですか?」
「意図したものである可能性が高い」
「それは、二重の罠ということですか」
 古泉が深い溜息を吐いた。
「……どういうことだ?」
「朝倉涼子はあなたの殺害を目的としていた、それ自体に間違いは有りません。ですが、それが成功してもしなくても、閉鎖空間発生時の涼宮さんの精神に触れ、そのまま涼宮さんの肉体ごとこの空間に閉じ込める事ができれば、第一の目的は達成したようなものなんです」
「……そういうことか」
 長門は観察者で、朝倉はその同類ってことだからな。
 傍観に飽きて独断で、ってことなんだよな。
「そういうことです。……とにかく、涼宮さんと朝比奈さんと探さないと話になりませんね」
「二手に分かれるのか?」
「いえ、一緒に行動しましょう。僕と長門さんにも互いの位置を把握する手段は有りませんから、バラバラになるのはまずいでしょう。長門さんも宜しいですね?」
「了解した」
 ……かくして、美少女二人を探す空飛ぶ探索紀行が始まった。


 探索紀行と言っても、実はそんなに長く続いたわけじゃない。
 上の方はそれこそ天井知らずの謎の世界だったが、一番下の方には見慣れた街並みが広がっていたからな。
 まあ、妙な色をした世界では有ったが。
 現実世界の色違いって辺りは、閉鎖空間と似たような感じだろうか。
「通学路の周辺を辿るのが良いでしょう」
 やっと地上に降りて俺を下ろした古泉は、そう言って道を歩き始めた。
 長門と俺がその後ろを着いていく。
 ちなみに携帯電話は通じていない。
 かけようとした途端不通になるなんてどういうギャグだと思ったが、古泉が言うには
「涼宮さんが『こういう場所では携帯なんて通じるわけがない』と思っている可能性が有りますから、不思議な事ではないでしょう」とのことだった。そういうものなんだろうか。
「もうすぐ」
 長門が、唐突に呟いた。
 おいおい、分かるのかよ。
「近距離の生体反応が感じ取れるだけ」
 それだけでも充分凄いんだが。
「では、ここからはあなたに先頭になってもらいましょう。朝比奈さんはともかく、涼宮さんを安心させるためにあなたが一番でしょうからね」
 何でそうなる?
 別に構わないが……。俺に出来ることなんて、この程度みたいだしな。
 長門が指し示したのは、すぐ近くの公園だった。
 ここって……。
 公園のベンチに、女の子が二人。
 俯いているハルヒと、そんなハルヒを見たまま沈痛な表情をしている朝比奈さん。
「ハルヒ!」
 俺は、ハルヒの名前を呼んだ。
「キョンっ……」
 はっと顔を上げて俺の名前を呼んだハルヒが、そのまま固まってしまう。
 一体どうしたんだ?
 俺は事情が分からず、助けを求めようと後ろを見た。
 古泉が、しまった、というような顔をしていた。……こんな表情、始めて見た。
 前に向き直ると、ハルヒの視線も俺ではなく古泉の方を見ていた。
「ねえ、古泉くん。……さっきの、何?」
 ハルヒが、夢遊病者のような声の調子で古泉に話し掛ける。
「さっき、空から降って来たわよね……。有希と一緒に。手から赤い光を出して、何だか良く分からないことになって……。何かと思ったら、今度はキョンを抱えて飛び上がって……」
 仕組みは良く分からないが、どうやら、一部始終を全部見られていたようだ。
 ……最悪のパターンだ。
「ねえ、あれなに……。何なの、一体? それにここはどこ? 何であたし達こんな場所にいるの? ねえ、誰の仕業? これも古泉くんがやったの? ねえ――」
「ハルヒっ!」
 俺はふらふらと歩き出したハルヒと何も言えず立ったままの古泉の間に割って入った。
 どっちも見ていて放っておけなかった、痛々しすぎる。

 なあ、ハルヒ、お前は何も知らないかもしれないが、古泉はお前のヒーローなんだぞ?

「止めないでよ、キョンっ」
「古泉は何も悪くない、こいつは……、長門と一緒に俺を助けに来てくれたんだよ」
「何それ……、助けるって何? 何から、誰から? あんた一体どうしたの? おかしいわよ。あんた、古泉くんに騙されているんじゃないの?」
 まずい、完全に逆効果だ。
「違う、古泉は何も悪くないんだ!」
「じゃあ、何なのこれは、誰のせいなの!」
 ハルヒの叫びが、空の無い公園に響き渡る。
「何で言えないの、言えないのはあんたが何か隠しているからでしょう?」
「違うっ」
「違わないわよ。あんたは、あんたは……馬鹿だけど、嘘は吐かない奴だと思っていたのに……」
 馬鹿は余計だ。
「俺は嘘なんて吐いてない!」
「今吐いているじゃない!」
「あっ……」
 そうだ、今の俺は……。
 ……ハルヒを誤魔化そうと必死になっているんだ。
「あんたおかしいわよ、あんたやっぱり古泉くんに騙されているのよっ」
「何で古泉のせいにするんだよっ」
 だからどうしてそうなるんだ。
「だって、あんたが……、あんたが……」
 ハルヒが、俺の肩を掴む。
 何回目だ、この展開。
「あのな、ハルヒ……」
「……キョンの、キョンの馬鹿ー!!!」
 瞬間、脳が強く揺さぶられたような気がした。



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