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ドーリィガール  第一章



 別に泣き疲れていたわけではないが、その日はベッドの中で鬱々と考え過ぎた挙句、そのまま眠ってしまった。こんな暗澹たる気分になったのは、子供の頃に叱られたまま部屋に閉じこもり寝入ってしまって時以来かも知れない。快調とは言えない目覚めだったのは、何となく寝苦しさを感じて目を開いたからというのだけが理由じゃない。
「ん……」
 瞬きを繰り返し、ベッドの中から這い出ていく。まだ早い時間だというのは分かっていたが、体調と気分の悪さに反して眠気は無かった。あーあ、もっと寝てりゃ良かった。溜め息を吐き、普段だったら確認することも無いクローゼットの中の姿身で自分の姿をわざわざ確認しようと思ったのは、顔色の酷さが気になったからだ。そんなに顔に出る方じゃないと思うんだが、出てないとは言い切れない。あまりにも良くなさそうだったら、今日は仮病で休んだ方が良いかも知れない。顔色が悪いまま学校に行くと、かえってハルヒがうるさそ――
「――は?」
 姿身を見た瞬間、ポンっと、何かがはじけ飛ぶようにして今の今まで考えていたことが頭の中から完全に吹っ飛んだ。それこそ、ポップコーンが弾けて全く違う姿が現れたかのようだ。あれは知識として知っているから同じ物だと分かるので有って、予備知識無しに見せられた場合に同じ物の加熱前と加熱後だと気づける人はそう多くないだろう。そう、つまりそのくらいの変化が有ったのだ。俺の人生の中でのインパクト大賞と言えばその第一位は朝倉涼子に襲われた時だと思うんだが、これはその次か、いや、それに匹敵するくらいのインパクトが有った。
「なんだよ、これ……」
 しかし、あの時の衝撃が恐怖に由来するものだとしたら、これはもう完全にベクトルが違っていた。恐怖や畏怖とは違う、だが喜ばしいことでも無い。もっと質の違う――言葉で表すことすら躊躇われる、分類不能の衝撃。

 ――姿見の中に、髪の長い少女の姿が映っていた。

 冗談だと思うだろう? 俺だって冗談だと思いたい。しかしながら俺は滅茶苦茶驚いていたくせに、これを冗談だと判断することも夢だと思いこむことも無く、事実の確認が大事だと判断したのだ。非常識な事象に慣れ過ぎているせいだろうか、どんな無茶なことが有っても事態の把握を優先するようになっちまったらしい。やれやれ、全くもって喜ばしいことじゃないね。
 先ずは鏡だけがおかしいんじゃないかと思って肩の辺りに手を動かしてみたら、鏡の中の少女も同じように手を動かした。手に触れる感触は明らかに髪の毛のそれだ。すっと伸びた長い黒髪。髪の毛だけが空中に鎮座していたりするなんてこともなく、それは俺の頭から生えていた。ついでに頬を指で突っついたり片目を瞑ったりもしてみたが、鏡の中の少女も全く同じ動作を示した。それと、肩から下も――と、その部分についてはあまり語りたくない気もするのだが、どうやら俺は正真正銘女の身体になってしまったらしい。
「……なんだよ、これ」
 ハルヒ、或いはその他超常的な存在の力によって常識外の出来事に巻き込まれた回数は一度や二度では無いし、これからも妙なことが起こるんじゃないかと思っていたりもするのだが、これはさすがに俺の予想の斜め上どころじゃない。飛行機にいきなり乗せられたかと思ったら、実は行き先は宇宙でしたと告げられたようなもんだ。常識で考えたら飛行機で宇宙に行けるわけ無いのだが、俺の周りにはその『常識』をあっさりと捻じ曲げていく心当たりが幾つか存在する。飛行機でさえ想定外なのに、向かった先は宇宙、その状況下でまともな判断を下せる人間が居たら俺は変人だと言ってやりたいね。そして俺は変人ではないので、この状況が全く理解出来ないのだ。何で俺が女になっているんだ?
 原因も理由も不明だが、一応分かることも有る。ここは俺の部屋だ。俺自身以外の部分が変化している可能性も有るが、少なくともここは俺が昨日まで暮らしていた部屋で間違いない。クローゼットの中身が多少違っていた気がしたが、それはそれだ。疑問は有るがとりあえず確認してみないと何も分かりゃしない。
 困った時の神頼み、もとい、長門頼み。カバンの中に入れっぱなしだった携帯を取り出して名前を確認する。カバンの中身の検分は後だ。先ずは一番事情を知ってそうな奴を捕まえないと。……良かった、電話帳の中にちゃんと長門の名前が有る。この番号が俺の知っている長門有希本人に通じているとは限らないわけだが、もし違ったとしたらその時はその時で別の方法を考えるしかない。
 ごくりと唾を飲み込んでから長門の番号にかけてみると、コール音が数度鳴ったところで通話が繋がった。
「おい、長門っ」
『落ち着いて』
 すっと耳に入ってくる声は何時も通りの長門有希の物に間違いなかった。良かった、長門は長門だ。それだけでも随分安心できる。
「なあ、長門、一体何がどうなっているんだ。っていうか、お前には俺が俺だって分かるんだよな?」
『大丈夫。どんな姿になってもあなたはあなた』
 心強い言葉をありがとう。しかしそんな言葉だけで納得できるような状況じゃないぞ。事情を知っているんだったら説明してもらえないか。
『……』
「どうした、長門?」
『……学校で説明する。登校してきて』
「え? 学校でって、この姿でか……」
『そう。あなたが女性になったと同時に、涼宮ハルヒを含めたあなたを知る人間はあなたが最初から女性で有ったと認識するようになった。そのため、あなたがその姿で出歩いても特に問題は発生しない』
 そ、そうなのか……周囲の認識までって考えると結構大事のような気もするんだが。まあ、その辺のことについてあれこれツッコミを入れるのは後にしよう。長門が学校でって言っているんだ。とりあえず登校するしかなさそうだ。女子の服を着るってのには抵抗が有るし、そもそも着方が分からないんだが。
『大丈夫、最低限の知識は身についているはず』
 何というご都合主義。しかしながらご都合主義で喜ばしいのは作者と読者だけで、登場人物がそれで喜べるかどうかってのは別問題だ。俺はどうかって? 喜べばいいのか悲しめばいいのかさっぱり分からないね。ただ一つ言えるのは、焦ってはいるが絶望しているわけでも無いってことくらいか。
『わたしがそうしたから』
 ご都合主義の発生源は誰だ。ハルヒか? と思ったが、どうやらそういうわけでは無いらしい。
「……は? ……なあ、長門、これは誰の仕業だ?」
『涼宮ハルヒ』
 そうか……まあ、そうだよな。他の連中が俺を女にする理由が思いつかん。ハルヒが俺を女にする理由も良く分からんが、その辺は長門が後で説明してくれるんだろう。
「分かった、事情は学校で聞く。……また迷惑をかけることになるが、すまないな、長門」
『良い。わたしはわたしにできることをしているだけ』
 そう言うなって、ああ、すまない、じゃなくて、ありがとう、と言うべきだったかも知れない。訂正しておこう。
 五文字で終わる言葉とともに良い忘れていた朝の挨拶を済ませ、俺は通話を切った。


 長門の言う『最低限の知識』とは一体何のことかと思ったが、服を手に取ってみて分かった。なるほど、何となくでは有るが着方が分かるし、着る前に想像していたほどの抵抗も無かった。それはそれでどうなのかという気もするが、長門がどうにかしてくれなければ俺の精神はあっさりと崩壊を迎えていたかもしれないのだ。長門に感謝しないと。
 女の姿で女物の制服に身を包み、朝の準備を済ませて登校する。俺が珍しく早起きしていることに母親と妹が驚いていたが、彼女達の反応におかしなところは無かった。長門の言った通り、本当に認識ごと書き変わっているらしい。認識、というか記憶と記録かな。生徒手帳に入れておいたSOS団集合写真でも俺は女の姿だった。長い黒髪にポニーテール。俺の面影は多少残っているが間違いなく女子だ。男っぽさなど欠片も無い。例えばの話で恐縮だが、長門に少年っぽい格好をさせれば男子に見えないことも無いと思うが、今の俺に男っぽい服を着せても男子に見えることはないと思う。髪が長いせいもあるが、そういう顔立ちなのだ。多分、髪を切っても男子に見えることは無いだろう。俺を元にしたにしては少々出来過ぎた外見な気もするんだが、これもハルヒの願望や無意識の仕業なのかね。
 家の外に出てざっと周囲を見渡してみたところ、昨日までと違うところは見当たらなかった。高さが違うせいで少々違和感が有るが、それだけだ。乗り物の座席の位置や靴底の厚さの違いで視界の高さが変わるようなものだろう。
 長く伸びた髪が歩くたびに揺れて鬱陶しい。ポニーというか、まとめても良かったんだろうが、残念ながらその事実に気づいたのは家を出てからだった。生徒手帳の中に写真を挟んでいることに気づいて確認してみたのだって家を出た後だ。
学校に着くまでに何人か顔見知りを見かけたが、全員何時も通りの外見だったし、誰一人として俺の存在に疑問を持っていたりしないようだった。予めそういうものだと説明されているとはいえ、自分の存在そのものに疑問を持つのに周りがそれを当たり前だと思っているっていうこの状況は、なかなかに居心地の悪いものが有る。そういう意味じゃあ、去年の十二月に改変された世界と少し似ているかもしれない。あの時と違って変化が起こったのは世界の方じゃなく俺自身なわけだが、長門が頼りになる分だけあの時よりマシだと言える。電話で話しただけだが、長門は俺の知っている長門のままだ。それは間違いない。
 校門を通り昇降口で上履きに履き替え、教室へと向かう。室内だからだろうか、外に居る時以上に自分の身長の、視界の高さの違いが気になる。元々背は並み程度だったが、今は女子の平均より少し高いくらいしかなさそうだ。少なく見積もっても五、六センチは縮んでいるんじゃないか。
 教室を覗いてみたところ、視界の高さが違う以外は特にこれと言って変わったことは無かった。みんな何時も通りだ。ハルヒの席に朝倉が座っているなんてことも無く、ちゃんとハルヒが居る。この俺の身体の変化はハルヒの影響とのことだが、長門が言っていた通り、ハルヒにとっては俺が元から女だってことになっているんだろう。やれやれ、なんでそんなことになっているのやら。ま、原因は気になるがハルヒに聞けることでも無い。俺はハルヒに気付かれないうちにドアの傍から立ち去ると、隣のクラスに入った。カバンを持ったままというのが少々不自然だが仕方が無い。教室に入ったらハルヒに捕まる可能性もある。事態を把握する前にハルヒと対面するのはちょっとな。
「よう」
 六組の教室の端の方、窓際一番後ろの席に長門が座っていた。違うクラスの奴がいきなり入って来たと言うのに誰にも何も言われなかったのは、俺も長門もハルヒのお仲間扱いだからってことか。
「……来て」
 長門は挨拶さえ抜きでそう言うと、すっと最低限の音だけを立てて立ち上がり、俺の返事を待たずに歩きだした。こちらのことを視覚で確認しているかどうかさえ疑わしい様子では有るが、何時も通りの姿を見ていると、寧ろ頼もしいとさえ思うね。
 長門が向かった先は屋上だった。ここで説明してくれるってことだろう。ホームルームの開始までにはまだ十分以上時間が有る。
「……事情を説明してくれないか?」
 先ずは事情を飲みこめないとどうしようもない。長門が焦った様子を見せてないってことは、これはつまりそれほど緊急を要するような事態では無い、ということなんだとは思うが、緊急性が有ろうが無かろうが、事態を把握しなきゃどうにもならん。
 いきなり性別が変えられるなどという無茶な事態になったのに、俺も随分と冷静だな。自棄になっているつもりはないんだが、これも長門が細工をしてくれたおかげだろうか。それとも、衝撃が大きすぎて頭がついていかないんだろうか。まあ、普通こんな状況は有り得ない。一晩で男が女に、なんて、どこのファンタジーだよ。
「原因は涼宮ハルヒ」
「それはさっき聞いたよ。……なあ、ハルヒは一体何を思って俺をこんな姿にしたんだ?」
 解決のためには理由を知らないと。知らなくてもなんとかなるのかも知れないが、理由が分からないと俺が納得出来ない。俺はことの当事者なんだぜ。別に長門に説明する義務が有るわけじゃないと思うが、説明してもらえると非常にありがたい。
「……昨日のあなたの様子と、その後の古泉一樹との会話が原因」
「古泉?」
 予想外の名前が長門の口から出てきて、思わず心臓が跳ね上がった。古泉、古泉が……その名前の破壊力は偉大だった。俺が女になってしまったという衝撃を吹き飛ばすほどじゃないが、それと同等くらいの威力は有ったのかも知れない。朝から慌ただしいというか、現状を把握することばかりに集中していたせいですっかり頭から抜け落ちかけていたが、古泉に「大嫌い」と言われてから、まだ一日も経っていないんだ。一晩経ってもちっとも薄れ無かった短い台詞が、頭の中で繰り返し響いている。きゅっと心臓が締め付けられるような感覚が有って、俺は思わず目を固く瞑ってしまった。
 ……どう見ても不審者と言うか、不可思議な行動だったと思うのだが、興味が無かったのか、そっとしておいた方が良いと気づいたのか、それとも単に話を進めたかったからなのか、長門からその件に対する追及は無かった。
「涼宮ハルヒはあなたと古泉一樹の不仲の原因を探していた。そして古泉一樹との会話から、その原因が『好みの異性のタイプの不一致』と判断した」
 何でそうなるんだ? まあ、古泉と好み云々の会話をしたのは確かだし、それが原因の一つのような気もするが、古泉がそれを正直にハルヒに伝えるとは……いや、そういうことも有るのかも知れない。全部を伏せるより適当に真実を混ぜ込んだ方が良いというのは、嘘を吐く時の基本中の基本だ。
「あなたと古泉一樹の不仲、古泉一樹の好みの女性が居たらどうなるかという好奇心、居たら何かが変わるかもしれないという願望――それらが混ざった上で、あなたの肉体とそれに伴う世界の改変が行われた」
 ……思わずその場でくらりと倒れこみそうになったね。どこをどう繋げたらそういう結論が出て来るんだよ。いやはや、ハルヒのことを非常識な奴だと思ったことは一度や二度じゃないが、ここまで無茶をやるとは思って無かった。夏休みが終わって欲しく無いからという理由で同じ二週間を一万回以上繰り返したり、気に入らないことが有っただけで世界を作り変えようとしたりする時点で相当無理が有るわけだが、まさかそれがピンポイントで俺の上に降りかかるとは思って無かったよ。
 ん、待てよ……古泉の、好み?
「そう」
「そりゃあ、どういうことだ」
「今のあなたの外見には、涼宮ハルヒが認識している『古泉一樹の好みの外見』が反映されている」
「へぇ……」
 なるほど、道理で俺を元にした割には可愛らしい容姿をしているはずだ。この真っ直ぐな黒髪はそのせいか。男である以上(今は元男、になっちまってるが)髪を伸ばしたことなど無いが、男だった時の俺の髪をそのまま伸ばしてもこんな風にはなるまい。触った印象だけでも全然違う。しかし、古泉に大嫌いと言われた俺が古泉好みの外見になってしまったのか。何とも言えない状況だな。俺の立場としても微妙と言わざるを得ないわけだが、古泉の方にしてみれば、微妙どころじゃないだろう。それとも、見た目はともかく中身が俺じゃ、ってことになるんだろうか。ああ、そういえば、
「ハルヒを含めた周囲の連中は俺のことを女だって思っているってことだが、古泉や朝比奈さんはどうなんだ?」
「二人の記憶は元のまま。また、その記憶を持ったまま、あなたが女性に変化したと認識している。……第三者という視点では有るが、状況に対する認識そのものはあなた自身と大差無い」
 そうか、そりゃまた都合の良い、いや、違うな、長門がそうしてくれたのか。
「そう」
 ……うん、まあ、ありがとよ。
 現時点で二人にはまだ会って無いし、正直二人の認識が元のままで有ることが一体何の役に立つかも分からないが、元の自分を知っているのが長門だけじゃないってのは喜ぶべきことなんだろう。正直この状況下で、朝比奈さんはともかく、古泉の認識まで変わっていたら……なんてのは、あまり想像したくないんだ。
 説明が一段落したというわけでも無いと思うのだが、長門がすっと俺から視線を外した。背後の空間を見つめているようにも見える。何だろう、と思って振り返ると、そこに見知った姿が立っていた。何時もよりも長身に見える背の高い男子生徒が誰であるかなんて、一々説明する必要も無いだろう。この状況下で俺達の前に現れる男なんて、たった一人しかいない。
 どくん、と、心臓が有り得ないほどの強さで鼓動を打ち鳴らした。高い位置に有る顔をそっと見上げる。視線が合うと、古泉はそれはそれは綺麗な顔をゆっくりと歪ませた。それが笑顔の一種だと気づいたのは、古泉が俺達の居る方へ近づいて来てからだった。
 普段よりも高い位置から見下ろされて、身体が竦み上がる。昨日の今日だというのについさっきまですっかり頭の片隅に追いやられてしまっていたが、心に染み渡った暗い感情が消えてくれたわけじゃない。寧ろ、現状に対する混乱と一気に湧き上がってきた昨日の記憶が綯い交ぜになって、今まで感じたことも無いような胸が詰まる何かが押し寄せてきている。……頭と体が切り離されてぐちゃぐちゃにされて、そのままの状態でもう一度繋げたら、こんな風になるのかも知れない。俺は、何を考えたら良いのかさえ分からなかった。ぽかんと見上げるだけのその姿は、随分と間抜けだったんじゃないだろうか。いくら多少可愛い顔とはいえ、魅力的な表情になっていたとは到底思えない。
「あ……」
「これはこれは、なかなか可愛らしい姿になられましたね」
 毒を含んだその言葉が鼓膜を振るわす。今までにも古泉の言葉の裏に潜む悪意の欠片のようなものを感じ取ったことは有ったが、あからさまなことは余り無かったし、こんな風に甘さを存分に含んでいるようなことも無かった。こんな、こんな、今まで聞いたことも無いような声で、
「綺麗な黒髪ですね」
 古泉の手が俺の髪に触れる。
 ……俺は一体どれだけ情けない顔をしていたんだろうか。目を合わせたくなくて、思わず首を振り、そのまま身体の向きを変えてしまった。髪の毛が手の中をすり抜けていくのが視界の端に見えたけれど、その先にある古泉の表情は見えなかった。だけど、見えなくて良かったのかも知れない。
「……」
 振り返った先に居た長門が、静かに佇んでいた。何か有ったときは結構お喋りになる長門にしては珍しい沈黙だ。俺が話を振ってないから、というのだけがその理由とも思い難い。何だろう、この、ピリッと空気が震えるような感覚は。不可解にも見える古泉の表情や仕草よりはよほど現実味が有るが、長門は長門で少々近寄り難い雰囲気を漂わせている。
「……で、彼はどうやったら元に戻れるんですか?」
 俺が口を開くよりも先に、背後に居た古泉が質問した。やれやれ、という短い言葉がその台詞に被さっているような気がした。
「不明」
 不明って。
「彼が女性になった原因と経緯を完全に究明しない限り根本的な解決は不可能。ただし、涼宮ハルヒの能力や情報統合思念体の能力そのものに手が加えられているわけでは無いため、緊急性はないと思われる」
「なるほど、戻すための力がそこに有る以上慌てる必要はない、ということですね」
 何でそんなに冷静なんだよ、と苛立ちそうになるくらい古泉の言葉は普段通りだった。いや、普段通りに戻ってしまった、と言うべきだろうか。さっきのあれは一体なんだったんだ。
 古泉の、いや、長門の言いたいことの理屈は何となく分かる。この状況を作ったのがハルヒなら、戻せるのもハルヒ。そして、ハルヒの持っている力はそのままだ。別に誰かに取られているわけでも無いし、タイムリミットが有るわけでも無い。だからこそ、原因を究明して逆を辿れば戻れるってことになるんだろう。
 とはいえ、リミットが無いイコール希望が有るという理屈が成り立つわけでも無いんじゃないか。たとえば去年の夏休みのような場合も有るわけで。……何だか考えるだけでもうんざりしてきた。俺は一体どうすれば良いんだよ。
「現状では涼宮ハルヒを刺激せずに過ごすのが最適だと思われる。解決方法を探すのはわたしの役目。あなた達は通常通り過ごせばいい」
 通常って。俺が女になった状況で通常も普段も無いだろう。女になった俺は一体どういう位置づけなんだ? いや、俺の立場そのものは同じなのかも知れないが、そもそもハルヒとの関係だって――まあ、あいつの性格から考えて、俺が女だったところで態度が大きく変わるってことは無さそうな気もするんだが。男だからという理由で肉体労働を押しつけられたり除け者にされたりすることは有るが、逆に言えば、せいぜいその程度しか男扱いされて無かったってことだ。
「つまり、僕等がすることは特にない、ということですか」
「そう」
「あえていうなら、彼、失礼、今は彼女ですね。彼女をまるで男性のように扱って不自然に思われたりしなければそれで良い、ということですね。そしてそれは、彼女自身にも言えることだと」
「……そう」
 どういうことだ? 古泉が気をつけなきゃいけないってのは何となく分かる。きっと長門や朝比奈さんもそうだろう。けど、何で俺もその対象に入るんだ?
「要するに、あなたがまかり間違って男子トイレに行きそうになったり、朝比奈さんが着替えをする時に部室を出ようとしたりしなければいい、というだけのことですよ」
「あ……そうか、って、そりゃあ、まずいんじゃあ……」
 トイレ云々は当然のこととしても、朝比奈さんの着替え中に居合わせるのはまずいだろう。幾ら女の姿になったとはいえ、俺の中身は男の時のままなんだぞ。それに、朝比奈さんだって俺が本当は男だってことを覚えているんだろう? あれ、そういや何で朝比奈さんはここに居ないんだ? 彼女も事情を知るべき立場なんじゃないのか。まあ、その件については保留でも良いんだが。後で説明しても何とかなるだろう。朝比奈さんは学年が違うから放課後以外での接点は薄いし、俺が女になってしまった経緯について直接関係有るわけでも無さそうだ。それに、今から朝比奈さんを呼ぶような時間も無い。腕時計の文字盤はそろそろホームルームが近いことを知らせている。
「そう思うなら着替え中の彼女の方を見なければいいだけでしょう。とにかく、今のあなたは女性なんです。僕もそのように扱うつもりですから、あなた自身も気を付けてください。涼宮さんに違和感を持たれると面倒なことになりそうですしね」
「……分かったよ」
 何か棘があるな。別に良い。いや、良くはないけど、その点について指摘する気は無いんだ。大嫌いだって言われたその台詞はまだ頭の中にこびり付いている。嫌いだって言った相手が自分の好みを反映した姿になっているって、どんな心境なんだろうな。ハルヒの解釈が入っている以上、完全に古泉の好み直球ってことはないだろうが、俺が男から女になったってだけでも大事なんだ。古泉が何の感情も抱いて無いってことは無いだろう。
「なあ、長門、他には何か有るか?」
「……」
 長門が微かに首を横に揺らし、それとほぼ同時に、ホームルームの開始が近いことを告げる予鈴が鳴った。


「ようっ」
 窓の外を見ているハルヒに声をかけ、自分の席に腰を下ろす。机や椅子の高さも昨日までとは違うようだが、今の体格に合わせての変化らしく、座ったところで特に問題は感じなかった。違和感が有ることは確かだが、そのうち慣れるだろう。あんまり慣れ過ぎるのも良く無い気がするんだが、それはそれだ。
「あんた、今日も遅いのね」
「うっさいな、遅刻して無いから良いじゃないか」
「あら、早起きは三文の得っていうじゃない。あたしとしては、早起きが得っていうより寝坊は損って言った方が正しい気もするんだけど」
 お前の見解なんぞ知ったことじゃない。俺は早起きして得するよりより二度寝の幸福を味わいたい。もっとも、今日はそれどころじゃなかったんだが。
 どうやら今日はそれ以上喋ることが思いつかなかったのか、ハルヒはそのまま黙ってしまった。担任の岡部が来たからかも知れない。
 何気ない振りをして話しかけてみたハルヒは、びっくりするほど普段通りだった。若干不機嫌気味にも見えたが、そんなのは別に珍しい物でもなんでもない。面白い物が見つからなかったり気に入らないことが有ったりしたときは大体こんなもんだ。ハルヒにとってはこの状態が当たり前なんだから当然と言えば当然なんだが、俺の方にはどうしても違和感が有る。そりゃそうか、無い方がおかしい。周囲はどうあれ、俺自身が変わってしまったことは確かなのだから。
それにしても、自分で変えておきながら自覚が無いって辺りが何とも言えないところだな。自覚が有ったらそれこそ世界崩壊フラグだが。ハルヒに対しての文句はぐっと飲み込んでおくしか有るまい。
「……何か気になるわね」
 そんな普段通りの、特に異常など感じさせなかったハルヒが行動を起こしたのは、教師の欠席により急遽自習と化した三時限目のことだった。ここに来るまで何の問題も発生していない、ハルヒも他の連中も普段と変わりなく生活している。谷口や国木田の態度だってそのままだし、特に特定の女子生徒と仲良くしているというような設定がついているわけでも無さそうだったし、男子達と距離が開いているという様子でも無かった。なるほど、本当に俺が女になったって以外は何も変わっちゃいないんだな。元々俺は割と普通の男子生徒のはずだったんだが、女子になっても人間関係がそのままじゃ、結構変な女なんじゃないか? 別に良いけど。
「気になるって、何がだよ?」
「あんたの髪よ」
「髪?」
「そうよ。……後ろから見てると何か気になるのよね。何でかしら」
 長い黒髪にハルヒの手が伸びてくる。さらさらの髪よねえ、と呟いているが、このさらさらヘアもハルヒの改変による産物だ。俺が元々持っていたわけじゃない。気になる、というその理由が有るとすれば、それはこの黒髪が昨日まで存在しなかった物だからだろう。意識的にはともかく、無意識のレベルでは引っかかりが有るのかも知れない。
「気になるって言われても、今日は結ぶ物を持ってきてないぞ」
 俺自身も少々、いや、実はかなり気になっているんだが。背中を覆う長い髪なんてのは見る分には良いが、自分の物として考えるとあまり楽観視出来なかった。何せちょっと動くたびに彼方此方に引っ掛かりそうになるのだ。邪魔で仕方が無い。
「そういう物は普段から持ち歩きなさいよ。もう、仕方ないわねえ」
 ハルヒが俺の髪をさっと手でまとめて持ち上げる。指先がざわりと地肌に触れる感覚に馴染みが無かったせいだろうか、俺は思わずその場で肩を揺らしてしまった。
「ちょっと、人が結んであげようとしているんだから動かないでよ」
「あ、ああ」
 ハルヒが俺のためにまともに役に立つようなことをしてくれるとは、珍しいことも有るもんだ。いや、それとも単に視界の邪魔だと思っただけだろうか。まあどっちでも良いか。髪を結ばれて困るわけじゃないんだ。好きなようにさせておこう。
 待つこと数十秒。ハルヒはどこからかとり出した櫛とゴム、リボンで俺の髪を結びあげた。丁寧な仕事だったからだろうか、多少引っ張られたりはしたが思ったほどの痛みは無かった。人に髪を結ばれるなんてのは人生初めての体験なわけで、何か新鮮だったけどな。
「はい、これで良いわね」
 ハルヒが俺の頭を開放する。ついでにコンパクトまで渡された。準備が良いことで。それとも、女子にとってはこれが標準装備なんだろうか。元が男である俺には良く分からない。後で朝比奈さんにでも聞いてみようか。化粧道具には興味が無いが、髪を整えるものくらい常備していた方が良いのかね。髪、長いし。ああ、邪魔だからと言って切るつもりは無いんだ。それは勿体ないし、この黒髪には理由が有るし、何より、この状態で髪を切ったりしたら元に戻ったときに影響が有るかも知れない。
 女の時に髪を切ったせいで男に戻ったら坊主でした、なんてことになったら笑えない。そんな状況になる可能性は万分の一くらいだと思うが、ハルヒを刺激するなと言われているわけだし、滅多な事はしない方が良いのだろう。
「……ポニーか」
 鏡の中に居る俺は、それはそれは見事なほどのポニーテールだった。顔立ちはともかくバランス的には大変よろしい、太鼓判を押しても良いくらいだ。一言で言おう、この顔立ちは髪を下したままの状態でもなかなか可愛らしかったが、ポニーの方が似合っている。俺主観では有るが、そう言わせてもらおう。そうは言っても所詮中身は俺に過ぎないわけで、俺自身がこういうことを考えるのもおかしいと言えばおかしいんだが。見る側ならともかく、自分にポニーが似合ったところで別に嬉しくは……無い、と思う。
「何よ、不満が有るの」
「いや、そういうわけじゃないって。ありがとな」
 自分がポニーテールというのも不思議なものだが、別に嫌というわけじゃない。背中に流しているよりは楽だ。
「……まあ、結構似合っていると思うわよ」
 こいつの美的センスは比較的まともなので、一応褒め言葉として受け取っておこう。


 それから午後の授業まではあっという間に時間が過ぎ、放課後になった。自分が女になったことに対する違和感というか、地に足が着ききらないような微妙な状態は続行中だが、歩いたり話したりするくらいなら特に問題は無い。さて、放課後ということは向かう先は部室だ。そういや朝比奈さんにはまだ会っていない。本当は昼休みの内に会いに行きたかったのだが、谷口の長話に付き合わされたので時間を食ってしまって会いに行くことが出来なかったのだ。あの馬鹿は俺が女になったと言うのに、相変わらず女の話ばかりしていた。あいつにとって俺は対象外ってことか? 谷口如きに惚れられたりしても全く嬉しくは無いが、最初から員数外というのもいかがなものか。女としての自尊心を持っているわけじゃないが、今の俺はそこそこの容姿だと思うんだが……なんて風に考えながら一人廊下を歩いていたら、部室に到着した。
「どうぞ」
 ノックをしたところ、低い声での返事が有った。ということは声の主である古泉だけか、それにプラスして長門が居るかどうかってところだな。後者の可能性の方が高い、というか、深く考えることも無く後者だと思って扉を開いたところ、部室には古泉だけが居た。
「……ようっ」
 いきなり二人きりになる可能性なんて全然考慮していなかったから、何と言うか、何と言って良いか分からなかった。
 古泉は全くもって何時ものままと言うか、取り立てて何か有るという様子じゃ無かったが、何故かその姿が俺の胸を締め付ける。昨日言われた一言のせいだろうか。自分の心の弱さを思い知ったあの瞬間を思い出す。あの時も、部室には俺と古泉しかいなかった。
 椅子に座ったままの古泉がゆっくりと視線を持ち上げる。その目が、一瞬、ほんの一瞬だけ大きく見開かれたような気がしたのは何故だろう。それとも、俺の気のせいかな。
「髪型、変えたんですね」
「あ、ああ」
 午前中にハルヒにポニーにしてもらって、ずっとそのままだ。最初は不思議な感じもした髪型だったが、時間が経つうちに慣れてきた気もする。もっと下の位置で結んだ方が楽な気もするが、解いた後に上手く結び直せるとも思えないため弄って無いのだ。……それ以上の理由なんて無いぞ。決して、決して、ポニーテールが可愛いと思ったから、というのが理由じゃないからな。
「ポニーテールですか……」
「嫌か?」
「いいえ、あなたの髪型に興味など無いですからね」
 なんでわざわざ人の傷を抉るような言い方をするのだろう。俺が勝手に傷ついているだけかもしれないが、そういう言い方は酷いんじゃないか。そりゃあ俺は元々男だし、今だって本物の女子と比べられる対象でも無いだろうが、髪型に対する感想くらい聞かせてくれたって良いじゃないか。自分から髪型がどうとか言ったくせに興味が無いなんて言うのは、卑怯じゃないか。
「どうしたんですか、そんな顔して。ああ、可愛い顔が台無しですよ」
「うるさいっ。……なんだよ、髪型には興味無いって言うくせに、この顔は可愛いって思うのかよ」
「ええ、思いますよ。元のあなたとは全然違いますしね。少なくとも、見ているだけで憎らしいと思うことはなさそうだ」
 他の連中が居ないからだろうか、古泉の台詞には容赦が無かった。見ているだけで、なんて、随分酷い言い草じゃないか。そりゃあ、嫌われているかもしれない、と思ったことははっきり大嫌いだと言われる前にも有った。本気で仲良くしたいわけじゃない、というオーラを感じ取ったことも有る。でも、顔を見ているだけで、なんて……そんな風に思われているなんて、知らなかった。
「……ポニーは、ハルヒがやってくれたんだ。髪、気になるからって言って」
「ああ、そうでしたか」
「結構似あうって言ってた……お世辞だろうけど」
「……美意識の高い彼女が、あなたを喜ばせるためだけにそのような台詞を口にするとは思えませんけどね」
 何だろう、この、乾いたやりとりは。言葉が通じてないわけじゃないのに、まるで違う国の言葉を話す二人を、三人くらいの通訳を通した上で無理矢理意思疎通させようとしているみたいだ。
「座らないんですか?」
 何時も俺が座っているその場所は、古泉の居る真正面だ。そこに腰を下ろせば古泉の方を見なきゃいけなくなる。笑ったまま言葉のナイフを振りかざすような男の顔を見なきゃならないのだ。
「どうしたんですか、何だか様子がおかしいですよ」
 笑顔を維持したままの古泉が椅子から立ちあがった。何、と思ってその顔を見上げてみても、何を考えているかさっぱり分からなかった。きゅっと心臓を掴まれたような感覚とともに、背骨を登っていったものが有る。割と久方ぶりな気もするその感覚は、本能的な恐怖に似ていた。
 古泉が、俺の方に近づいて来る。
「あ……」
「可愛いですね。……本当に、姿形だけなら、とても可愛らしいのに」
 長い指先が俺の頬に触れ、その輪郭を辿っていく。俺は抵抗することも逃げることも出来ず、その顔を眺めていることしか出来なかった。何だろう、この、立ち上るような不穏な空気は。
 肌を辿っていた指先が首筋の方へと回り、そのまま髪に触れた。きつく結われた部分を軽く撫でられたかと思ったら、その手がリボンを外し、髪止めのゴムも外してしまった。
「えっ……」
「ああ、やっぱりこっちの方が綺麗だ」
 ぞくりと、背中が震えた。綺麗、というその台詞を呟いた時の古泉の笑顔は、今まで俺が見たことも無いようなかたちだったのだ。一昨日から今日に至るまで、幾つもの知らなかった側面を見せつけられている。どれが本当の姿かなんて分からなったが、この短期間に今までの俺の中での古泉の印象は大きく変わってしまった。元々不透明だったガラスの向こう側に、今度は網戸とカーテンが張られたかのようだ。
「何、言って……」
「先程の言葉は訂正いたします。髪、下ろしたままの方が良いですよ」
 ふっと、軽やかな笑みが口元からこぼれる。何がなんだかさっぱり分からなかったが、手を取られ、その手にリボンとゴムを握らされたあたりで俺はようやく状況を理解し始めた。えっと……古泉は、この髪型の方が良い、と思うんだろうか。
「……そっか」
 じゃあ、その髪型で、とは言えなかった。
 何でだろう。別に美意識とか拘りの問題じゃない。長いままじゃ邪魔だと思ったから、なんてのが理由でも無い。ただ、素直に古泉の言葉に従うのは――抵抗が有ったのだ。
「こんにちは〜。ごめんなさい、今日はちょっと遅れちゃいましたぁ」
 ぱたりと扉が開いたのは、会話が途切れたその直後だった。俺は弾かれたように、古泉はゆっくりと、二人で同じ方向を見た。部室のエンジェル、朝比奈さんの登場だ。そう言えば、女になってから朝比奈さんに会うのはこれが始めてだ。
「あ……うわあ、キョンくん、本当に女の子になっちゃったんですねえ」
 朝比奈さんの顔に広がったのは、驚愕と好奇心とその他諸々という、プラスよりでは有るものの何とも形容しがたい感情の数々だった。気持ちは分からないでも無い。俺が逆の立場だったとしてもきっと似たような反応だったことだろう。予め事情を知らされているとはいえ、実際に見ればまた印象も違ってくる。
「……あ、はい」
「わあ、可愛いですねえ。……あ、可愛いとか言わない方が良かったですか?」
「いえ、そう言ってもらえて嬉しいですよ」
 口元を滑り落ちて言った言葉は、自分で思っていた以上に素直なものだった。古泉に同じ台詞を言われたときとは全然違う。古泉のそれが超音波レベルなら、朝比奈さんの発言はせいぜい車のクラクション程度の衝撃しかなかったのだ。このくらいなら、自分に向けられた言葉として受け止められる。
「本当に可愛いなあ。ふふ、私服を着たらもっと可愛くなっちゃいそうですね」
 朝比奈さんの発言は実に呑気なものだったが、このくらいで居てくれた方が俺も救われる。何、世界が破滅の危機に陥っているわけじゃない。これは充分な異常事態だが、俺は別に世界や神様に見放されたわけじゃないし、戻れないと決まったわけでも無いのだ。……馴染んでしまっては駄目だと思うのだが、焦る気持ちが湧いて来ないのはどうしてだろう。
「……私服、ですか」
「うん。……あ、ごめんなさい、あたし、変なこと言っちゃって」
 大丈夫ですよ。俺はそんな風に思っていませんから。女子の姿で朝比奈さんと会話するというのもおかしなものだが、男女問わず対応が大して変わらないハルヒや長門、あまりよろしくない方向に向かっている古泉と違って、朝比奈さんの態度は俺が男の時とは違うものの、優しくて心地よいものだった。
 正にこの人は部室のエンジェルだ。
「あ、わたし着替えないと、ええっと」
「……俺は向こう向いてますから」
 他にどうしろと。
 古泉を一旦追い出し、朝比奈さんに背中を向け、その衣擦れの音を悩ましく思いながらも何とか振り返らずに着替えタイムをやり過ごし、また三人の状態に戻る。何時もと違ったのはそこまでで、後は何時もと大差なかった。
 すぐにハルヒがやってきて、何故か長門が最後に来て、ハルヒの言いだしたくだらないことに巻き込まれ――それは、変わらない日常ってものに該当するんだろうか。


 変わらない、とは言ったものの、何となく微妙な空気になってしまった古泉とはそれ以上会話することも無く過ごしてしまった。ハルヒの発言に巻き込まれたせいもあって正面の位置で見つめ合う必要も無かったわけだが(ハルヒがこっちを見ろと言えばみんなそっちを見るもんだ)、明日からはどうしよう、という心配が無いわけでは無い。明日になれば元通り、なんてことは有り得ないのだ。古泉のことだから表面上取り繕ってくれるかもしれないが、俺がそれについていけるかどうか。やれやれ、俺は何時の間にこんなに弱くなってしまったんだ。相手は古泉だぞ、古泉。そりゃあ、大嫌いと言われたのはショックだったさ。でも、何時までもずるすると引き摺る必要なんかないじゃないか。
「ちょっとキョン、あんた、まだ古泉くんと喧嘩しているの?」
「な……」
 帰り道で有る坂道の途中、隣を歩いていたハルヒにいきなり肩を掴まれて、俺は言葉を失った。俺が女になったというのに、俺と古泉の不仲に対するハルヒの認識自体は殆ど変化無いのかよ。ニュートラルな状態に戻っていると思っていたわけじゃないが、こうハッキリ指摘されるとは思って無かった。
 古泉はと言えば、かなり後方で長門と共にのんびりと歩いている。距離が有るためこっちの会話が聞こえているということはないだろうが、思わずそちらを振り返りそうになってしまう。
「べ、べつに、喧嘩なんて……」
「うそ、何か微妙な感じだったじゃない」
 微妙と喧嘩の間には高くて厚い壁が有る気がするんだが、ハルヒにとってそれは透明の壁のようなものなんだろう。どんなに厚い壁が有ったって、それが透明である限り、向こうが見える限り、手が届くと思うのがハルヒの流儀だ。前向きでよろしいことだが、それを他人同士の人間関係に適用するのはいかがなものか。
「あんたねえ、団員同士仲良くしなさいよ。古泉くんの何が不満なの? 別にあんたにだけ厳しいとかいうわけでも無いじゃない。女子全員に平等な、まあ、良い人って言われちゃうタイプだとは思うけど」
 ……その発言に主旨のズレを感じるのは俺の気のせいか? というか、良い人って。一体何の話だよ。
「……別に、不満が有るわけじゃない」
 嫌われるよりは好きでいてほしいと思うが、多くを望んでいるわけじゃない。不満、というのとは違う。古泉が俺を好きか嫌いかなんて、古泉が決めることであって、俺が指図するようなことじゃないだろう。
「あんた、不満だらけに見えるわよ」
「……気のせいだ」
「気づいてないってのが重傷よねえ」
 勝手に決め付けるんじゃない。そりゃあ、状況がめまぐるしく変わったせいでどうも落ち着かない部分が有ったりはするが、自分の感覚まで見誤ったりはしないぞ。
「もう……良いわ、あたしが何とかしてあげる」
「は?」
「だから、あたしが一肌脱ぐって言ったのよ!」
 いやいやいや、それはまずいだろう。ハルヒが俺と古泉のために何かしようと思ったせいで俺は今こんな状態になっているんだぞ? これ以上事態をややこしくしてどうする。ああしかし、そんな事情をハルヒに説明出来るわけ無いんだ。そもそも、一度スイッチが入ったハルヒを止めるなんてのは至難の技だ。助け船が有る状態ならいざ知らず、俺一人じゃ相当無理がある。ええい、誰か助け――って、言えるような状態でも無いわけで。
「あたしに任せなさい! 絶対仲直りさせてあげるわ」
 キラキラした笑顔を浮かべたハルヒは、俺を途方に暮れさせるような一言を高らかに宣言したのだ。
 ……勘弁してくれよ。
 
 

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