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ドーリィガール  第三章



 送り出された、と言うからには俺は当然一人で向かったのだ。どこへ? そりゃあ古泉の待つところで間違いない。そのために服を着せられたんだ。だが、古泉が待っているその場所は……うん、まあ、待っているんだよ。それは間違いないんだ。あいつの方が遅れるってことは絶対に有り得ない。何故なら古泉はその場所に来る必要さえ無いんだ。だって今日の集合場所は古泉の自宅なのだから。
 ――冗談みたいだと思うだろう。俺だってそう思いたい。だが昨日の帰宅後、明日会う場所を決めてませんでしたねという電話がかかってきたかと思ったら、そう提案されたのだ。

「……は? 今、なんて言った?」
「ですから、僕の自宅に来ませんかと言ったんです」
「……マジか?」
 マジ、というか、これは正気を疑うレベルだ。だって自宅って、それは自分のテリトリーってことだろう。そんな場所に俺を入れるのかよ。まさか罠じゃないだろうな。
「ええ、本気ですよ。二日続けて外出というのも疲れますし、僕の家でと思ったんです」
「それは……」
「それとも、あなたの家の方が都合が良かったですか?」
「あ……いや、そうじゃない」
 明日は確か妹が友人達を呼ぶってことになっていたはずだ。その状況で古泉を家に入れるのは少々躊躇われる。妹だけならまだしも、妹の友人達に誤解されるようなことになると面倒だし、人が多いと気が散るだろう。
「では、僕の家でということで良いですか? 他に何かご希望が有るようでしたらそれに合わせても構いませんが」
「……いや、お前の家で良い」
 そこで咄嗟に他の場所が思いつくほど俺は利口じゃ無かった。お金がかからず、近場で都合が良いところって考えると余り心当たりが無い。学校でも良いんだろうが、休日に制服に着替えたりあの坂を登ったりするのは面倒だ。古泉の家がどこに有るか知らないが、毎日一緒に坂を下っている以上坂を登る必要性の無い場所に有るんだろう。
「では、僕の家でということでお願いします」
 古泉は住所を告げると、おやすみの挨拶を残して電話を切った。

 ――以上が、昨晩の出来事である。その辺の顛末を伝えた時のハルヒの反応についても語るべきなのかも知れないが、話すだけで俺の体力が減退しそうなので控えさせていただこう。昨日の夕方よりうるさかったと言えば何となく察していただけるんじゃないだろうか。
 さて、そんなわけで俺は現在古泉が住むマンションの前に来ている。
 長門の家ほどじゃないが、なかなか立派で新しそうなマンションだ。古泉の住所はここの三階の三百二号室とのことだった。ご近所というほどでも無いが、そう遠くも無い。このマンションの目の前まで来たことは無いが、近くを位置を通りがかったことなら有る。そんな位置だ。
そうか、古泉はこんなところに住んでいたのか。一年以上SOS団の団員同士として交流が有ったのに、近くに住んでいることは分かっていたのに、今まで住所も知らず、行こうと思ったことも無く……考えてみると、結構変な関係だよな。知ろうと思えば知ること自体は難しくなかったんだろうが、今まで来ようという発想自体が無かったし、来る必要性に駆られるとも思って無かった。俺は今、何でここに立っているのか……複雑なんだか単純なんだか分からない経緯を思い出して頭を抱えそうになったが、不審な女子高校生の姿をマンションの住人の皆さんに晒すわけには行かない。俺は悩むのをやめ、マンションの中に入った。
 入口のインターフォンを押して反応を待つ。形状は多少違うが仕組みは長門が住んでいるマンションと同じだ。俺がマンションの玄関ホールの形状を確認し終わるよりも先に、プツッというような妙に軽い響きの音が鳴った。
「あー、俺だ」
『どうぞ』
 ドアを開けてもらうために言う言葉に迷う時間さえ無かった。名乗りもしないでそれでおしまい。楽で良いが何だか拍子抜けだ。
 エレベーターに乗り三階まで行き、部屋の前に立ってインターフォンを押す。初めて来た場所だったが、あまり部屋数の多いマンションでは無かったし、変則的な部屋番号を振っているというわけでも無かったので、特に迷うことも無かった。
「ああ、いらっしゃい」
 昨日よりは幾分抑え目では有るものの、休日に家で過ごすにしては少々浮いているようにも見える格好の古泉が俺を出迎えてくれた。こっちはこっちで無駄に気合が入った恰好なわけで、思わず、といった様子で古泉が溜め息を吐いた。
「何だか随分と可愛らしい格好をされていますね」
「……なんか、家に有ったんだよ」
「そうですか。……涼宮さんが気を利かせてくださったのかも知れませんね」
 ハルヒの仕業と思うのは別にかまわないが、それを『気が利く』と判断するのは何か間違っている気がするんだが。気を利かせるならもっと別方面に、と言いたい気もするが、ハルヒが親切心を発揮してまともな結果に落ち着いたことなんて一度も無いんだよな。大事になってないだけ良しとするしか無いのだろう。
「上がってください、ここで立ち話をする理由も有りませんし」
「ああ」
 靴を脱ぎ、よく整理された玄関を抜けて廊下を通り、部屋の中へ。短い廊下の先には割と広い部屋が有った。その横に扉が有るから、どうもワンルームというわけでは無さそうだ。一人暮らしにしては結構贅沢な大きさだと思うが、長門の家のように不自然さ全開というわけでもない。
「離れて暮らす息子のことを心配した両親が少し良い部屋を用意した、というのがこの部屋の設定なんですよ」
 なるほどね。芝居がかった言い方は多少気に障ったが、確かにそれらしく見える部屋だ。若干家具が少なめにも見えるが、一人暮らしならこんなものだろう。
 古泉は俺を低いテーブルの前に座らせると、一旦キッチンの方へと向かい、ジュースの入ったグラスを持って戻ってきた。
「どうぞ」
「あ、ああ」
 グラスを手に取って喉に流し込んでみたジュースは、ごく普通のジュースだった。ごく有り触れた果物の味がしたし、妙な薬が入っているというわけでも無さそうだ。
「ようやく二人きりになれましたね」
 斜め前に腰を下ろした古泉が、ふっと柔らかな微笑を浮かべた。
「……は?」
 その台詞の意図が読めなくて、俺は大きな瞬きをしてしまった。二人きり、二人きりって。なんだその、妙に思わせぶりな言い方は……それに、昨日だって二人きりだったじゃないか。
「昨日は他人の目が有る場所でしたからね。それに、涼宮さん達も後を着けていたようですし」
 なんだ、気付いていたのか。ま、気付いてもおかしくないよな。ハルヒが二人で行って来いなどと言い出した時点で怪しすぎたのだ。俺と何か有ったのかと言われたその週末に俺と二人になるよう仕向けられたんだぜ、これで何も無いと思う方がおかしいだろう。
「彼女が何故このようなことをしたのかという疑問も有りましたが、そのあたりの事情も昨日のあなたの様子を見て大体飲み込めましたよ」
「事情って……」
「僕とあなたの仲を心配した彼女が手を回したのでしょう?」
「……ああ」
 その通りだよ。誤魔化すことなんて出来ないし、誤魔化す必要も無い。きゅっと心臓が痛むような感触は有ったが、正直に認めないと。
「涼宮さんらしいですね」
 ハルヒの名前を口にする古泉は、どこか遠い目をしていた。なんだよ、ハルヒの仕向けたことに文句が有るのかよ。それとも、ただ従っているだけの俺の方に言いたいことが有るのか。そうだとしても、俺にはどうしようもないじゃないか。意地を張って否定して、それでハルヒが余計なことを考え出したりしたらどうするんだよ。……喉元まで出かかった数々の文句をぐっと飲み込んだのは、それら全てが言い訳だと気づいていたからだ。
 言いだしたのはハルヒでも、ここに来たのは俺の意思で、俺は俺で、この状況をどうにかしたいと思っている。こんな微妙な距離のままじゃ嫌なんだ。そりゃ、元々仲が良かったとは言い難いかも知れないけどさ。それでも、やっぱり……ギスギスした空気をぶつけ合っているより、一緒に笑える方が良いじゃないか。
「どうしたんですか、そんな難しい顔をして。可愛らしい顔が台無しですよ」
 古泉がすっと手を伸ばし、長い指先で俺の輪郭を軽く撫でた。そのまま、顔が近付いて来る。
「なっ……あ、あんまり近寄んな」
「おや、僕と仲直りしたかったんじゃないですか?」
「だ、だからって……」
 仲直り、という単純な言葉で片付けられるようなものなんだろうか。不可解な状況に更なる混乱を生みだすような現象が追加されたってのは、何も当事者である俺だけの問題じゃない。古泉の目には、一体どんな風に見えているのだろう。
 可愛い女の子? 同情すべき存在? それとも、やっぱり嫌いなままの相手? 幾つかの想像は思い浮かんでいるしその根拠も無いわけでは無いが、確証に至るほどの物は無かった。冷たく響いた言葉の余韻が、ささやかな俺の想像を押し潰す。
「……今のあなたのことは、そんなに嫌いじゃありませんよ」
「ほ、本当か?」
「ですが、元のあなたは大嫌いです」
「あっ……」
 その言い方は、ずるい。
 嫌われたくはない、出来るなら好きでいて欲しい。何気ない会話をして、くだらないやりとりをして、一緒に先のことを心配して、溜め息を吐きあって……だけど、今の俺は本当の『俺』じゃないんだ。こんな偽りの姿で、嫌いじゃないとか可愛いとか言われたって、どうしようもないじゃないか。言われるのが嫌なわけじゃない。中身が男なのに『可愛い』と言われることについてあれこれ考えたりもするが、見た目のことを褒められれば、人間、それなりに嬉しいと思うもんだ。だけど、その台詞が、その感情が、本来の俺に還元されることは無いんだ。古泉は、以前の俺を認めてくれない。
「……何で、お前は俺のことが嫌いなんだよ」
「まだ分からないんですか? ……ああ、分かるはずも有りませんね。あなたはそういう人だ」
「なっ……そんな……」
「良いじゃないですか、今のあなたのことは結構気にいっているんですから。……そうですね、とても可愛らしい人だと思っていますよ。今のあなたは、違う状況で出会えば恋に落ちていたかも知れないと思うくらいに魅力的だ」
 そんなこと言われたって、俺にはどうしようもないじゃないか。
 だって俺は元々男で、いわくつきの出会い方で、お互い心が許せるような状況じゃなくて、でも、それでも、もしかしたら、友人になることが出来るかも……なんて思っていたのは、俺の方だけなのかよ。
「帰るっ!」
 頭の中でぐるぐると言葉が回っている。この姿に向けられた優しさと、男である俺に向けられた厳しい現実。古泉は俺にこのままで居て欲しいんだろうか。あるいは、そんなの無理だと分かっているからこそこんな言葉を並べているんだろか。幾つかの想像が脳裏に閃いては消えていく。元々嫌われてしまった原因さえ分からないから、正しいものなんて掴めなかった。不可解な理由で嫌われて、偽りの姿に笑顔を向けられて。
 もう、その顔を見ていることなんて出来なかった。
 ここで帰ったらハルヒに何か言われるかも、なんて考える余裕もなくなった俺は、古泉の手を振り払って立ちあがり、駆け出そうと、
「待ってください」
 最初の一歩を踏み出したところで、後ろから抱きとめられた。
「は、離せよっ」
 振り払おうとしたが、がっちりと掴まれていたので上手くいかなかった。男と女じゃ腕力や体力に差が有りすぎる。
「離しませんよ。離したら、あなた帰っちゃうじゃないですか」
「……あ、当たり前だっ」
 古泉の顔を見ていたくない、古泉と同じ部屋になんて居たくない。さっさと家に帰って布団でも被って寝てしまいたい。休んだところで何も回復しないかもしれないけれど、少なくともずっと一緒に居るよりはマシに決まっている。
 こんな、こんな奴と……でも、それでも、俺は古泉が嫌いだと言えないんだ。嫌いな相手とのことだったら、悩んだり傷ついたりしない。嫌いじゃないから、どちらかと言えば好きな相手だから……好きだからこそ、どうしようもない。
 本当、何でこんな状態になってしまったんだろう。嫌いだと突き放されて、俺も嫌いだと言い返せるくらいだったら良かったのに。そうしたら、こんな姿になることも無かったのに。
「落ち着いてください。……あなたがそこまで気にしているとは思って無かったんですよ」
「気にして……って、どうせそんなこと言ったって、お前が俺を嫌いなのは変わらないんだろうっ」
「……とにかく、落ち着いてください」
 古泉は短く溜め息を吐くと、そのまま俺を強引に座らせた。胡坐をかく上に俺の身体がちょこんと乗る形になる。体格差が有るので、手の中にすっぽりおさまっているようなもんだ。
「顔を見るのが嫌なようですから、このままで居ますよ」
 だからって人を膝の上に載せんな。くそ、何でこんな体勢になっているんだよ。
 古泉はそれから暫く俺のことを背中から抱き締めていたが、何も言ってくることは無かった。なんだよ、なんでだよ。何か言えばいいじゃないか。俺を傷つけるための言葉でも、糠喜びさせるための言葉でも。何か言って、かき乱して、ぐちゃぐちゃにして――そんな風にされたら、こいつに嫌われても良いって思えるようになるかも知れないのに。
「不思議ですねえ」
「……何がだよ」
「中身があなたでも、身体はちゃんと女性のものなんですね」
「はあ?」
「いえ、抱き心地が良かったもので」
 抱き心地って……。まあ、確かに今の俺は女だ。だけど、その言い方ってどうなんだ。なんか、どんどん元の自分を否定されている気がするぞ。古泉にそのつもりは無いのかも知れないが、元の俺に気を使って無いってことだけは確かだ。別に、そうして欲しいわけじゃないけどさ。そう、気を使ってほしいわけじゃないんだ。触れないでいてくれれば、それで良いんだ。
「……お前は、俺がこのままで居た方が良いのか」
「さあ、どうでしょうね。今のあなたの方が可愛らしいとは思いますが、このままで居た場合に問題が発生する可能性も有りますし」
「そんなの、俺が元に戻ったって一緒だろ」
 主犯がハルヒな時点で、前提条件が一つか二つ変わった程度で大した差が発生するとは思えない。要するに、俺が元に戻ろうが今の状態が続こうが、面倒なことは面倒なこととして降ってくるのだ。
「……ああ、あなたはそう思うんですね」
「お前は違うって言うのかよ」
「概ね同意見では有りますが、ひとつだけ決定的に違うところが有ります」
「一体なんだよ」
「涼宮さんにとって、あなたが女性で居るのは不都合なことなんですよ」
 なんでそうなるんだ? 俺を女にしたのはハルヒなのに。
「短期的な願望と長期的な展望は別の物です。矛盾する二つの要素があったとき、一時的に前者が上回ることは珍しいことでは有りません。目的が有るからお金を節約したいけれど、目の前に有る物が欲しい、というのと似たようなものですよ。どちらが優先されるかは時と場合によりますけど、今の彼女はたまたま前者を優先した。そういうことなんです」
 言いたいことは何となく分かる。だが、長期的な展望ってなんだ? 俺が男で居ないと困ること……さっぱり思い当たらないな。こう言っちゃなんだが、ハルヒが他人の性差について真剣に悩んだりするところなんて想像も出来ない。全く意識してないってことは無いだろうが、世の平均を大幅に下回っている気がするんだが。
「……あなたには分からないでしょうね」
 古泉はどこか沈んだ声でそう付け加えると、俺の身体をぎゅっと少し強く抱きしめた。
 ……なんか、変な感じだよな。相変わらず古泉の言っていることはわけが分からないのに、こういう風にされていると妙に落ち着くと言うか、落ち着かないというか。うん、自分でも何を言っているんだって思うんだが、どっちとも言い難い状況なのだ。こんな風に誰かに抱きしめられたのなんて、子供の頃に両親の膝に乗って以来かも知れない。
「あなただって戻りたいんでしょう?」
「……分からん」
 俺はほんの一瞬だけ躊躇ったが、何故かその次の瞬間にはそんなことを口にしていた。分からんって。ここは頷くところだろう。だって俺は元々男なんだ、男に戻るのが当たり前なんだ。今の状態は異常事態で、何時か戻るべきもので――そう、戻るのが当たり前なんだ。古泉が優しくしてくれない、突き放されるだけの日々に……戻る、ことが。
「おや……」
「俺自身、良く分かってないんだよ。そりゃな、最初は驚いたし、戸惑ったりもした。今だって完全に馴染んでるわけじゃないし、馴染んじゃまずいんだって思ったりもする。でも……絶対に戻らなきゃいけないって思っているわけでも、無い」
 頭の中はまとまってないはずなのに、言葉はいとも簡単にするすると紡がれていった。思考が言葉についていってないような気もするが、嘘は吐いてない。実のところ俺は、絶対に戻らなきゃ、なんて思ってなどいないのだ。色々と困った事態になってはいるが、女になったから恒久的に困りっぱなしというわけでも無いだろう。戸惑うときは有るが、逆に言ってしまえば戸惑うだけなのだ。致命的な事態が発生したわけでも無いし、この先発生することも無いだろう。なんでこんな風に考えているんだ? と思うときも有るが、それこそ長門が俺の精神状態の平静のために手を加えてくれたか、ハルヒの使った能力の影響なんじゃないか。そりゃあ、男である方が当たり前、そっちの方が本来の姿だって事実を否定するわけじゃないんだが。
「へえ……つまり、あなた自身はこのままでも良い、ということなんですね」
「……かもな」
 はっきりそうだとは言えないが、もし、二度と戻れない、なんてことになったとしても、俺はきっとこの状況を受け入れてしまうのだろう。泣いたり叫んだりすることさえ無さそうだ。
「そうですか……」
「なんだよ。気持ち悪いとか思っているのか?」
「いいえ、そういうわけでは有りませんよ」
 古泉は背後でくすりと笑うと、腕の力を少しだけ緩めた。……どうして、俺はそのことを寂しく思うんだろう。
「そりゃあ……もしかしたら、俺の意思とは無関係に戻ることになるのかも知れない。でも、別に俺は積極的に戻りたいって思っているわけじゃない。だから、その、この姿で居るうちは……」
 なあ、俺は何を言おうとしているんだ。腕の中で向きを変えて、だけど逃げないで、その懐から薄茶色の瞳を見つめている。古泉の笑みに僅かばかりの優しさを見出したのはきっと俺の目の錯覚では無いだろう。でもこの優しさは、今の俺だけに向けられたものだ。

「この、姿で……この姿で居る間に、お前好みの女になってやる!」

 ――その時の俺は、相当ギリギリだったんだろう。そうでなきゃ、こんな台詞を口にするわけがない。
 暫くの間古泉は、ぽかんと俺の顔を見下ろしていた。
 うん、まあ、そうだよな。古泉の顔を見ているうちに言った俺も少しずつ冷静になってきた。何言ってんだ俺。お前好みの女に、なんて、意味不明過ぎるだろ。俺が逆の立場だったとしても、もとい、他の誰かに同じような台詞を言われたとしても呆気に取られた顔になっているだろうな。俺が言われる側になるようなことは有り得ないと思うんだが。俺はどこの勘違い女だ。こういう台詞は各種前提条件が揃ってから言うものであって、前提条件を作るために用いるような物じゃないだろう。
「……面白いことをおっしゃいますね」
 面白いとか言うな。
 くそ、これでも俺は、俺は……一応、マジなんだぜ。うん、マジだマジ。嘘じゃない。頭の片隅でぐるぐると渦巻く物は有るが、少なくとも嘘を吐いたつもりは無い。嘘から出たまことってわけじゃないが、自分の言った言葉に対する責任くらい取るつもりだ。そりゃあ、古泉が真っ向から否定してかかるっていうのなら、話は別だけどさ。
「相手好み、と言っても幾つかパターンが有りますよね」
 古泉は腕の中にいる俺を軽く抱きしめると、半ば強引に俺の身体の向きを変えた。背中からの方が良いんだろうか。それとも、表情を見られたくないような……そんな理由が有るとも思えないんだが。
「へ?」
「大きく分けて、相手に尽くす意味での発言と、好みの異性になって振り返らせてやるという決意。この二つは似ているようで全く別の物です。……あなたの発言は、一体どちらの意味なんでしょうね」
「……そ、そんなの、言わなくたって分かるだろ!」
「おや、随分と威勢が良いですね。……ま、僕としてはどちらでも良いんですが、せめて髪型くらいは僕好みにしていただけませんか」
 古泉の指が俺の頭の後ろに回り、リボンとゴムを外していく。長い黒髪がするりと肩に落ちたかと思ったら、古泉はその一房を持ち上げ、そこに口付けを落とした。
「あ……」
「……そろそろレポートの作成を始めましょうか。真面目に作らないと涼宮さんに怒られてしまいそうですし」
 言葉を無くす俺の後ろから、古泉が遠のいていく。
「あ、ああ」
 古泉が離れて行ってしまったことを寂しく思いながらも、俺も座ったままテーブルの方へと身体の向きを変えた。



 レポートの作成中特にハプニングが起きるようなことも無く、俺達は割と真面目に取り組んでいた。真面目に、と言っても、記憶を頼りにそれらしい言葉を並べただけなんだが。昨日起こったことの詳細とそれに対する感想と見解。店の紹介記事というより日記を書いている気分になったのは俺の方だけじゃあるまい。出来あがった物に目を通した古泉が「これじゃまるでデートの記録ですね」と言ったことに対して、俺は何も言い返せなかった。だって、俺はこんな時に言うべき言葉を知らない。
「……で、どうだったのよ」
 ――レポートにざっと目を通したハルヒは、半笑い状態のまま俺の方を見つめてきた。なんでそんな表情になっているか知らないが、その顔はちょっと気味が悪い。部室の中ならいざ知らず、ホームルーム前の教室でこんな表情をまき散らすのはどうかと思う。ハルヒの方から話しかけるクラスメイトなんて俺を含めてもごく少数だが、こいつの表情や雰囲気はクラス全体に影響を与えるのだ。カリスマ性、とはちょっと違うか、そういう空気の持ち主ってことなんだろう。
「どうって……」
「昨日のことよ。ちょっとは進展したの?」
 進展、って単語は何か間違っていると思うのは俺の気のせいか。それじゃまるで、まるで……いや、妄想じみた想像はとりあえず置いておこう。ハルヒと一対一で話している時に気を抜きすぎると、何が飛んでくるか分かった物じゃない。真面目に話しているつもりなのに脱線させられた回数も数知れないが。
「……一応、収穫は有ったと思う」
「へえ、良かったじゃない。ま、部屋まで呼んでもらったんだもの、進展有って当然よね。で、具体的にはどうだったの?」
「具体的にって……」
「あら、何か有ったからこその進展でしょ? 何も無いまま通じ合うってレベルだったら、そもそもあんな風にはならないもの」
 言っていることは間違って無いと思うが、他人同士の人間関係について勝手な推測を押し付けないで欲しいんだが。俺と古泉の間には、ハルヒが知らない事情がたくさん有るんだ。あいつの特殊な背景も、俺の立ち位置も、俺が女になってしまったことも。……それら全ての原因はハルヒなんだけどさ。
「別に、ただ一緒にレポートを作っただけだ。まあ……以前ほど嫌われていない、と思う」
「ふうん……何かはっきりしないわね。まあいいわ。あんた達が仲良くなってくれればそれで良いし」
「そっか」
「ところであんた、何で髪型変えたの?」
「……古泉が、こっちの方が似合うって言ったから」
「へえ」
 その笑い方はやめろ。
「何だよ……」
「べっつにー、まあ、あたしはポニーの方が似合うと思うけど。そうね、古泉くんがそっちの方が良いって言うなら、それでも良いんじゃない」
 にやにや笑顔を浮かべたままのハルヒは、そう言って俺の肩をぽんと叩いた。
 
 

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