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ドーリィガール  第五章



 ――ハルヒがいきなり言葉を失ったところなんて、随分久しぶりに見た気がした。過去にも見たことが有るような気はするが、どんな時だっけ。全く見たことが無いってことは無いと思うんだが。ハルヒにだって驚くことくらい有るだろう。だけど、こんな驚き方をしたハルヒを見たのは、きっとこれが始めてだ。
「あ……」
「キョン……あんた、一体どうしたの?」
 恐る恐ると言った様子で、ハルヒが俺の方に近づいて来る。心配、しているのかな。まだ少し曇りがちの視界の向こう側じゃ、その表情も良く分からない。心に黒い物が滲んでいるせいかも知れない。身近に有るもの全てをシャットアウトしたいわけじゃないが、出来るなら触れないで居てほしい。肩を触られて勝手に身体が震えた。
「……キョン、古泉くんと何か有ったの? 古泉くんはどうしたの?」
「……っ」
「キョンってば……」
「……こ、古泉は、帰ったよ」
「そう……」
 一応納得してくれたんだろうか。ハルヒがそっと俺から離れていった。ゆっくりとした足取りで『団長』の三角錐が置かれた机のところへと向かうハルヒは、何だか何時もとは少し様子が違った。その背中から、何時ものようなパワフルさを感じない。
「あのね……あたし、みくるちゃんや有希と一緒に、ちょっと買い物に行ってたのよ」
 背中を向けたまま、ハルヒが語り出した。そうか、そういう事情で居なかったのか。古泉は何も言って無かったが、ハルヒが居なかった理由が理解出来た。とはいえ、分かったところで何かの収穫になるというわけでも無いし、時間が巻き戻せるというわけでも無いのだが。ハルヒが外出して無ければ、あんなことにはならなかった……なんて思うほど馬鹿じゃないが、ハルヒの方がそう思ったとしても不思議では無い。
「あんたの服を探しに行ったのよ、あと、あんた用のコスプレ衣装ね。……でも、サイズが分からないと買えないし、好みとかも有るじゃない。だから今日は下見だけ。後日あんたを連れて行って改めて選ぼうと思ったの。ああ、時間が時間だし、有希とみくるちゃんはもう帰したわ」
 俺の様子にも構わず、ハルヒが説明を続けた。言っていることは理解出来るのだが、言葉は俺の耳から通り過ぎていくだけだった。服? コスプレ衣装? そんなものに何の意味が有るかなんて、今の俺に分かるわけが無い。
「……あんた、これからどうするつもり」
 不意に、ハルヒの声音が変わった。
「え?」
「そんな状態で家に帰ったら、何言われるか分かんないわよ」
「……」
「……あんたの家なら、連絡さえ入れれば一晩くらい外泊しても大丈夫よね? 連絡しておくから、一緒に有希の家に行きましょ」
 ハルヒは有無を言わさずそう言い切ると、俺のところへと近づいて来て、ぐいっと手を引っ張った。まだ身体に力は戻って無かったが、支えが有れば立つことは出来る。
「やっ、やめろよ」
「立たなきゃどこにも行けないでしょ。タクシー呼んであげるから、とりあえず校門までは歩きなさい」
「……」
「ほら、早く行きましょう。ここより有希の家の方が暖かいわ」
 強引に手をひかれて、歩きだす。身体の彼方此方が痛むけれども、俺はその痛みが何に由来するかということを必死で頭の中から追い出し続けていた。


 学校帰りの坂道は歩けば随分時間がかかるが、タクシーに乗ってしまえばすぐだった。坂を下りてから長門の家までの距離だって高が知れている。学校を出て二十分も経たないうちに、俺とハルヒは長門の住むマンションの前に到着していた。
「……」
 タクシーの中でハルヒが携帯で呼び出したため、長門がマンションの前に立っていた。相変わらずの無口無表情。何時も通りに見えるその姿に少し安堵を覚える。ハルヒの様子が普段と違うからだろうか。
「有希、キョンを部屋に連れて行ってあげて。あたしは夕飯の買い出しと下着の替えを買ってくるわ」
 ハルヒは俺を長門に押し付けると、さっさと背を向けてどこかへ行ってしまった。近くのスーパーかコンビニにでも行くのだろう。
「来て」
 長門がそっと俺の手を引く、俺はその手に逆らわず、長門について行った。
 何日かぶりに来た長門のマンションは、前に来た時と同じ、殺風景というにしては少々物が増え過ぎた気がする部屋だった。増えてしまった各種アイテムが全くもって生活に関連しなさそうなものばかりというのもアレだが。
「……」
 長門は相変わらず無言を守っている。長門のことだ、きっと、何が有ったかなんて全部お見通しなんだろう。分かっていて何も言わないという選択肢を選ぶ。長門は、何時だってそういう奴だ。俺のことを思ってなのか、それとも単に言葉が見つからないからなのかは分からないが、そんな長門を見ていると、今傍に居るのが長門だけでよかったと思う。下手に、心配してます! という態度全開で振舞われると、俺の方もどうしていいか分からなくなってしまう。
「……ハルヒ、どこに行ったんだろうな」
「恐らく、近所のスーパーマーケットまで向かったと思われる。……下着を買う、と言っていたから、すぐに戻ってくるものと推測される」
 そんなハッキリ言わないでも……まあ、良い。そういう予測は立つ状況だよな。自分に関すること、考えたくないことのはずなのに、その時の俺は妙に冷静だった。人間、客観的な視点に立つとこんなものなのかも知れない。時間がたったせいなのか、身体の痛みも多少落ち着いて来ている。
「長門、シャワー借りて良いか」
「涼宮ハルヒから連絡がきた時点で風呂を沸かし始めた。もうすぐ入れるようになる」
 ……至れり尽くせりってのは、こういう状況のために有る言葉かも知れない。
「ハルヒがしろって言ったのか」
「わたしの判断」
 それはちょっと驚きだ。色素の薄い瞳がじっと俺の顔を捉えている。何の感情も浮かんで無いわけじゃないが、俺はあえてそこにある感情を読み取る努力を放棄させてもらった。今は長門の感情を読む方に神経を割いている余裕が無い、なんてのはただの言い訳で、そこに浮かんでいるものと向かい合いたくなかったからだ。
「……入る?」
「ああ、入らせてもらうよ」
 お湯に浸かったところで、身体にこびり付いたものはともかく、心に染み込んだものが流れ落ちるわけじゃない。……だけど、今は一人でゆっくり体を温めたかった。
 脱衣所でくしゃくしゃになった制服を脱ぎ、風呂場へと入る。この家の風呂に入るのはこれが初めてじゃないが、この身体で浸かったのは初めてだった。男だったとき、SOS団全員で長門の家に泊って一人ずつこの風呂に入ったことは有る。女子が先、男子が後と言われて、俺が最後だったんだっけ。古泉が思った以上に長風呂で、思わず呆れてしまって――それが、何だか遠い昔のことのような気がする。あれからまだ数ヶ月しか経って無いのに。
「んっ……」
 身体を洗っていると、何もしていないのに、股の間から透明な液体が零れていった。それが何であるかに気づいて思わず身体が震えてしまったが、そこで思考の全てが振り切れるようなことは無かった。ぎゅっと身体を握りしめて、悪寒が通り過ぎていくのをやり過ごす。大丈夫、大丈夫……何がどう大丈夫なのか分からないが、嵐のような時間は既に過ぎ去った後なのだ。無理矢理犯されたその直後から何時間も経ったわけじゃないが、少なくともあれは『過去』で有って『今』じゃない。そう、あれは終わったことだ。終わったからと言って許して良いわけじゃないし忘れられるようなことでも無いが、俺が何時までも捉われている必要はないだろう。
 ……身体の反応に逆らうようにして思い込むのは結構きつい物が有ったが、多少は落ち着いてきた。中に出された物を洗い流す時に何を感じたかなんて考えたくもないが、大体流せたと思う。
 一応綺麗になった身体で湯船に浸かった。考えるべきことは幾つかあるんだ。
「なんで……」
 なんで、あんなことになったんだろう。欲求不満? いや違う。古泉はそんな理由で俺のことを押し倒したりするような下衆な男じゃない。レイプは犯罪だし許せることじゃないのは確かだが、そこには何かしらの理由が有ったはずだ。普段は言葉で他人を翻弄してばかりの男が、実力行使に出る理由……それは、一体なんだ。
 暖かなお湯に浸かっていると頭がぼうっとして来る。正直なところ、考えたから答えが見つかるようなものでも無いのだ。直前に同学年の女子達に呼び出されたことと何らかの関係が有るのは確かだろう。呼び出される原因に俺自身が関係していることも確かだ。そういやあいつら、ハルヒがどうとか言っていたか……ハルヒに聞けば分かるんだろうか。この状況でハルヒに質問をするってのも躊躇われるんだが、やっぱり、聞いてみるべきなのかな。古泉に直接訊けるようなことでも無いし、そんな勇気も無い。
「キョン、ここに下着置いておくわよ」
 何時の間に帰って来たんだろうか、扉の向こうからハルヒの声がした。声だけでは有ったが、さっきよりかは何時もの様子に近い気がする。ハルヒが落ち込んでいる理由……ハルヒは、この状況が意味することに気づいているんだろうか。それとも、詳細が分からないまま慌てているだけなのか。ダメだ、考えても分かるわけが無い。これはやっぱり、本人に聞かないとダメか。


 脱衣所にはハルヒの用意してくれた下着と、何時の間にか長門が用意してくれたらしいパジャマが有った。まだパジャマを着るには少々早い時間だと思うんだが、これしかないなら仕方ないか。それに、部屋から出ないなら何を着ていても同じだろう。
 脱衣所で服を身につけてからリビングの方へ戻ろうとすると、その途中のキッチンにハルヒが立っていた。
「あら、あがったのね」
「ああ……ありがとな」
「別に、お礼なんて良いわよ」
 ううむ、あまりにもハルヒらしく無い反応だ。普段のハルヒだったら、当然でしょ、と言って胸を張るところだよな。ま、ハルヒに礼を言ったこと自体あんまり無いんだが。ぷいっと横を向いたハルヒは黙々と料理を続けている。話したいことはいっぱい有ったが、それは今するべきことじゃないなと思い、俺はキッチンを後にした。
 リビングに向かったら当然長門が居たわけだが、長門は炬燵机に入ったまま本を読んでいるような状態だった。俺が戻って来たのを見てちらりと俺の方を見上げてきたが、それだけだ。やれやれ、言いたいことが山と有るのに何と言えば良いのか分かりません、という風に見えるのは俺だけだろうか。こっちも似たようなもんだけどさ。
「……いきなり押しかけて悪かったな」
 長門の向かい側の位置につき、長門に話しかけてみる。反応が貰えるとは限らないが、先ずは口を開かないと何も始まらない。
「気にしていない」
 予想通りの反応ありがとう。
「こうなるって分かっていたからか?」
「……」
 少し意地悪かも知れないその質問に対して、長門は見事なまでの無反応を貫いた。応える意思はない、ということだろうか。
「なあ、長門……」
「わたしは何も知らない。わたしに出来るのは周囲の情報を元にした推測だけ」
「長門……」
「あなたの身体の状態は把握している。また、その原因となった対象も特定出来ている。……けれど、わたしにはその経緯やそこに付随する感情を知る術はない」
 ……うん、まあ、そうだよな。長門なら、そうなるよな。
 長門は俺が知る誰よりも万能で有能だけれども、何でも知っているわけじゃないし、何でも出来るわけじゃない。特に『感情』なんて、長門の苦手分野じゃないか。
「悪い……何か、俺、変なこと訊いたな」
「良い、わたしは気にしていない。ただ、わたしに回答する術が無いだけ」
 長門のその答えが真実なのか、それとも嘘を覆い隠した上での物なのかは分からなかったが、俺はこれ以上この件で長門に質問をしないことにした。長門にだって、答えられないことや答えたくないことくらい有るだろう。
 それから暫くして、ハルヒが夕食の完成を俺達に伝え、三人での夕食となった。何だか変な感じがするが、ハルヒの代りに朝倉が居た時に比べれば数段マシな気がする。少なくとも俺の脳は味覚を吹き飛ばすほどイカレてるわけでも追い詰められている無かった。ハルヒが作った飯は美味かった。
 ハルヒの手料理を味わい、ハルヒと長門も交代で風呂に入ってしまえば、もうすることは無い。本当は宿題が有ったような気もしたが、ハルヒが忘れているなら俺から言いだす必要もないだろう。長門の家に来てまで宿題なんぞやりたくない。明日ハルヒに文句を言われることになるかも知れないが、それはそれだ。
 蒲団を敷くその段階になって、俺とハルヒは同じ部屋で寝ることになった。長門は別の部屋だ。特に深い意味は無いのだろうが、誰もその部屋分けに異を唱えることは無かった。息が詰まるというわけではないが、この、察しています、でも言葉にする物じゃないでしょう、という空気は何とも言い難い物が有る。秘密を抱えることには慣れているつもりだったが、それとはまた違った微妙さだ。
「ねえ、キョン……」
 後は寝るだけ、と思ったが、そうは問屋が卸さないと思っていたのは俺だけでは無かったらしい。俺がハルヒに聞きたいと思っていることが有るように、ハルヒの方にも俺に聞きたいことが色々有るのだろう。
「何だよ」
「あんた……」
「何が有ったか知りたいのか?」
「違うわ」
 即答かよ。まあ、俺の方にだって答える気なんぞ無い。何が何だか分からない状況下で有った出来事は、下手すりゃトラウマ物、というかトラウマになっておかしくないような次元の出来事だったんだ。あれは過去だ、過ぎたことだと思って割り切ろうと思い込んでみても、黒くなった部分が消せるわけじゃない。
「あたしね、あんたが古泉くんのことを好きなんだって思ってた」
 ……は?
 唐突なその発言に対して、俺は目を丸くするしかなかった。俺が? 古泉を? ……どうしてそうなるんだ。そりゃあ、古泉は人間的な意味では結構良い奴と言うか、悪い奴じゃないと思う。性格悪いなと思うことは有っても、基本的には正義感の強い善人だろうし。……古泉は俺のことを大嫌いって言ってきたような奴だが、俺はあいつのことを嫌えなかった。そうだな、人間的な、それこそ物とか家族とかに対するのと同等の『好き』って感情は有ったんだ。でも、ハルヒが言いたいのはそういうことじゃないだろう。そんな人類愛みたいな感情は、いちいち確認するようなものじゃない。団長様としては、団員同士である以上それが当然だって思っているはずさ。
「俺が、古泉を?」
「そうよ」
「まさか、俺が」
「とりあえず、今はあたしの話を聞きなさい」
「……分かったよ」
「そうね……古泉くんと居る時のあんたは凄く楽しそうだし、嬉しそうだったわ。あたし達と居る時よりも女の子っぽく見えたしね。……あんた自身はその自覚が全く無さそうだったけど。変な話よね、あたしを含めたあんた以外の人間はみんな気づいていたのに」
「……」
「好きだってことにすれば良いって言った時は、こんな風になるなんて思った無かったけど……でも、その時から、あんたは古泉くんに気が有るんじゃないかって思っていたのよ。それで、あんたも段々本気になっていったんじゃないかって」
 ハルヒの理屈に文句をつける気は無いが、男女間の人間関係の問題を恋愛に結び付けようとするあたり、ハルヒもはやり女子の端くれ、ということになるんだろうか。
「でもあたしは、何もしないで見守って居れば良いって思ってた。団内恋愛禁止って言おうかと思ったことも有ったんだけど、本人に自覚が無い段階で言うのもバカみたいだし、それはそれで悪くないかなって……うん、変な話だけどね。あたしは、そういうあんたを見るのは嫌じゃ無かったのよ。どうしてかしらね?」
 どうして、なんて訊かれても俺に答えられるはずが無い。そもそも、俺以外みんな気づいていたってどういうことだ? みんなで勘違いしてたってことか? ……なんでそうなるんだよ。わけが分からん。
「でもね、世の中にはあたしと同じように思わないバカな連中がいっぱい居たの。本当だったらあたしが構う必要は無いんだけど、名指しで呼び出されたら答えるしかないじゃない」
 何をした、と聞くのはやめておこう。
 表沙汰になってない。俺の耳に入ってないことなんだ。暴力を使わずに解決したならそれで良かったということにさせてもらえないか。どうやら俺が原因らしいが、俺の目の届かないところで起こったことまでは責任を持てん。……ハルヒがクラスの女子達とギクシャクしていた理由は何となく分かった気がした。ハルヒに何か言われた女子がハルヒが孤立するように仕向けたんだろう。俺が呼び出されたのも、そんなことが有ったからか。
「あたしは別に何も気にして無かったのよ。人の恋路を邪魔しようと思うバカどもと仲良くしたいなんて思わないもの」
 人様の恋路に口出しする連中を「バカ」の一言で切り捨てる辺りが、いかにもハルヒらしい。恋は精神病、と言っていたあの時とは少し態度を変えている気がするが、根本的なところは変わって無いのかもな。恋という単語を出さずに応援したりするのはともかく、はっきりと言うのはダメってことなのかも知れない。
「でも、古泉くんがあたしと同じ考えかどうかは分からないわ」
 ……そうだな、その通りだよ。古泉が他人の色恋に口出しするような奴と積極的に付き合おうとしているとは思えないが、付き合わなきゃいけなくなることも有るんだろう。あいつにはあいつの生き方が有るし、外面ってものも有る。
 ハルヒの振る舞いと、周囲の女子達の振舞い。
 少しずつ、事情が理解出来てきた。古泉が俺にしたことは犯罪同然と言うか、犯罪であることに間違いないが、そうなってしまった原因は俺にも有るわけだし、その原因の輪郭がようやく掴めてきた。周囲のことなんて何も知らない、何も気づかないままの俺が、不用意な一言を言ってしまったから……古泉が切れたのは、そのせいだ。
「ねえキョン、あんた古泉くんのこと……まだ、好きなんでしょ?」
「……好きだよ」
 物凄く酷いことをされたはずなのに、俺は古泉のことを嫌いになどなれなかった。嫌いと言われても、傷つけるようなことをされても……どうして、なんて考えても分かるわけが無い。これが、ハルヒの言う『俺が古泉を好き』ってことになるんだろうか。
 不思議なもんだよな。ついさっきまで、俺と古泉の関係に恋愛感情がどうのなんて言いだす奴の気持ちなんて分からないと思っていたのに、いざ考え始めてみると、それ以外の結論が見当たらないのだ。女になってから抱いていたもやもやとした感情の出所が、やっと見つかった気がした。少し遅かった気もするが、まだ終わったわけじゃない。
「そう……」
「なあ、ハルヒ……ひとつ協力してほしいことが有るんだが、いいか?」
「何よ?」
「多分、元々お前がやろうとしていたことだよ」
 ぱちりと、ハルヒが大きく瞬きをした。
 そんなに驚くことじゃないだろうと思いつつ、俺はその提案を口にした。


 翌日、古泉は部室に来なかった。
 ハルヒの携帯に、アルバイトなので帰宅しますというメールだけをよこして下校してしまった。そんなことだろうと思っていたので、別に驚きもしなかった。
 昨日の今日で何事もなさそうな顔で出てきたら、その方が驚きだ。俺だけならともかく、ハルヒにもことが露見しているってことに古泉自身も気づいているのだろう。昨日の時点で隠そうという様子さえ無かった。ブチ切れていたから、というのだけがその理由じゃないな。多分、当て付けって意味も有ったんだと思う。あなたが余計なことをしたから悪いんですよっていう意思表示。古泉がハルヒに対してそういう態度を取ることは珍しいが、それだけ怒っていたってことなんだろう。でなきゃ、あんなことになるわけが無い。きっと昨日の古泉は、怒りに任せて世界が崩壊する可能性さえあるってことを忘れていたんだ。
 何も知らない朝比奈さんと、何も言わない長門。朝比奈さんは巻き込まなくても良いかな、と思ったが、ここにきて仲間外れにする必要もないだろうと思ったのは俺だけでは無いらしく、ハルヒはあっさりと俺の提案を朝比奈さんにばらした(当然、そこに至るまでの経緯は伏せてだが)。彼女は多少目を白黒させていたが、その後は喜びに満ちた顔に変わった。そういえば、彼女が居る未来での俺は……まあ、どっちでも良いか。ここに居る朝比奈さんが、今より先の『俺』の姿を知っているとも思えないし。
 隠しておくべき相手はその場に居ないのにひそひそと肩を寄せて話し合い、段取りを決める。段どり、と言っても大したものじゃないんだが。
 ――そして、その翌日の土曜日、俺は古泉の住むマンションの前に来ていた。完璧かどうか分からないが出来ることは全部やった、と思う。だから、後は向かっていくしかない。
 部屋番号を押し、古泉を呼び出す。通話が繋がるまでの時間がやけに長く感じられたのは、緊張しているせいだな。ここで古泉が出てこなかったらどうしよう、なんてことまでは考えて無かったが、出てこなかったらどうしよう。ほんの数秒間の沈黙が嫌に重い。祈るような時間が過ぎ、軽い音がして通話が繋がる。
「古泉か、俺だ。――だ」
 名前を名乗って反応を待つ。まるで死刑の方法が伝えられるのを待つ死刑囚になったような気分だ。出来るなら苦しまずに逝かせて欲しい。
『……何か御用ですか?』
 その声が若干動揺しているように聞こえたのは、俺の気のせいじゃあるまい。まさか、俺の方から来るとは思って無かったんだろう。そうだよな、俺がお前の立場でもそんな風に思ったりしないさ。正直、たった二日でここまで復活出来るとは自分でも予想外なんだ。
「ああ、用が有る。だから部屋に入れろ」
『……』
「入れてくれ、話はそれからする」
『分かりました。良いでしょう』
 通話が切れ、マンションの玄関のオートロックが外れた。
 歩きながら深呼吸をひとつして、その中に滑り込む。エレベーターに乗り、古泉が住む部屋まで。ここに来るのは一度目じゃないが、一度目の時の数倍緊張する。あの時と同じなのは、あの時と同じくらい着飾って来たってことくらいだ。
 玄関先のチャイムを押すと、中から普段着姿の古泉が現れた。大きく目を見開いて俺の姿を上へ下へと眺めている。なんだよ、そんなに不思議なのかよ。
「……驚きましたね。あなたが自分から僕の家に来るとは思いませんでしたよ」
「来たかったから来たんだ、悪いか」
「いいえ……どうぞ、上がってください」
 じゃあ遠慮なく。
 半月ぶりに訪れた古泉の家の中の様子は、前に来た時と大差無かった。古泉の匂いがする、古泉が住んでいる場所だ。
「座ってください。お茶でも入れますから」
「ああ」
 別に焦るようなことじゃない。ここが古泉の家である以上、奴が逃げ出すことはないだろう。結構酷い場所を選んでいるよなあ、という気もするが、あいつが俺にしたことの酷さを考えたらこの程度はどうってことも無いだろう。それに、俺は過去に一度この場所へ来たことが有る。俺を呼び出した連中に指摘された時は誤解だと思ったが、誤解も何も、女の子がこうして一人暮らしの男の家に一人きりで来ているんだ。そういう関係だって思ったとしても不思議では無い。
 古泉が用意してくれたお茶を軽く啜って、奴の目を見据えてみる。なんだよ、変な顔するなよ。色男が台無しだぞ。
「……あなたは、僕を批難しに来たんですか」
「違うよ」
 そんなことのために、わざわざ危険を冒してこんなところまで来たりをしない。リスクを背負う以上、そのリスクに見合うためのことをするために来たのさ。
 そう、伝えたいことを口にするために。

「古泉。……俺は、お前が好きだ」

 ――その一言を伝えるために。
 
 

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