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正しい彼女の作り方(仮) 第二章



 精神だけでなく経済的な面でも疲弊させられた上なんの収穫も無かったり、喜緑江美里の生徒手帳の中身を目にしたりはしたものの、状況は何も変わって無い。それどころか以前より悪化しているような気がするのは俺の気のせいだろうか。いや、多分気のせいじゃない。
「あら、こんなところで出会うなんて偶然ですね」
 ……悪いが俺は喜緑江美里という人物に関する一切の偶然を信じないことにしている。出会った次の日にコンビニで、その週末に本屋で顔を合わせただけなら、俺もそれを偶然だと思いこむことが出来たかも知れない。だがそれからというもの、外に出るとかなりの確率で遭遇している。行く場所はバラバラだというのに、どこに行っても一定以上の遭遇率だ。
 こんな向こうにとって都合の良すぎる偶然なんてものがそう何度も何度も連続するわけ無いだろう。どう考えても先回りされているとしか思えない。こいつならそのくらいのことは出来るに決まってる。
 周囲の目がある以上余計なことを口にするつもりは無いが、内心あまり穏やかじゃなかった。出かけるたびに、もしかしたら、と思っていたりはするが、慣れてどうにかなるようなものでも無いし、慣らされたくも無い。
いい加減にしてくれ、という一言を言いきれない自分が嫌になる。自分の性格面を考えればとっくの昔に言っていてもおかしくないと思うんだが、なぜか喜緑江美里にはそれをさせない雰囲気があった。正しく雰囲気や空気としか言いようがない、性格とも相性とも違う何かだ。無言の圧力をかけられているというわけでも無いんだが、一体何が理由なのだろう。考えてもつかめないものが手の中からするりと抜けていき、その代りにまた一つ疑問と不安が上乗せされる。
「おひとりですか?」
 柔らかな笑顔が薄暗い幾つかの感情を振り払ってくれれば良かったのかも知れないが、生憎俺はそこまでバカになりきれなかった。どんなにツラが良くてもこいつは宇宙人だ。
「ああ」
「でしたらご一緒してもよろしいですか? わたしも一人なんです」
 強引に腕を引っ張られたかと思ったら、腕を組まれた。ここまでの一連の流れは、最早日常茶飯事と化している。地元から少し離れた場所だから今日は出ないかと思っていたんだが、悪い意味で予想を裏切られた。相手は人間じゃないんだ。人間の尾行や追跡、先回りと同じ次元で考えるのが間違いってことか。
「何かご予定はおありですか?」
 あったらそもそも手を伸ばされる前に断っている。実際に急ぎの用事があって断ったことは無いが、もしかしたらそのあたりのことも先読みされているのかも知れない。……予定の無い休日を穏やかに過ごしたかったら、家にこもってろってことなのかよ。
「何も無いな」
「では、一緒に歩きましょう」
 こういう時、喜緑江美里は勝手に先へ先へと進んでいく。
 わざわざ説明する必要があるかどうかさえ疑問だが、この先に待っているのはありがちなデートコースというやつだ。恋愛的な意味でつきあっているわけでは無いが、恋人同士のそれと大差無い。現に行く先々でカップルに間違えられる。こいつはそのたびに「違います、わたし達ただの友人同士なんです」などと言って顔を赤らめるわけだが、とてもじゃないがまともに顔を見てられない。
恋人未満の関係で二人きりで行動する男女は珍しくないだろう。二人で映画を見ることがあるかも知れない、一緒に飯を食ったとしても全然おかしくないよな。その二人が実は想い合っているけど言い出せず、という関係だったとしても別に不思議でもなんでもない。だが、そういう関係の男女が最初から腕を組んで歩くようなことは無いんじゃないか。
 反応に困っている店員の前で喜緑江美里がまた何か言っている。聞き流す振りをしつつおかしなことを言ってないかという点にだけ気を付けるというのにも大分慣れてきた。相変わらず俺の気力は目減りし続けているが、その減り方も最初のころに比べると随分と緩やかになってきた。あまり慣らされすぎるのも良くないと思うんだが、いい加減疲れたと感じることに麻痺し始めたのかも知れない。肩凝りが進み過ぎるとそれが当たり前になり過ぎて凝っていること気づかなくなるってのに少し似ているかもな。……末期症状とも言えるが。
「会長、会長ってば……わたしの話、聞いていますか?」
「あ、ああ」
 この話は完全に聞き流しても問題ないだろう、なんて思っていたせいで一瞬反応が遅れた。喜緑江美里の向こうで店員が笑っている。アクセになんぞ興味が無いせいで退屈している彼氏だとでも思われたんだろう。俺は彼氏では無いが、俺の立場を除けばほぼ正解だ。こんなところに居ても俺の興味を引くようなものは何も無い。なんで女ってのはこんなキラキラしたものが好きなんだ。身に付ける物の類に全く興味が無いわけじゃないが、趣味が合わない。
 女子が好きそうなショッピングモールの中というのはどうも居心地が悪い。俺と同じように女と一緒に来ている男の姿は見かけるが、一人で来るような奴は先ず居ないだろう。
「青と緑、どちらが似合うと思いますか?」
「……ペンダントか」
「はい、そうです」
 喜緑江美里が俺の眼前で二つのペンダントを揺らしている。何の石かは知らないが、色が違う以外はほぼ同じ形をした物だ。銀色の台座にイミテーションの宝石が嵌っている。この手の店の中に有る物にしては随分と落ち着いたデザインだ。こいつの趣味なのかも知れない。理由は知らないし訊ねたことも無いが、私服で現れる時のこいつは結構おとなしめな服装の場合が多い。今日だって派手さの全くない格好をしている。
「緑で良いんじゃないか」
 特に理由は無い、直観的なものだ。趣味やセンスにもよるだろうが、こういう物は深く悩んでも大した意味など無いものだと相場が決まっている。女を喜ばせるために必要な言い回しも思いついたが、それをこの女相手に言ってやる必要は無いだろう。
「じゃあ、これを買ってきますね」
 随分と投げやりな調子で言ったつもりだったが、それでもこいつにとっては充分な返答となっていたらしい。女の考えていることはなんとなく分かっても、宇宙人の考えていることはよく分からん。そもそも人間と同じ思考形態を持っているかどうかさえ怪しい。出会ってから数ヶ月が経過しているが、未だに相手の意図がさっぱり読めないことがある。
 そもそも、恋をするように、と言われた理由や俺を選んだ理由さえ聞いていない。長門有希も何の説明もしてくれなかった。理由を聞いて理解出来るという保証もないんだが。
「あら……どうしましょう」
 財布を開いた喜緑江美里が、そこでぴたりと静止した。
「どうした?」
「あ、いえ、持ち合わせが足りなくて……」
 開かれた財布の紙幣のところは空っぽだった。小銭入れは見ていないが、紙幣が空なのに小銭だけで数千円以上、なんてことはそうそう無いだろう。この宇宙人娘に金銭を硬貨で持ちたがるような癖があれば話は別だが、そういうわけでもなさそうだ。
「ううん、今欲しいんですけど……次に来たときには売り切れているかも知れませんし……」
 苦笑することはあっても本当に困惑することなどなさそうな女が、どこからどう見ても困ったような顔を晒している。俺の方など見もしない、頼ろうともしない。見えてないわけじゃないだろうが、俺にねだる気は無いらしい。あるいは、そういう発想が無いのかも知れない。女ってのは経済的に困ったときに男に頼る生き物だと思っていたんだが、宇宙人はその理屈は通用しないんだろうか。ま、こいつの親玉が生物学的な意味以上の性差にどれだけの意味を見出しているかって疑問も有るんだが。
「俺が払っておく」
 こんなところで延々時間を潰されるのも面倒だ。俺は喜緑江美里の手からペンダントを取り上げると、それをレジに居る店員の前に差し出した。
「えっ……あ、あの、そんな、悪いです」
 普段の強引さはどこへやら、喜緑江美里が動揺している。俺の行動がそんなに意外だったのか?
「気にしなくていい」
 立て替えるだけのつもりだったが、気が変わった。
「そ、そんな……」
 慌てる女を無視してさっさと会計を済ます。店員も多少不思議がっている様子だったが、特に追及されることも無かった。物が売れればそれで良いってことなんだろう。
 千円札二枚と引き換えに、ペンダントの入った袋が手の中に収まった。
「ほらよ」
 俺が持っていても意味がない。もったいぶる気も無かったのでさっさと渡してやった。
「あ……ありがとう、ございます」
 ぺこりと頭を下げるその姿が妙にぎこちない。まるで敵だと思っていた相手に回復魔法をかけられて動揺している戦士のようだ。別に俺はこいつの敵になったつもりはない。味方になったわけでもないが。
「嬉しくないのか?」
 好きだって思っている相手に物を買って貰ったって状況なんだ。嬉しいと思うのが妥当なんじゃないか。
「嬉しいです。でも……」
 傍から見れば相当間抜けなやりとりだと思うんだが、その時の俺は羞恥や周りの視線よりも喜緑江美里が困惑している理由の方が気になっていた。人外の力さえ持つ宇宙人娘がこんな日常的な場面で取り乱すというのは意外だった。
「でも、その、悪いですし……」
「どうしてそう思う」
 俺は俺の意思で買ってやることに決めたんだ。悪いなんて思われる筋合いは無いだろう。
「だって、買ってもらう理由が有りません」
「……理由?」
「無い物は、無いです。……異性に対する贈り物というのは、好意があるからこそするものです。ですが、会長は……わたしに好意を持っているわけでは無いでしょう」
 頬を膨らませたままぷいっと横を向くその姿は、まるで子供だ。
 あれだけ好き好きアピールを見せておきながら、この反応。素直に喜ぶような女だとは思って無かったが、随分と厄介な性格をしているようだ。面倒臭い。
「じゃあ、お前はそれを俺に返すのか?」
「いいえ、貰ったものは返しません。……だって、嬉しいのは本当ですから」
 その割に、思いっきり意地を張っているように見えるんだが。困るなら困る、喜ぶなら喜ぶ、どっちかにしてくれないか。
「……嬉しいって思うなら嬉しそうな顔をしろ、でないと買った意味が無いだろ」
「えっ……?」
 きょとんと、喜緑江美里がその大きな瞳を見開いた。なんだよ、そんなに驚くようなことじゃないだろ。俺は別に……変なことは言って無いはずだ。
「あ……そう、ですね。ちゃんと嬉しそうにしないと、失礼ですよね。あ、わたし、本当に嬉しいって思っているんですよ。ただ、疑問とかがあっただけで……良いです。会長がそうおっしゃるなら、それはわたしの胸の内にしまっておきます。――ありがとうございます、会長」
 一旦あれこれ喋っておきながらしまうも何も無いだろう……と思ったが、幸せオーラ満開の笑顔が返ってきたので、俺はそれ以上のことを追求するのをやめた。自分から面倒な話を振る気はないんだ。


 ペンダントを買ってやってからというもの、喜緑江美里はひたすら上機嫌だった。元々俺の近くに居る時は笑ってばかりの奴だが、本日に限っては二割増し、いや、三割増しくらいなんじゃないか。
 笑顔を浮かべる喜緑江美里の隣に居て思うのは、こいつの見た目は悪くないんだっていう至極当たり前のことだった。悪くないというか、美人や可愛いといった単語の枠組みに入れてやったところで文句を言う奴はいないだろう。その程度の容姿ではある。ただ、ぱっと見た印象って意味でいうとあまり派手な方じゃない。あまり印象に残らない整った顔立ちって意味では、同類である長門有希と似ているかも知れない。長門有希の場合は容姿以外の個性が強すぎて印象を残すタイプだろうが、こいつは違う。俺の目の前で騒いでいる時はともかく、大勢の中に居れば簡単に埋もれてしまうような奴だ。それなりの顔、それなりの性格、それなりに周囲に合わせた振る舞い、好印象を作れるだけの材料を揃えながらも、決して目立たない存在……絶妙なバランス、という単語が合致するのかどうか微妙なところだな。
 こいつや長門有希の外観を見る限り、こいつらの親玉の美的センスは悪くないようだが、そんな人間型ですらない地球外生命体が人間の美的感覚に理解を示しているとも思い難い。いや、それとも、目的に合わせて分析した上で決めているだけか? そうだとしたら……一体何が主目的か知らないが、意図的に『ほどほど』の物を与えられるってのは少々気味が悪い。美人とかブスとか特定の分野に秀でているとか、分かりやすい特徴がある方がよっぽどそれらしいんじゃないか。
「どうしたんですか? わたしの顔に何かついていますか」
 首を傾げるその仕草まで、あくまで可愛らしく、けれど決して媚びるわけでも無く、という路線を貫いている。男心をくすぐる、という目的に沿ったものなのかも知れないが、正体を知った立場からすれば、完全に逆効果だ。見れば見るほど細かい違和感と疑問が浮かび上がってくる。
「なんでもねえよ」
 やる気のない俺の返答に対して喜緑江美里はパシパシと軽く瞬きを繰り返したが、それ以上追及しても意味が無いと思ったのか、すぐに手に持っていたクレープの方に視線を戻した。
「ふふ、何だか何時もより美味しい気がします」
 お金はあんまり無いですけどポイントカードが有るから大丈夫です、と言って連れ込まれたのは、甘ったるい匂いの漂うクレープ屋だった。俺も一つ選ぶように言われたんで甘くない食事系のやつを選ばせてもらったんだが、当の喜緑江美里はと言えば、胃が重たくなるんじゃないかと思えるほど生クリームたっぷりのデザート系クレープを注文しやがった。今までもクリームを多少増量する奴に遭遇したことはあったが、こぼれそうなほど頼む奴は初めて見た。店員と周囲の客の顔が引きつっていたことは言うまでもない。明日からメニューに書いてあるクリームの増量に制限が加わりそうだな。
「……よく食えるな」
「あら、これとっても美味しいんですよ」
 甘いものに対する女子の胃袋は胃次元、いや、異次元だ。運動部の連中の食べる量や痩せの大食いに感心することも有るが、これはまた次元が違う。冷静に考えれば量的にはそれほどじゃないんだ。量やカロリーに換算したところで、せいぜいでかいハンバーグやステーキをセットで食うようなもんだろう。……そのカロリーを構成する殆どが生クリームだってことに無理を感じるんだが。
 ついでに言うとこいつの胃袋は女子的異次元ではあってもその他の不可解な要素は併せ持って無いらしい。食べる速度自体は普通か、むしろそれより遅いくらいだったからだ。俺が既に食べ終えているというのに、こいつはまだまだ終わりそうにない。そのうち中の生クリームが手の熱さで溶け始めるんじゃないか。
「あ、良かったら会長も一口どうですか?」
 ちまちまと食っていた喜緑江美里が、ふと立ち止まったかと思うと、俺の方を見上げてクレープを差し出してきた。
「……はあ?」
 こいつ、何言っているんだ。
「甘いものはお嫌いですか?」
「いや、そういうわけじゃないが……」
 見ているだけで胃が痛くなりそうだとは思ったが、別に甘いもの自体が嫌いなわけじゃない。積極的に食べようと思うことはあまり無いが、腹が空いている時ならクレープ一つ分くらい軽く胃に入る。だが今は自分の分を食べたばかりだから腹は空いて無いし、何より喜緑江美里が手にしているのは既に口を付けたクレープだ。間接キスがどうのこうのなんていう夢を抱いたことはないが、この状況じゃ抵抗がある。というか、あって当たり前だろう。
「だったらいかがですか? 美味しいですよ」
 恋に恋する乙女のような顔ばかりしている癖に、こいつはこいつで間接キス云々ってことに気づいているかどうかさえ怪しい。まさか演技か? とも思ったが、その笑顔を見ていても、演技なのか素なのか見極めるための手掛かりは見つかりそうになかった。どっちにしろ性質が悪いことだけは確かだが。
「いや、だが」
「あの、本当に美味しいんですよ? あ、でも、甘いものが苦手でしたら無理はなさらないでくださいね」
「だからそうじゃねえって……」
 相手が間接キスなんぞ意識して無いのに、俺の方が意識して断ったらバカみたいじゃないか。かと言って、こっちが何でもない振りをして食べた後に妙に意識しているように振舞われるのも嫌だ。さっきのペンダントはまあ良い。物は物だし、あれはあれで面白い物が見れたと思っているんだ。だが、食べ物に関しては……形に残らない物だからこそ、余計に引っかかる部分があるのかも知れない。面倒臭い話だ。女々しくなったつもりは無いんだが、こいつと居ると余計なことを考え過ぎて良くない。普通の女に合わせるというのも面倒臭いことだらけだが、こいつの場合は少し性質が違う。違うから良いというわけでも無いし、悪いというわけでも無いんだが……。
「うわっ」
 ――車道も歩道も分かれていないような裏通りで会話にばかり集中していたのが悪かったんだろう。気が付いたら、俺は道端に置きっぱなしになっていたガラクタに足をもつれさせ、その場で尻もちをついた。パッと視界が暗転する。何か音が、と思った瞬間に目に飛び込んで来たのは、車の正面部分だった。
――え?
「危ないっ!」
 ヤバいと自覚するよりも先に、周囲に声が響き渡った。身体を抱えられるような感覚だけはあったが、実際にそれを感じたのはその瞬間よりも少し後だったんだろう。投げ出されたクレープの軌道に若干の不自然さを感じたが、それはきっと自分達も同じように宙を舞っていたからだ。
 近づいてきた車との位置関係がどうなったかは分からないが、急ブレーキを踏んだ時のような音が響いたかと思ったら、今度は車の駆動音が急速に遠ざかって行った。
「な……」
「……良かった、ご無事ですね」
 ついさっきまで隣でのほほんと笑っていた女が胸元に抱きついていたかと思ったら、パッと俺から離れていった。どうやら二人して道端に転がっているようだ。車は既に点のようになってしまっている。……やっと状況が理解出来た。どうやら俺達は車に轢かれそうになったらしい。って、冷静に分析している場合じゃないだろう!
 気づいた瞬間に足の先から悪寒のようなものが昇ってきた。吐き気に似た何かが喉の奥でぐるりと回っていく。今すぐ吐くというほどじゃないが、気分が悪い。洒落になってねえって。
「おい、足っ」
 視線をめぐらしている途中で、ふっと意識がその一点に集中した。
 車にやられたのかよけた時に強く打ったのか知らないが、喜緑江美里の左脚からだらだらと血が流れていたのだ。膝から先の角度だっておかしい。これ、折れているんじゃないか。俺はその脚から視線を外さぬまま、その場で立ち上がった。転がった時に打ったのか多少身体が痛い感じはするが、俺の方に大きな怪我はなさそうだ。こいつが庇ってくれたおかげかも知れない。いや、だから、俺のことは良いんだ。それよりこいつをどうにかしないと。
「大丈夫です。すぐに治せますから」
 涼やかな声が動転しかけた俺を制した。
 そいつは薄い色の瞳で周囲を見渡して人目が無いのを確認すると、怪我をした場所に手を当てて小さく呪文のような言葉を唱え始めた。何を言ってるんだろうか、テープの早送りのようで全く聞き取れない。
「あっ……」
 脚の怪我が綺麗に塞がっていく。血の痕も消えているし、折れている様子も無くなった。トントンッとさっきまで折れていたはずの足で地面を軽く蹴ると、喜緑江美里は俺の方を見上げて微笑みを浮かべた。
「もう大丈夫です」
「……そうか」
 口元から生じそうになった有形無形の幾つもの言葉を飲み込んで、俺はただそんな言葉を言うことしか出来なかった。目の前で見た魔法のような出来事は、出会ったその日に目にした記憶や記録の改竄よりも衝撃的だった。女に庇われたのがどうのとか考える余裕があるかどうかさえ怪しい。強がってみたいところだが、命の危機と衝撃的な出来事の前じゃ、面子や自尊心なんて二の次三の次も良いところだ。
 喜緑江美里は俺が気づきもしなかった車の接近に気づき、俺が知覚出来ないほどの速さで動いて最悪の事態を回避したんだ。……それだけでも、ただごとじゃない。
「会長は大丈夫ですよね?」
「ああ……怪我は、ない」
 掠り傷程度の痛みは有るが、それだけだ。何もしなくてもそのうち収まるだろう。
「それなら良かったです」
「今のは……」
「恐らくわたしやあなたとは無関係な輩の仕業です。半分は事故のようなものでしょう。……然るべきところに連絡いたしますか?」
「……いや、良い」
 怒りの気持ちが無いわけでは無いが、どうも思考と感情がそっちに向きそうにない。それに、下手に追及すると俺達の方が不味いことになりかねない。校内での立場ってのものがあるし、もしも怪我をしたところを見られていたとしたら別の意味で厄介なことになる可能性だってある。足を折ったはずの奴がすぐに回復していることに気づかれたら、何を言われるか分かったもんじゃない。
こんなときだってのに、頭の冷静な部分が割とまともな判断を下してやがる。震えて立ち上がれないよりはマシだが、自分の意思で行動出来ている気がしない。思考がシャットアウトして、どっか別の部分が俺を動かしているんじゃないか。
「そうですか、では、放っておきましょう。単なる事故でしょうから、これ以上被害が拡大するようなことも無いでしょうし」
「……ああ」
「あの、会長……わたしは、ここでお暇してもよろしいでしょうか?」
 ふと、喜緑江美里が気丈にも見えた表情をさっと曇らせた。いきなりの変化だ。理由がさっぱり分からない。
「……え?」
「このような時に会長をお一人にするのは如何なものかと思うのですが、用事があるのを思い出したんです。……すみません、後日何かお詫びいたしますね」
 詫びも何も、俺は勝手に付き合わされていただけだ。こいつが居なくなったところでなんの問題も無い。なんの……問題があるとすれば、それは寧ろ俺が今体験したことの方だろうか。喜緑江美里は俺の前で人間業とは思えない動きを披露し、怪我を治した。改めて、こいつが人間以外の存在だってことを思い知らされたんだ。
「……それでは、また」
 喜緑江美里は素早く頭を下げると、俺の返事も待たずに踵を返しその場から立ち去っていった。



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