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スウィート・ドリーマー プロローグ



 時間ってのは前へ前へと進んで行くもんだ。
 一体誰が何時どこで定義したか知らないが世間一般的にそういうことになっているし、一応という前置きつきでは有るが俺はそれを信じることが出来る側に属している人間だ。時たま危うく感じる時も有るんだが、それでもまだ時間の感覚そのものを完全に消失するほどの状況には陥って無いぜ。
 つまるところ、ただいまの俺は進みゆく時間に従って生きている至極まっとうな人類の一人に属していたってわけだ。そして人間ってのは時間の経過とともに新しい情報を受け取り、それと同時に古い情報を消失していく。流れ作業的に行われるわけでも全部が全部そうなると決まっているわけでもないが、一般論として、そういうもんだ、っていう風に定義付けすることは難しくない。記憶の容量や密度なんてのは人それぞれ何だろうが、過去のことってのは忘れていくように出来ているんだろう。現に俺は一週間前の夕食のメニューなんてもう思い出せないからな。
 前置きが長くなってしまった気がするが、そんなわけでその時の俺はある一つの記憶を風化させている最中だった。
 忌々しい記憶ランキングの中でも上位に位置する記憶。俺の中の二度と会いたくない人物リストの最上位。件の人物との間には忘れたくても忘れられないくらい印象の強い出来事が数度有ったわけだが、それはそれこれはこれ。忘れられない、なんて思うことが有っても、人間は結局忘れてしまう生き物だ。
 だから俺も、そのまま時が過ぎてしまえば、そいつのことを完全に忘れてしまったままで居られたのだろう。それこそ、忘れかけているって事実さえ認識しないままに。
 だが世の中そうは問屋が卸さないというか、運命ってのは悪戯をするように出来ているものらしく、結果として俺は件の人物を意外な形で思い出す羽目になった。
 この場合その問屋が扱っているものがなんだとか、運命を決めたのが誰だとか――なんていう点について一々考える必要もないだろう。茶化す必要も定義付けも要らない。
 理由はともあれ、俺はそいつに再び出会ってしまったのだ。
 ……会いたくはなかったが、会ってしまったなら仕方ないじゃないか。


 本来なら人生で最も青春の二文字が似合うとも思われる高校一年という大切な時期に、どういうわけか『奇想天外』という四文字に愛されてしまったらしい俺は、その単語を凝縮したような日々を過ごした後に二年に上がり、二年に上がってもまた色々な騒動に巻き込まれていたりしたのだが、どうにか二年の二学期にまで無事こぎ付けていた。無事の定義とは一体なんだと言われそうだが、退学を宣告されることもなく五体満足で学校に在籍していられれば、それは一応無事って状態に当てはまるのだろう。成績はともかく身体のことを心配するのはあまり一般的な高校生らしくないと思うのだが、別に俺の身体が病弱だとか持病持ちだとかってことじゃない。外的な原因による肉体損傷の可能性が一般的な高校生より高いかもしれない――ここ最近じゃ回数は減ったものの、命の危険や世界崩壊の危機に直面することが全く無くなったわけじゃない。とはいえ今のところ身体に傷や異常が残ったりはしていないし面倒なことに巻き込まれている最中でもない。ま、今のところは概ね平和ってことだろう。
 さて、さっきも触れたがどんなことがあろうと時間ってのは過ぎて行くものだ。俺がこの時間を楽しいと思っていようが詰まらないと思っていようが、やがて過ぎて行く物だって点については覆しようがないのさ。俺は時間移動が出来る未来人では無いし時間の向こう側の自分と交信したり時間を凍結したり出来る宇宙人でも無い。かといって時間移動に憧れる超能力少年でも無いが。
 ……その日の俺がそんな風に時間の定義や過ぎて行く時間についてあれこれ考えていたのは、単に暇だったからだ。どういうわけかハルヒはこの週末にSOS団の用事を組みこまなかった。珍しいこともあるものだと思ったが、俺にとっては貴重な休日。野暮なことは言うまい。休日後の無茶ぶりが心配では有るがその点については棚上げした上で本来の二文字に近い所を謳歌するのが正しい過ごし方ってものだろう。もっともその日は遊ぼうと思って連絡を取ってみた友人達は全滅、両親も妹も外出中、おまけにやろうと思っていたゲームは週末は予定が入るだろうと思って友人に貸してしまったところ――という、まさしく暇になるしかないような一日だった。
 たまにはこんな日も有るものだろうし、よくよく考えてみれば暇だと思う時だからこそ普段出来ないことをやるべきじゃないかという気もするのが、人間そう簡単に思考を切り替えて動けるもんじゃない。怠惰な上に言い訳を重ねるのもいかがなものかという気もするが、そういう時だってあるさ。
 ――電話の音が俺を呼び出したのは、そんな最中のことだった。鳴ったのは携帯じゃない、家の電話だ。家族は外出中なので出られるのは俺しかいない。一瞬、間違いか悪戯、勧誘じゃないかと思って出ずにやり過ごそうかとも思ったが、重要な電話の可能性もある。
 ま、色々考えても仕方がない。
 俺はあれこれと想像を巡らすのをやめ廊下に出て受話器を手に取った。一本の電話が運命を運んでくることも有るが単なる勧誘かもしれない。非通知なのが若干気がかりだが、一旦手に取ってしまった後に気づいてちゃ意味がないな。
「もしもし――」
「やあ、キョンかい」
「……佐々木か」
 一体誰かと思ったが、なんと俺に電話をかけてきたのは佐々木だった。珍しいこともあるもんだ。いや、別に珍しいとか珍しくないとか定義するようなことでもないか。しかしなぜ家の電話なんだ。今年初めの一件の後、携帯番号を教えた気がするんだが。何か携帯にはかけられない事情でも有ったのか?
「ああ、君は相変わらず勘が良いね。君の想像通り、僕は今携帯を所持してはいけない状態になっているんだ。突然だったもので番号をメモする余裕もなくて、こうして今手元にある住所録を見ながら君の自宅に電話をかけているというところなんだ」
「……携帯を持てないって、お前今どこにいるんだ?」
「病院だよ」
「病院? 何でまた?」
「少々恥ずかしい話になるんだが、夏ごろから患っていた風邪を拗らせてしまったんだよ。不注意で肺炎間際まで行ってしまったせいで入院させられる羽目になったんだ。もっとも、風邪自体はもう殆ど回復していて今は静養を取っているという状態さ」
「そうか、お大事にな」
「ところでキョン、君は今日暇かい? 僕はもう退屈で退屈で仕方ないんだが。いくら自分の不注意が原因とはいえ本来なら青春を謳歌すべき日々にこんな退屈な日々を強いられるとはとても不本意だよ。もっとも、受験のために勉学にばかり励むのが果たして正しい青春の過ごし方と言えるのかどうかという疑問もあるけどね」
「……暇と言えば暇だな」
「じゃあ、お見舞いにでも来てくれないかい。こちらから催促するのもどうかと思うけれど、他にあてもなくてね」
 何だろうな、この計ったようなタイミングの良さは。
 俺が物凄く暇なその時を狙ったかのように佐々木が入院していて、電話をかけて来るなんて……何かこう、面倒なことが起こりそうな予感がしてならないんだが。面倒と言えば春の一件も面倒だったわけだが、それはそれだ。
「ダメかい?」
 佐々木がこんな風に念を押してくるなんて、珍しいことも有るものだ。別に見舞いくらいどうってこともない。どこに入院しているか知らないが元々同じ中学に通っていた仲なんだ、そんな遠い場所ではないだろう。ハルヒの横暴が原因による財布の中の冷え込み具合は相変わらずだが、近場の病院に行って帰るくらいの金は有る。
「いや、ダメってことはない。分かった、今から行く。場所はどこだ?」
「ありがとう、それでこそ僕の親友だよ。場所は――」
 佐々木が口にしたのは、俺の予兆をさらに強くするような場所だった。


 自宅から電車を乗り継いで辿り着いた、私立の総合病院。
 そこが佐々木の入院している場所だった。
 ここは去年の12月の暮れに俺が入院していた、いや、入院させられていた病院だ。地元からそう離れたところじゃないから何かの機会にまた来ることが有るかも知れないという可能性くらい考慮していたつもりだったんだが、まさかこんな早く来ることになるとは思わなかった。
 正直ここはあんまり良い思い出が有るとは言えない場所だ。病院に良い思い出が有る奴の方が少ないと思うが、何せ俺は自分の記憶に全く残って無いことが理由でここに運び込まれたんだからな。その少し後にまるでビデオテープを再生するかのようにして気を失った自分が救急車で搬送される場面を見たりもしたわけだが。その出来事を含む一件はほぼ解決済みだが、思い返すと心の彼方此方から普段浸らないような感情を呼び起こしそうになる。
 感傷的になっちゃいけないわけじゃないが、あの出来事は、それこそ『良い想い出』化するくらいにしておきたいものだ。あんまり細かいことやややこしいことは考えたくない。ここでない世界で見た一人の文学少女の姿を思い出しそうになったが、俺はそれを振り払い、佐々木に教えてもらった病室へと向かっていた。佐々木の病室は二人部屋らしかったが、人数の都合で一人での入院となっているらしく扉の横には佐々木の名前しかかかっていなかった。
「佐々木、入っても良いか」
「ああ、どうぞ」
 ノックの返答を貰い、扉の内側へと入る。佐々木は二つあるベッドのうち窓際の方のベッドの中に居た。上半身を起しこちらに顔を向ける姿からは何の異常も察知できない。服装こそパジャマだが見た目は健康そのものって感じだ。
「思ったより元気そうだな」
「電話で言っただろう。もう病状は安定しているんだよ」
 それはその通りだが、これでも一応心配して来たんだぜ。佐々木が病気になったところなんて殆ど見たことがないが、こいつはどうも病気でも無理をしそうに――見えるかどうかは微妙なところだが、無理をしてもおかしくなさそうな印象が無いわけでも無い。
「退院まであと何日くらいなんだ?」
「大事をとって後三日ほどかかるそうだ。やれやれ、ただでさえ勉強量が多いのに、家に戻ったら授業に追いつくために一苦労だよ」
「御苦労さん」
 俺達ももう二年生。そろそろ高校生活も折り返し地点を越えようかという時期になってしまった。来年になれば受験もある。俺も一応大学進学希望なので、勉強に追われる佐々木を眺めるだけの立場で居られるわけもない。もっとも、俺とこいつじゃ志望校のレベルが違い過ぎるだろうが。
 ところで見舞いに来たのは良いとして、これ以上特にすることもないぞ。こんな場所じゃ、テレビを見るくらいしかすることがないんじゃないか。
「テレビはもう見飽きたよ。……少し歩こうか。一緒に来てくれれば売店でジュースくらいは奢るよ」
「ああ」
 別に奢ってもらいたいわけじゃないが、歩いて問題ないなら歩いた方がいいのだろう。あんまり寝てばかりだと身体がなまっちまう。もしかしたら佐々木は一人でも歩いていたのかも知れないが、一人だとやっぱりつまらないのだろうか。二人なら楽しいってものでも無いと思うんだが、その辺についてはとやかく言うまい。
 二人で病室を出て、適当に歩き始める。
 白く清潔な病棟の中。病院らしいと言えば病院らしい光景だ。時折佐々木が話してくれる入院中に有ったエピソードとやらの中には今後話の種に使えそうなものもあったが、奇想天外なものが転がっているわけではない。もしかしたらそれを『つまらない』と評価する奴も居るのかも知れないが、俺としては、佐々木が至極真っ当な生活を送っているという事実の方に安堵を覚えるね。自分の生活はまだしも、身近な人間が妙な世界に巻き込まれているというのはあまり心中穏やかなものじゃない。
「……ん?」
 俺がふと立ち止まったのは、曲がり角の向こうから大きな声が聞こえてきたからだ。どっかで入院患者が暴れているんだろうか。まあここは病院だし、暴れるような人間が居たっておかしくはない。
「放して、放してってば!!」
 ……何故だろう。どこかで聴いた声のような気がする。はっきり、誰、と思いだせるわけでもないが。若い、多分俺や佐々木と同年代くらいの女子の声だ。近場の病院なので、同じ高校に通っている奴や佐々木のように中学が同じだった奴だろうか。そういう、ちょっと身に覚えのあるものの名前が思い出せない相手、というのなら、別に不思議なことでも……しかし、何だろう。この妙に引っ掛かる感じは。
「いやーっ」
 曲がり角から駆け出してくる、同年代くらいの少女が一人。
 病棟に暴れている入院患者がいる、まあそれは良いとしよう。それが高校生くらいの女の子である、その点についても特にツッコミどころが有るわけじゃない。その子が医者や看護師の手を抜けて走りだし、進行方向上に居た俺に抱きついてきた――そこまでなら、まあ、良いんだ。
 相手がどういう人間であれ、自分がどういう立場であれ、そういう『偶然』なんて、きっとどこにでも転がっている。何せここは病院だ。暴れる入院患者に突撃を食らうことくらい、日常茶飯事ってほどではないだろうが、ほどほどに有り得ることのはずさ。
「いや……、注射、嫌い。検査、いやあ……」
 ――だが、何でこいつが、ここに居るんだ?
 俺の服をひしっと掴みながら見上げて来る泣き顔に対して何らかの感想を抱く事も出来ず、俺はただその少女を凝視するしか出来なかった。
 何せその少女が――朝倉涼子の姿をしていたんだからな。


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