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スウィート・ドリーマー 第一章



 ――朝倉涼子。
 みなさんは覚えているだろうか。いや、別に覚えていなくても良いんだが。
 長門と同じ情報統合思念体とやらが作ったヒューマノイド・インターフェースとやらで、長門のバックアップ役で……、暴走して俺を殺そうとしたところを長門に消された奴である。ついでに言うと長門が改変した世界で出てきたりもしたんが、そっちについては本来の朝倉涼子かどうかよく分からんので割愛させていただく。
 本来、なんて言ったら、ここに居る朝倉涼子が本物かどうかという疑問もあるのだが……、何にせよ、そいつは俺の知っている朝倉涼子の姿をしていたのである。
「ああ、すみません……。この子、何時も逃げてばっかりで」
 年配の女性看護師さんが俺にひっついた朝倉をはがしていく。
「いやあ……」
 朝倉は――まあ本物の朝倉かどうか知らないが、一応朝倉と呼んでおこう――涙声で訴えてはいるが、どうも本気で暴れているって感じじゃない。抵抗を諦めたというよりは暴れるのに疲れているように見える。俺の知っている朝倉涼子の印象にはそぐわない姿だな。そもそも、朝倉が入院中って時点で物凄く無理を感じるのだが。
 状況からして全然関係ないそっくりさんじゃないか? という気もするが、果たしてこんなにそっくりな人物が存在するだろうか。今俺の目の前に居る少女は、服装以外は完璧に俺の知っている朝倉涼子そのものだ。
「落ち付いて、ね、朝倉さん」
「……ううっ」
 名前まで一緒かよ。
 これが人間だったら目茶苦茶よく似た親戚というオチも有り得るだろうが、何せ相手は宇宙人的存在だ。どこをどう探したところで同類は居ても親戚など存在しないだろう。例えばその同類が朝倉と同じ名前で――いや、それは無いな。長門や朝倉の親玉が手抜きをして新しいインターフェースとやらの外見や名前を既に消えた奴と同じにしたところで別に不思議では無いと思うが、そいつが病院に入院している理由がない。それに朝倉は表向きカナダに転校したことになっているんだ。そんな奴が引っ越したはずの場所に近い病院に居るなんて問題有り過ぎだろう。面識のある奴に遭遇する可能性は決して低くない。そう、たとえば、今の俺のように。
「お知り合いかい?」
 どうやら俺はそのまま暫しの間茫然としていたらしく、朝倉はとっくに看護婦や医者に連れられて行ってしまったようだ。目の前にはがらんとした通路が有るだけだ。隣に立つ佐々木が不思議そうな顔で俺のことを見上げている。
「あー……、知り合いに、似ていた」
 本人だという確証は全く無いしまさか本人だということは有り得ないと思うのだが、かと言って別人だと言い切れるわけでも無い。そもそも宇宙人にどこまで『本人』という概念が通じるかどうかってのもある。俺としては朝倉の同類でも有る長門のことは一人の人間として認識しているのだが、根本的な意味で人類とは違う存在だってこともちゃんと理解しているつもりだ。俺の理解力じゃ宇宙人の本質なんて分かるわけもないから、所詮そう思っているってことなのかもしれないけどさ。でもって、さっきの朝倉は――ダメだ、何か考えるにしても情報が少なすぎる。俺の見間違いってことはないと思うんだが。
「どうやら彼女が居たことに驚いていたようだけど、この辺りに住んでいる人じゃないのかい?」
「……しばらく連絡を取って無かったんでよく分からないんだ。一度この辺を離れたはずなんだが、戻って来ていたのかも知れない。まあ、人違いって可能性もあるんだが」
 一応、嘘は吐いて無いはずだ。
 長門有希や蘇芳九曜の存在や能力を有る程度把握している佐々木の立場や性格を考えれば、本当のことを全部話しても問題ない気がするのだが、俺としては佐々木をこれ以上厄介事に巻き込みたくなかった。こいつには出来る限り平穏に生きていてほしいものだ。一度何かに巻き込まれてしまった後でなら、本人の保身に繋がる意味での情報提供をするくらいは、とも思うんだが、今は現状を把握するための情報さえ揃って無い。
 今はまだ、朝倉涼子によく似た人物に病院で出会った。ただ、それだけだ。
「だったら名前だけでも確かめていったらどうだい。彼女の病室はすぐそこのようだよ」
 朝倉の姿は見えなくなっていたが、少し離れた病室から先ほどと同じ声が聞こえている。なるほど、あそこが朝倉の病室なのか。
 恐る恐る近づいてみた病室のネームプレートには、案の定『朝倉涼子』という名前が書かれていた。
 ……本当に、朝倉涼子なんだろうか。
「あら、何か用?」
 その場でネームプレートを眺めていたら、通りすがりの看護師さんに話しかけられた。ヤバい、ここにずっと突っ立っていたら、俺達はただの怪しい人物だ。
「ああ、彼がさっきこの部屋に入って行った方が知り合いに似ていると言っていたんで、本人かどうか確かめに来たんです。名前を見れば分かりますから」
 どう返事をしようか迷っているうちに佐々木に先手を打たれた。嘘ではない。嘘ではないのだが……、なんだろう、この、人を騙しているかのような薄ら寒い感じは。
「あら、そうなの」
「キョン、どうなんだい?」
「あ、いや……、名前は、同じだった。ただ、良く有る名前だしな……」
 『朝倉』も『涼子』も有り触れた名前と言えば有り触れた名前だ。俺のよく知っている横暴なSOS団団長や限定的超能力者、宇宙人と言った面子の名字ならばまだしも『朝倉涼子』の同姓同名が居たところで、そんなにおかしなことじゃないだろう。同姓同名の人物がそっくりさんだという事態は、あんまりないと思うのだが。
「そう……。ああ、どいてもらえる。ここに入らないといけないの」
「あ、はい」
 看護師さんは俺達にそれ以上の情報を与えることもなく病室の中に入って行ってしまった。一瞬、病室の中に居る朝倉の横顔が目に入る。表情こそ全然違ったが、その顔は、俺の知っている朝倉涼子のもので間違いなかった。
「……何だかわけありの患者さんのようだね」
 帰る道すがら、佐々木が唐突にそんな台詞を口にした。
 わけあり、か。まあそうだろうな。事情を知らない佐々木がどんな理由でそう推測したか知らないが、正体を知っている俺からすればあいつ以上のわけあり患者なんて思い当たるわけもない。宇宙人の入院患者なんて、一億人に一人の奇病で入院している奴よりもレアだと思うぞ。
 だが、何で朝倉涼子がここに居るんだ? 
 繰り返すことになるが、俺にはその理由がさっぱり思い当たらない。
「僕はもう三日ほど入院しているし、良かったら彼女のことを少し調べてみようか?」
「あ……、頼む」
 少々迷ったが、俺はその申し出に乗ってみることにした。佐々木が調べたところで何か新しい情報が見つかるとも思えないが、もしかしたら、ということもあるかもしれない。それに佐々木なら無茶はしないだろうし、入院中の退屈しのぎにもなるだろう。朝倉が佐々木に危害を加えることも……無い、と思う。こう言っちゃなんだが、長門や朝倉の親玉が佐々木のことをそれだけ価値の有る存在とみなしているとも思えないし、連中がそんな直接的な手段に出るとも思えない。大体、直接的な手段を取りたいならこんなまどろっこしいことはしないだろう。
「まあ、ここでは僕もただの入院患者だ。余り期待せずに居て欲しい」
 自分から言い出した癖に謙遜する辺りが佐々木らしいが、俺もあまり期待しないで待つことにしよう。果報は寝て待てとはよく言ったものだが、朝倉絡みで入ってくる情報が『果報』だとは到底思えないからな。


 偶然の再会、と言って良いのか分からない出来事が有った後、俺は予定通り面会終了時間前に帰宅し飯を食って風呂に入り、それからベッドに入った。気掛かりなことは有ったが眠れなくなるほどのことじゃない。
 しかし、なんであいつが病院に?
 道端でばったりとかもう一度転校してきましたとか、異常事態の最中に出会うとか――朝倉と再会するとしたら、という前提でなら割と色々なシチュエーションが想像出来るわけだが、病院というのはちょっとその想像の外側と言わざるを得ない。第一宇宙人に病院は必要ないだろう。長門が人間の病気に侵されているところなんて見たこともないし、あいつは掌に出来たレーザー光線による怪我を一瞬で治せるような奴だ。朝倉が長門と全く同条件とは限らないが、似たようなことが出来ると考えて良いんじゃないか。俺を襲ってきた朝倉に対して、長門は「あなたはとても優秀」と言っていたことだし。
 その優秀なはずの朝倉涼子は一度消えたはずだが……、ううむ、考えてみてもさっぱり分らん。かと言って長門に連絡を取るというのも……、いや、ここで長門に迷惑をかけるのはどうか、などと思って知らぬ間に傷口を広げるような結果になってしまう方が問題だろうか。何が起きているか知らないが、これは異常事態ってやつだ。もっとも、今のところ『朝倉涼子』らしき人物が存在しているという以上のことは何も無いわけだが。
 果たして長門は消えちまった朝倉のことを一体どんな風に思っていたのだろう。長門のエラーによって改変された世界には朝倉涼子がいたわけだが、それを手掛かりにして長門の心情を推し量れるというのならば苦労はしない。自らの手によって改変した世界の中でわざわざ朝倉の立ち位置を用意していた以上、何も無いってことは無いと思うんだが。もっとも、俺にはそれが『何』で有るかなんてわかるわけもない。あの時の長門の気持はなんとなくわかる気がするし、あの時の長門が抱えていたエラー、言わばストレスというものの輪郭をつかめた気もしたが、それらは所詮大枠で捉えたようなものでしかない。そんなマクロな視点からじゃ朝倉涼子個人というミクロな存在を掴むことなど出来はしない。
「どうしたもんかな……」
 まだ、何も始まっていないも同然のこの状況。
 ハルヒで有れば勝手に事件性を見出して暴れ始めるだろう。古泉だったら対策を練っているかも知れない。長門だったら……、まあ、なんにせよ、単なる一般人である俺に出来ることなんて高が知れている。ナイフで刺されるのは勘弁願いたいが、今のところ差し迫った危機に直面しているわけでも無い。
 細かいことを考えるのは一度眠った後でも問題ないだろう。
 長門に相談するにしても、明日で良いはずさ。これが本当に緊急性のある事態なら向こうから連絡を寄こしてくるだろうし。相変わらず長門に頼り過ぎな気もするんだが、過去二回朝倉に殺されかかった時に俺を助けてくれたのは長門だったんだ。その長門がノーリアクションなら大丈夫、と思うのも当然だろう。
 大丈夫、どうにでもなるさ。
 案外単純に出来ている自分の脳内構造に感謝しつつ、俺は何時もと大差無い速度で睡魔の中に落ちて行った。


 見舞いに行ったその翌日は月曜日だったので、ごく当たり前のように学校が有った。幸い、夢でナイフを持った女に会うようなことも無かった。
 本日はハッピーマンデーでもその他祝日でも無い、正真正銘ただの平日だ。登校前にカレンダーを見てみたが、日付が狂っていたり時間移動をさせられているということはなさそうだった。こんなことを一々確認してしまうのもどうかと思うんだが、不穏な空気を感じている以上仕方のないことだろう。本気でヤバい事態になったりしたらカレンダーの確認なんて全くもって無意味だろうと言う気もするのだが、それはそれだ。ホラー映画なんかで助けを求めて電話をかけようとするシーンとかがよくあるだろう? ああいうのを見ていると、そこは電線が切られているとか電波が届きませんってのが定番だろうと思ったりするんだが、中に居る人物にとってはそうじゃないんだよな。一縷の望みってのも有るが、実際に体験するのと第三者的立場じゃ事情が全然違うってのも有る。そういう意味じゃ今俺が感じていることやしていることなんてのも……、あ、いや、その件については保留にしておこう。どうせこの時点での俺は当事者的立場であることに間違いないんだ。冷静になってみようなんて思っても無駄になる可能性の方が高い。第三者的にツッコミを入れる役なんて、他の誰かに任せておけばいいのさ。
 妹に起こされて自転車に乗り駐輪場に自転車を止め坂を上り――なんていう日常的な出来事を逐一説明することもないだろうが、そこに至るまでに何かおかしなことが発生したりはしなかった。
「相変わらずしまりのない顔ねえ」
「悪かったな」
 朝方のハルヒとの会話も、まさしく何時も通りとしか言いようがない。暴走しがちな涼宮ハルヒも四六時中突っ走っているわけじゃない。全く何もないということは珍しいし、そういう時は大抵準備期間や潜伏期間でした、というオチがついていたりするのだが、今のところ実害は無いので気にしないことにする。先回りするのは俺の役目じゃないんでね。
 ハルヒとの会話がそれ以上の発展性、もとい破壊力を持つこともなく、だらだらと午前中の授業が過ぎ昼休みの時間となった。相変わらず授業は眠くて仕方が無いがこれでも一年の時よりは真面目に受けている。俺も来年は受験生、何時までものんびりしているわけにはいかない。
 昼休み、となれば当然昼飯を食うわけだが、それ以外の使い道が無いわけじゃない。たとえば、他のクラスの奴に会いに行くとか。そこまで考えて浮かんだのは長門有希の顔だ。俺が昨日朝倉に会ったことを一番最初に伝えるべき相手は誰か? 順当に考えればそれは長門だってことになるのだろう。何せ朝倉は元々長門のバックアップ役だし、派閥的な差異は有るらしいが親玉も一緒だ。それに何より、俺にとって一番頼りになる相手は長門――なんだが、果たしてこの件を長門に伝えて良いものかどうか。俺は確かに朝倉を見たし名前も同じようだったが、あれが本当の朝倉涼子だという保証は無いのだ。本物じゃないなら何だ? ……さあ、分かるわけがないね。
「やれやれ」
 軽く溜め息を吐きつつ弁当箱を開いてみる。まあ、今すぐ会いに行かなきゃならないような緊急事態じゃ無いだろう。昨日寝る前にも思ったが、本当にヤバいなら長門の方から接してくるはずなんだ。それが無いってことは安全な証拠みたいなもんだろう。とまあそんな風に結論付けて、俺は何時ものように谷口や国木田と共に弁当を食っていた。
「どうしたのキョン、なんだか元気が無いみたいだけど」
「別に、何時も通りだろ」
 溜め息くらい誰だって吐くだろう。その程度で元気が無い、なんて言われても回答のしようもない。別に疲労を溜めてるわけでも寝不足な訳でもない。俺は至って通常通りだ。
「ふうん……まあ、何でもないなら別にいいけど、あんまり無理しない方がいいよ」
「……分かってるよ」
 普段の俺はどっちかって言うと無理無茶無謀とは無縁な、平穏と中庸とほどほどを愛する方なんだ。ハルヒに振り回されて自分の性格を見失うほど愚かじゃないぞ。
 そうだ、別に俺の世界の中心は涼宮ハルヒじゃない。俺以外の属性持ち団員連中はともかくとして、俺は単に巻き込まれただけの――と言ってしまえる立場かどうかは疑問だが、少なくともハルヒが居なきゃ生きていけないとかハルヒが居なかったらここに居たかどうか分からない、というような次元の存在じゃないことは確かだ。
「そういやお前、最近涼宮とはどうなんだ」
 どう、って一体何のことだよ。ハルヒは相変わらずあれこれとしょうもないことを考えているみたいだが、特に変わった、というか、事件性のあるようなことは起きてないし、少なくとも俺とハルヒの間柄が変化したような出来事は無い。あいつは団長で俺は平団員。それだけだ。
 谷口が、ぱちぱちと、誰が見ても分かるほどゆっくりとした瞬きをしている。なんだ、珍しい反応だな。何か悪いものでも食ったのか?
「……本当に相変わらずなのかよ」
「あいつがそう簡単に変わるはず無いだろう」
 俺が谷口に向ってこんなセリフを口にするのもおかしい気がするが、涼宮ハルヒは相変わらず涼宮ハルヒらしく人生を謳歌している。そうとしか言いようが無い。
 答えの代りに谷口が溜め息を吐き、しかし俺がそこを指摘するよりも前に国木田が別の話をふって来たので、その話題はそれっきりとなった。
 一体なんだったんだ? 谷口の口からハルヒの名前が出ること自体はそう珍しいことじゃ無いんだが。まあいい、この件は気にしないでおこう。今はハルヒのことよりも気がかりなことがある。


「……って、まだ誰も居ないのかよ」
 放課後、何時ものように、と形容するしかないくらい馴染んでしまった文芸部室への道のりを辿り何時ものようにノックしてみたところ、反応が無いばかりではなくその扉さえ開いてなかった。珍しいことも有るものだ。
 大抵の場合長門が一番最初に来ているのだが今日は違ったらしい。果たして長門はホームルームや授業にちゃんと出ているんだろうか。ハルヒが時折六組と合同となっている体育や家庭科でのことを話しているし、俺自身体育の時にあいつの姿を見かけることも有るので、授業に全く出てないってことは無いと思うのだが。
 まあ、誰も居ないのが珍しいとはいえ全く無いというほどじゃない。俺は一旦職員室に向かって鍵を借りてから部室へと戻った。その間に長門が部室に来ているだろうか、そうしたらこの鍵は無駄になるな(長門が鍵を使って開けているとは思い難い)などと思っていたのだが、戻ってきた部室の前に長門はおらず、その代りと言っちゃなんだが、扉の横の壁を背に見慣れた優男が立っているだけだった。
「こんにちは」
 無駄に爽やかなSOS団副団長、古泉一樹。
 一々説明する必要も紹介する必要もないような俺の、もとい、ハルヒの身の回りの特殊属性持ちの一人である。
「ようっ」
 何で最初に男の顔を見にゃならん、という気もしたが、この場でこいつを邪険に扱ったところで何の発展性も生産性もないどころか寧ろこっちの気分さえ悪くなりそうなので、とりあえず挨拶を返しておく。
「長門さんがまだとは珍しいですね」
「ああ」
 長門はまだだし、ハルヒと朝比奈さんもまだのようだ。別にあの二人は良いんだ。ハルヒが俺達の与り知らぬところで走り回っていること自体は珍しいことじゃ無いし、朝比奈さんは上級生だからな。クラスや学年が違えばホームルームの終了時間が違ったり授業時間が違ったりすることは別におかしなことでもなんでもない。
「やっほー、おまたせーっ!」
 男二人は手持無沙汰では有るものの、さてゲームをするかというほどの時間が経過することもない間にハルヒが到着した。途中で合流したんだろうか、朝比奈さんの手を握っている。朝比奈さんはどこか落ち着かない感じでは有るが、半泣きだったり目一杯困惑していたりってことはない。どうやらここに来るまでにハルヒの悪さに巻き込まれたりはしていないようだ。単に来る途中で出会ったのだろう。
「……あら、有希はまだなのね」
 珍しいことも有るものね、と呟いた後、ハルヒは大股で部室内を突っ切り団長席に座りパソコンを立ち上げた。朝比奈さんのことはその途中で解放している。登場時の勢いからしてそのまま何か始めると思ったんだが、そういうわけじゃないのか。
「ねえ、誰か有希が遅れてきている理由を知らない?」
 俺と朝比奈さんと古泉、その三人がほぼ同時に首を振った。そもそも、この四人の中で放課後以外の時間で長門と接する時間が一番長いのはハルヒなのだ。そのハルヒが知らないことを俺達が知っているわけも無いだろう。古泉や朝比奈さんが長門の動向を察知しているとしたらそれこそ異常事態の発生なんじゃないかという気もするのだが、そういうわけでもなさそうだし。
「ふうん……、まあ良いわ」
 ハルヒが視線をパソコンの画面へと戻す。どうせまたくだらないサイトでも回っているのだろう。せっかく一度しかない高校時代なんだ、もうちょっと生産性のある方へ目を向けたらどうだ。なんて風に思ってみたことも有るのだが、ハルヒがそんな方向に目を向けたらそれこそ何が誕生するか分かったものじゃない。何せ文芸部の文集用の原稿に時間移動に必要な基礎理論なるものを書くような奴だからな、それこそ本気になったらタイムマシンくらい開発しかねない。……それはちょっと、いや、かなり困る。タイムトラベルなんてのは貴重だからこそ意味が有るんだ。ハルヒなんぞがタイムマシンを開発した日には、あっちこっちに飛び回って歴史が破壊されるんじゃないだろうか。
「来ないわねえ……」
「来ないですねえ」
 お茶を渡した時のハルヒの愚痴めいた言葉に対して、ぼわわんと呟く朝比奈さん。どちらもあまり深刻さは無い。ゲームをしている俺と古泉だってそうだ。長門にだって何か有る日は……無い、ことも無いと思う。
 俺の正面で盤面を見つめている古泉なんぞ、長門のことを気にかけている様子すらない。
「気になるなら長門さんのクラスの担任にでも聞いてきましょうか?」
「ううん、良いわ。そこまでするほどじゃ無いと思うし」
 駒を置き視線を持ち上げた古泉の問いかけに対して、ハルヒは軽く首を振った。理由なき不在だというのに寛大なことだな。最も、長門はどの団員よりも、それこそ団長さえも上回るほどの出席率なんだ。たまの無断欠席程度ではSOS団団員としての経歴に傷がつくことも無いだろう。そんな経歴、何の役にも立ちそうに無いが。
 結局その日は長門は現れず、俺達は四人で帰宅した。
 何となく釈然としないものは残ったが仕方有るまい。後で電話でもしてみれば良いさ。


 と、そんな風に思って帰宅して飯も食い風呂にも入り一段落してから長門の家に電話をかけてみたのだが、二十回以上コールが鳴っても長門が出てくることは無かった。何だ何だ、長門は不在なのか? 長門が家に居ないなんて……嫌な予感が高まるが、俺にとってその手の兆候が有った時に真っ先に相談を持ちかけるのは長門なので、長門が捕まらなきゃどうしようもない。
 いや、別に古泉や朝比奈さんに相談しても……朝比奈さんはともかく古泉なら役に立つ場合も無いわけじゃない。だが事態が緊急性の有るものかどうかさえ分からないのに相談を持ちかけるってのもな。
 そんな風に子機を手にしたまま迷っていたら、電話のベルが鳴った。非通知では有ったが俺は反射的にその通話ボタンを押した。もしかしたら長門じゃあ、なんて風な期待が無かったとは言わないが、電話に出たのは別の人物だった。
「やあキョン、昨日ぶりだね」
「……なんだ、佐々木か」
「おや、どうやら僕は君の意中の人物では無かったようだね」
 意味の分からんことを言うなって。あ、いや、こっちがまるで期待が外れたかのような反応だったことは確かだな。そこは謝ろう。
「そちらで何か有ったのかい? ああ、別に話したくなければいいんだ。ところで、僕の話を聞く気は有るかい? 昨日の件だよ」
「朝倉のことか」
「そう、確か朝倉涼子さんと言ったね。今日も彼女に会ったよ」
 佐々木と朝倉は同じ病院に入院しているんだ。会ったこと自体は別におかしなことでもなんでもない。問題は、そこで何が有ったかって方だ。単に通りがかったのと話しかけたのとじゃ全然意味が違う。俺の考えていることを察したのか、電話の向こうの佐々木がくすりと笑った。
「話したのか?」
「うん、話しかけてみたよ。昨日と違って落ち着いていたからね」
 マジで話しかけたのか。どうせならもっと遠まわしな手段を……と思ったが、単なる入院患者その一の立場でしかない佐々木に情報を漁ったりカルテを盗んだり、なんてことが出来るわけもない。当人に話しかけてみるってのは、そんな佐々木にとって一番妥当かつ有効な手段だったのだろう。そもそも俺は朝倉が危険な存在かもしれないってことを伝えてすら居ないんだ。そんな状況で、当人に気づかれないように、なんてことを望む方が間違いというものだろう。
「……どうだった?」
「とりあえず彼女が君の知っている朝倉涼子さん本人であることは間違いないみたいだよ。君の名前や通っている学校のことを口にしてみたが、彼女も君のことを知っているようだったしね」
 ……。
 …………どういうことだ?
 昨日の時点で朝倉は俺のことに気づいて居なかった。俺が朝倉の顔を見たんだ。朝倉だって俺の顔を見ているだろうに。
「昨日は興奮していて気付かなかったそうだ。僕に言われて、ああそういえば似ていたかも、と言っていたよ。後、ぶつかって悪かったと言っていたね。君に謝っておいてほしいと伝言を頼まれたよ」
 そんな伝言は要らん。第一俺はそれ以上のことを二度もされているんだ。そんな何の実害も発生してないようなことだけ謝罪されたところで今更朝倉に対する態度や反応が変わったりはしない。入院患者である朝倉涼子が俺の知っている朝倉涼子本人なのかどうかという疑問は有るが、少なくとも無関係ってことは無いだろう。例えば消えちまった朝倉涼子と、あの改変された世界で会った朝倉は……まあ、全くの別人ってわけでは無かったと思う。あれはあれで、作った人間なりに『朝倉涼子』という存在に対して思うところが有ったのからこその存在だ。多分、あの時と同程度の繋がりは有るんじゃないか? そう考えると、長門に連絡が取れないってのが気がかりでは有るんだ……。
「そうそう、彼女は君に会いたがっていたよ」
「え……なん、だって?」
 ……朝倉が? 俺に? どういうことだ。意味が分からん。朝倉が俺に会いたがる理由って一体なんだ。会ってどうする。俺は別に朝倉に積極的に会いたいわけじゃない。正体を知りたいとは思っているが、出来るなら顔を合わせること無くやり過ごしたい。
「さあ、その辺の事情は本人に聞いてくれないか。僕はただ伝言を頼まれただけだからね。きっと詳しい事情は自ら告げたいということなのではないかな。正確な情報の伝達のためには間に挟む人間は少ない方が良い。そういう意味では彼女の判断はとても賢明だと思うよ」
 佐々木の発言は少々遠まわしと言うか、芝居がかった感じでは有ったが、佐々木の言う通り、間に誰かを挟むってのはあんまり良い伝達手段じゃない。情報が歪む可能性もあるし……あるいは、単に他の人に言いたくないことなのかも知れない。朝倉が佐々木に、いや、他の人間に言わずに俺に伝えたいことって一体なんだよ。ますます意味が分からない。まさかまたナイフを振り回してくるつもりか? いや、まさかそんな……ダメだな、有るとも無いとも言い難い。朝倉が俺のことを覚えているらしいというのは分かったが、それだけだ。
 結局殆ど進展も無いまま、俺は朝倉に会うかどうかという選択肢を突き付けられる羽目になってしまった。
「明日辺りどうかな?」
「明日? ……急だな」
 いきなり予定を入れるのはハルヒだけで充分だ。佐々木はそんなにせっかちな方ではないと思っていたんだが。いや、佐々木じゃない。朝倉の都合か?
「僕は明後日で退院だと告げたら、じゃあ明日が良いと言われたんだ。どうやら彼女は自分ひとりで君に会う勇気が無いようだね。可愛らしいことじゃないか」
 ……勇気、なあ。
 会いたいのに勇気が無い、だなんて、あいつには似合わなさすぎる。どう考えても登場する必要さえない場面なのにいきなり登場してナイフを振り回すくらいの方があいつには似合っている。いや、実際にそれをやられた身としては、そんな場面は繰り返されて欲しくないんだが。
「どうだろう。別に、君が嫌だということなら断っても構わないと思うんだが」
「そうだな……」
 朝倉が俺に会いたがっている。
 不穏な気配はするが一人じゃ会いたくないって思っているってことは、俺がここで断ったらそれ以降に俺が一人で会いに行っても朝倉に会える可能性は低いってことになる。こっちは向こうの病室を知っているが、向こうは宇宙人。俺から逃げることなんて赤子の手をひねるより簡単なことだろう。
 だからこそ、俺が一人で来ると踏んで待ち構えているのかも知れないが……ええい、考えてもさっぱり分からん。そもそも朝倉が一体何のためにここに居るのかすら分からないんだ。今日は長門には会って無いがまさかあの時みたいに世界が改変されたというわけじゃないだろう。だったら朝倉が俺を再び殺しに、という可能性は結構低いんじゃないか? 情報統合思念体だってバカじゃない。そう何度も俺を消そうとして暴走する奴が現れるとも思えないし、例えそういう目的が有ったとしても、かつて消えた奴と同じ姿をした奴に同じことをさせるとも思えない。本当に俺に危害を加えるつもりなら、もっと有効な手段を取るだろう。
 だからこの朝倉は安全だ、なんて言えるわけじゃないんだが、警戒ばかりでは何も始まらないことは確かなようだ。出来れば朝倉に会う前に長門と連絡を取りたかったんだが、それについては明日学校で会ってから話をするしかない。なんだか順番が入れ違ってしまった気がするが、この際仕方がない。
「分かった、明日行く」
「了解、彼女にもそう伝えておくよ」
 時間の打ち合わせを済まし、おやすみの挨拶を交わして電話を切る。面会時間の都合上団活を休むことになりそうだが、友人の見舞いだと言えばハルヒも早退を許可してくれるだろう。まかり間違って許可が下りなかったらその時はその時だ。


 目下面倒な事態に直面しているんじゃないかと思い始めていたが、その日はその前日と同じく特に引き摺ることも無く眠りに落ちることが出来た。自分の図太さというか、眠気には勝てない人間の身体の構造に感謝したいところだ。世の中には脳の神経に異常をきたして眠ることが出来ない上に眠らずとも生きていけることになった人もいるようだが、俺はそんな状態にはなりたくない。睡眠は人生における潤いの一つだ。
「ちょっとキョン、あんた聞いた。有希、昨日から学校に来てないんだって」
「……は?」
 眠気を残したままの俺の頭を一気に覚醒まで促したのは、朝のホームルーム前に発せられたハルヒの第一声だった。俺が教室に入るなり俺の姿を見つけたハルヒが小走りに俺のところまでやってきて、一体なんだと思っていたら、いきなりこの台詞を口にしたのだ。
 長門が学校に来てない? それはどういうことだ?
「無断欠席か?」
「ううん、家の事情でって話だったわ」
「家の……」
 長門の、家の事情? 一体なんだ。長門に家の……今更説明するまでもないが、長門には所謂家族や実家なんてものは存在しない。長門に居るのは親玉である情報統合思念体ってのと、その親玉連中が作り出した同類、朝倉涼子や喜緑さんのような存在だけだ。そんな長門が家の事情で欠席だと? 風邪で休むってのより疑わしいぞ。
「六組の担任に聞いたのか?」
「ううん、クラスの子が言ってたのよ。さっき有希の様子が気になって会いに行ってみたらそう説明されたわ」
 なるほど、そういうことか。
 長門のクラスメイトがハルヒに嘘を吐いているということも無いだろうし長門の担任が六組の生徒達に何か隠しているってことも無いだろう。隠されていることが有るとしたらもっと前の段階だ。長門が自主的にそうしたのか長門以外の誰かがそうしたのかしらないが、これは由々しき事態だ。朝倉の登場と長門の欠席、これが無関係ってことは先ず有り得ない。
「風邪だったらお見舞いに行くけど、家庭の事情なら仕方ないわね」
 ハルヒは若干興奮していたようだが、俺に話したら多少は落ち着いたようだ。席に戻ったハルヒが、すとん、と腰を下ろしてから溜め息を吐いた。俺も自分の席に腰をおろす。
 ちらりと盗み見るような視線は、あんた何とかしなさいよ、という意味合いを含んでいるようだった。そういやハルヒの中での俺は、長門から家庭の事情についての相談を受けたことが有るって立場になっているんだよな。あのときのことは全部夢の中での出来事として処理されている気もするのだが……どうなんだろう、その辺りのことは微妙なままのような気がする。別に無理に結論を出さなきゃいけないようなことじゃないが、この半端な状態だと少々厄介だ。下手なことは言えない。
「あんたも何も知らないの?」
「ああ、悪いが何も聞いて無いぞ」
 嘗て相談された立場ってことになっているかも知れないとはいえ、今回の件については何も聞いて無いのだから仕方が無い。ここで妙なことを言って嘘の上塗りをして後で面倒なことになっても困る。ハルヒ相手に言い訳を並べるのは良いんだが、そのことに構っている余裕はなさそうだからな。今は朝倉の登場と長門の不在の方が気がかりだ。
「ふうん……まあ、良いわ」
 何がどう良いのか分からないが、これ以上の追及が無い方が助かるのであえて触れないようにしておこう。さて長門はどこへ行ったんだ? 手掛かりはどこにある? ……朝倉がその手掛かりなんだろうか。
 昼休みに手掛かりになるかと思って事情を知っていそうな同級生こと喜緑江美里さんの居るはずの教室に向かってみたが、そちらも不在だった。こちらは欠席ではなく単に教室に居ないというだけのことだったが俺はこの時点で喜緑さんを探すのを諦めた。校内で接点のない他学年の生徒を探すのは楽じゃないし、そもそも喜緑さんが素直に事情を伝えてくれるとも思えない。会う機会が有ったらその時に聞いてみるしかない。
「あ、キョンくん」
 目的の人物がいないなら長居は無用。他学年の教室が有る場所ってのは何でこんなに居心地が悪いんだろうかと思って踵を返そうとしたところ、背後から麗しい声が降臨なさった。誰あろう朝比奈みくるさんその人である。
「こんにちは、朝比奈さん」
「こんにちは。キョンくんがここに居るなんて珍しいですね、何か有ったんですか?」
「ああ、ちょっと個人的な用事が有ったんで人を探しに来たんですが、教室に居なかったんで帰るところだったんです」
 朝比奈さんは喜緑さんの正体を知らないようだから詳細を知らせることは出来ない。しかし全くの嘘を吐くのも疑わしいと思ったので、俺は真実の一部を伝えることにした。俺に朝比奈さんの知らない三年生の知り合いがいたところで何ら不思議なことは無いだろう。古泉や長門だったら俺の人間関係の全てを知っていてもおかしくないが、朝比奈さんに限ってそれは無い。
「そうなんですかぁ」
「また後で探してみますよ。学年が違うとなかなか会いづらいんですけどね」
「ああ、そうですね」
「そうそう。長門のことなんですが、何でも家庭の事情で欠席だってことらしいですが、朝比奈さんは何か知りませんか?」
 朝比奈さんが今回の件に関わっている可能性? そんなのゼロに等しいんじゃないかという気もしたが、一応訊いておかないと。それに、無関係だとしても事情は伝えておいた方が良い。ハルヒに真実を伝えることは出来ないが、朝比奈さんに関してはそういうわけにはいかない。長門の不在が何らかの形で朝比奈さんに関係しているかもしれないし、伝えたことが後々何かの役に立つのかも知れない。
「えっ……長門さんが? 居ないんですか?」
「ええ、ハルヒが長門のクラスメイトに聞いたって言ってました」
「そうなんだ……。ううん、ごめんなさい。あたしは何も知らないです」
 そんな申し訳なさそうな顔をしなくても良いですよ。
 朝比奈さんが何も知らないというのは想定内だ。知らないなら知らないで良いんだ。俺は朝比奈さんに、何か有ったら情報を交換しましょう、とだけ伝えて三年生の教室が有るあたりを後にした。


 結局のところ事態は何も進展していないわけだが、俺は放課後ハルヒの許可を得て学校を後にすることにした。長門に全く連絡を取らない状態で朝倉に会いに行くのは不安でもあったが、一応約束したからな。ハルヒの方も、長門が居ない状態で団活動をするのは気が進まないらしいのか、俺が見舞いに行く用事があると切り出したらあっさりと解散を告げやがった。機嫌があまりよろしくないのは確かだが、古泉や朝比奈さんの状態はまだ困惑レベルだ。ということは、未来人や超能力者の方に影響が出るほど面倒な状況にはなってないってことだろう。
「長門さんが不在とは……、原因が気がかりですね」
「まあな」
 解散とは言っても坂を下りるまでの道筋は一緒だ。ハルヒが朝比奈さんをいじりながら下りていくその後ろを古泉と共に歩いていく。一応古泉にも長門の不在については話した。何か有ったとして役に立つかどうかわからない人材では有るが、役に立つ可能性が全く無いわけじゃない。とはいえ朝倉のこと話してないんだが。
 朝比奈さんも古泉も、朝倉と直接の面識は無い。朝倉の登場と長門の不在に関連性が無いということは無いだろうが、別に大ごとになると決まったわけでもないんだ。朝倉の件については触れなくても良いだろう。それに、古泉だったら俺が話さなくとも別のルートから情報を仕入れている可能性だって有る。何せあそこは古泉が機関絡みのコネを使って俺を入院させた病院だ。
「何事もないと良いですね」
「ああ」
 何事も、そう、何事もなければいいんだ。
 長門の不在の理由がどうであれ、結果として何事もなければそれで良いんだ。結果、とやらに至るまでどんな過程が有るのかっていうのも重要では有るが……あれこれ気にしても仕方が無いな。味方も情報も殆どないが、とりあえずは目の前に有ることをこなさないといけないのだろう。
 ここで朝倉から逃げていたところで何も始まらないさ。もしかしたら長門の不在の理由を知ることが出来るかも知れない。朝倉が俺に事情をべらべら話すところというのも想像出来ないが、何かしらの話は出来るだろう。一応、向こうから会いたがっているってことだったし。
 何時もの通りというには一人足りない光景を眺めつつ、俺は口から出そうになった溜め息をそっと心の中に留めた。


 気がかりなことを抱えつつも俺は電車に乗り佐々木と朝倉涼子が入院している私立病院へと向かった。何でこの状況で朝倉に会いに、という気持ちが無いわけじゃ無いが、会って状況が好転することを望むしかないだろう。好転以前に果たして悪くなっているかどうかさえ定かじゃない状況だが、長門と連絡が取れないってのはそれだけで不安になるもんだ。今のところ長門以外は何時も通りと言って差し支えないのだが、どこで何がひっくり返るか分かったものじゃない。朝比奈さんや古泉が以前に言っていた気もするが、この世ってのは結構もろいもので、その気になれば薄皮一枚破るよりも簡単に変えることが出来る――そういう存在もいるわけだ。俺は違うけれども、俺の周りには心当たりが多すぎる。長門や朝倉もその心当たりとやらに繋がっている一人であることに間違いは無い。
 不穏な気持ちを抱えつつ到着した病院の建物自体は一昨日見たものと全く同じで、特に変わった部分を発見することは出来なかった。うっかり空間が切り取られていたりここから先が異世界に繋がってます、なんてことが無いと良いんだが、困ったことに俺にはそんな異常事態を発見するような能力が無い。しまった、事情を話した上で朝比奈さんか古泉を連れてくるべきだっただろうか。まあ、どちらも宇宙人相手に役に立つとは到底思えないのだが。それに、誰かを巻き込まないで済むなら巻き込まないままで終わらせたいんだ。
「やあキョン、やっと来たね」
 日曜と同じ病室に居た佐々木の姿からは特に変わったところは感じられなかった。入院中だからって理由でパジャマを着ていることを除けば、春先に有った頃と大差ない。佐々木の姿を見て正直ほっとした。まかり間違って朝倉が佐々木を人質に取っていたりしたら俺には対処のしようもない。朝倉に人質なんて発想が有るかどうかって疑問も有るんだが。
「元気そうだな」
「明日には退院だからね。もう健康体と変わらないよ」
 それもそうか。佐々木の答えに納得しつつ病室内を見渡してみる。特におかしなところはない、と思う。
「じゃあ、朝倉さんに会いに行こうか。彼女は今日は午前の検査だけだから午後なら何時でも良いそうだ」
 佐々木が軽やかな声で朝倉の現状を告げ、俺はその後に続く。検査、と言っても一体何の検査をしているのやら。何せ相手は朝倉涼子、宇宙人だ。長門が健康診断で引っかかったという話は聞かないが、詳しく調べたら通常人類と違うところが有るかもしれない。そもそも、宇宙人に病院が必要とは思えない。
 朝倉の入院理由? そんなの知るか。だが、会いに行く約束をしたからには会いに行くしかないだろう。ここにきて引き下がれるわけもない。佐々木の手前も有るしな。
 ごちゃごちゃと考えながらも震えそうになる足を叱咤し、朝倉涼子、という名前の書かれたプレートの有る病室の扉の前に立つ。
「朝倉さん、わたしです。佐々木です」
 女友達と話すときと同じような口調で呼びかけた佐々木の声に、はーい、という、少し間延びした、しかし明るい声での返事が返ってくる。ドアの向こうだが、この声は朝倉涼子の物で間違いない。あんなインパクトの強いやつを忘れられるもんか。いや、俺としてはあのまま記憶の底に沈めてしまいたいところだったのだが。
 佐々木に続き、病室の中へと入る。
「やあ、どうもこんにちは」
「こんにちは、佐々木さん。……キョンくんも」
 にこにこと笑いながら俺を見上げてくる朝倉涼子は、確かに、俺の知っている朝倉涼子と同じ姿をしていた。


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