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スウィート・ドリーマー 第三章



 朝倉と実際に話をし古泉に現状報告と相談をしたものの、これで事態が進展したかと言えば答えはノーだろう。相変わらず俺の手の中には確かなものなど何もなく、何だか知らないが勢いで決定してしまった事項を続ける意思が有るってだけだ。
 おまけに長門はまだ学校に来ていない。ハルヒは、早く帰ってこないかしら、などと言っているが、ことがことなので騒ぎ立てる気は無いらしい。まあ、家庭の事情ばかりはどうにもならないってことをちゃんと分かっているのだろう。いざとなったら無理やり連れ戻すくらいのことをしていただきたいところだが、今はまだその時じゃない。今は……時間的なものに関しても疑問だらけでは有るのだが、俺にはどうしようもないのだから仕方ないじゃないか。古泉の方も一応調べてはくれるようだが、期待しないでください、とのことだったのであまり期待はしていない。個人的に助けてくれればそれで充分、というわけではないが、こういうときはあまり期待をしすぎちゃいけない。誰が相手だとしても。
 長門不在のせいもあってか文芸部室内のテンションは若干低めだったが、特におかしなこともなく時間が過ぎていった。長門が居ないことを気にかけてないというこの状況がまずいんだろうか、とも思うんだが、こればかりは俺にはどうしようもない。水曜木曜と無事に過ぎたため、金曜日の放課後、俺はハルヒに了解を取ってから団活動を休ませてもらうことにした。見舞いだ、嘘は吐いてない。
「こんにちは、キョンくん」
 佐々木はすでに退院してしまっているので朝倉の病室に直行である。なんでこいつに会うために病院に来ているのだろう。若干どころではない疑問が有るのだがそれについては蓋をさせていただこう。この朝倉は自分の正体を知らないのだ。だったら、知らないものとして扱ってやった方が良いんだ。
「よう、元気か?」
「元気って、それ、入院している人に言う言葉じゃ無いよ」
「まあそう言うなって」
 この間も思ったが朝倉はあまり病人には見えない。元気溌剌パワー全開という感じでも無いが、見たところ普通だ。顔色が悪いわけでも思いきり痩せているわけでもない。こいつの正体が何であろうと入院している以上何らかの理由付けが有ると思うんだが一体何が理由なんだ? 佐々木みたいに、病状は落ち着いたけれども大事を取って、というわけでもなさそうだし。
「たまに息が苦しくなるけど今は平気かな。あ、明日は外出許可が取れたよ」
「そっか、良かったな」
 良かったも何も一緒に出かけることになるのは俺なわけだが。朝倉はやたらと嬉しそうな顔をしているが、本当に俺なんかと居て楽しいのか? 俺なんて顔は普通だし別に気が利いているわけでもないし何か目立ったところが有るわけでも、ってそんな風に考えるのもどうかと思うが、何でこんなことになっているんだろうね。誰かが何らかの思惑によって朝倉に偽の恋心を植え付けたんだろうが、なんとなく不条理な気がする。
 偽物でもなんでも、恋をするならもっと良い男の方が良かったんじゃないか。
「楽しみだなあ。どこへ行こっか?」
「俺はどこでも良いんだが」
「もう、キョンくんも一緒に考えてよ」
 そう言われても。
 悪いが俺は女子と付き合ったことなど無いので女の子が喜びそうな場所などさっぱり分からん。やはりここは遊園地や水族館と言った定番コースがいいのだろうか。そういや、朝倉の趣味とか趣向ってのはどうなっているんだろう。
「行きたいところとか有るか?」
「うーん、特には無いかなあ」
 双方とも行きたいところがないってのは一番ダメなパターンだ。だらだらとした目的の無い時間を過ごすのは関係が成熟してからの方が良い。……まあ、古泉からの受け売りではあるが、俺としても予定を組まずに手持ち無沙汰な時間が増えてしまうのは本意じゃない。何でそう思うかって? そりゃあ、仮にも『恋人』の肩書を持つ相手と出かけるんだ。それなりに楽しい時間を過ごしたいじゃないか。朝倉と付き合うことになったというこの状況からして無茶苦茶も良いところだし疑問も不安も相変わらず山積みだが、今のところ朝倉は俺のことが好きな普通の女の子その一に過ぎない。それに合わせて俺が楽しもうとして何が悪い。俺が楽しんでいる方が朝倉にとってもプラスだろう。
「そうだな、水族館にでも行ってみるか?」
 遊園地も嫌いじゃないが体力的・金銭的な都合を考えたらこっちの方が良いだろう。そもそも遊園地なんてのは病人を連れていくところじゃない。ま、単なる思いつきでは有るのだが、そう悪い選択肢ではないと思う。少なくとも時間を潰すのに困ることは無いだろうし、デートの場所としても順当だ。
「あ、うん、良いね」
 朝倉が反対しなかったため、あっさりとメインの場所は決まった。
 一日丸々水族館で過ごすと言うのは無理があるが、残りの時間については水族館の近場で飯を食うなり服や雑貨を見るなりして消費すれば良いだろう。目的が無いのも良くないがガチガチなのもあまりよろしくない。何せ相手は病人だ。ゆっくり時間を過ごすくらいでちょうどいいのさ。


 明けて土曜日。俺は朝倉と共に電車に乗り込み目的地である水族館の近場の駅へ向かっていた。幸いなことに集合場所に選んだ私立病院の最寄駅で知り合いに会うことは無かった。朝倉はどう思っているか知らないが、俺としてはあまり見知った人間に見られたく無いのだ。今のところ朝倉と付き合っている(ということになっている)ことを古泉以外には伝えてないし、何より朝倉の立ち位置が不明瞭過ぎる。
 古泉に調べてもらった範囲だとどうも朝倉の言った通りカナダから親の都合で帰ってきたということになっているらしいが、その辺の情報の改竄の範囲は言わば長門や喜緑さんと同レベルのものらしい。要するに、素人やお役人は騙せても『機関』を始めとした同じような世界に片足以上を突っ込んでいる連中の目は誤魔化せないってことだ。それでいて朝倉の存在がスルーされかけていたというのも妙な話だが、古泉いわく「僕達に直接関係ないと思われていたからでしょう」とのことだった。古泉の話や『機関』の連中の話がどこまで信用出来るかと言われるとそれもまた微妙なところなのだが、少なくとも朝倉が自分で話す身の上話よりはまだ信頼出来る。偽りの立場、偽りの記憶、偽りの病気。朝倉を彩る何もかもが嘘だらけだが、その理由はまだ分からない。古泉の方も情報を集めているらしいのだが状況はあまり芳しくないらしい。正体はほぼ分かっても目的が不明ってのは気持ち悪いものが有る。
「水族館かあ、楽しみだなあ」
 俺の隣でちょこんと座っている朝倉はふわりとしたワンピースの上に小さなボレロという、なかなかに可愛らしい出で立ちだった。こんな姿を見ているとナイフを振り回す凶悪な宇宙人という側面を忘れそうになってしまいそうだ。いや、忘れたわけじゃない。この朝倉にあの時の記憶は無いようだが、だからといって全くの別人ってわけじゃないだろう。今の朝倉の動作や仕草は俺の知っている委員長としての朝倉の面影を強く残している。だからどう、というわけでもないのだが……。
 駅から歩いて数分のところにある水族館は土曜日ということも有って少し混んでいたが、人が多くて歩けないとか水槽の中が見られないというほどじゃなかった。ほどほどに人がいるのは良いことだ。あんまり静かすぎても寂しいものがある。水族館なんて子供の頃に何度も来ているがこの水族館に来たのは初めてだし、そもそも前に水族館に行った時のことなんて既に記憶の彼方だ。知識を身につけてないことを棚に上げるつもりは無いが見るもの全てが目新しく感じるってのは悪いもんじゃない。
「うわあ……」
 さて朝倉はと言えば、海に関する知識の書かれたプレートをじっくり読んでいたり魚の流れを視線を追っていたりと、どうやら俺以上に楽しんでいるようだ。あんまりゆっくり歩いているので時々子供に追い抜かれたりぶつかったりしそうになっているんだが。
 って、本当にぶつかっているじゃないか!
「おい、転ぶぞ」
「あっ……ご、ごめんね、ありがとう」
 よろめきかけたところを慌てて支えてやると、朝倉はぱっと離れてからぺこりと頭を下げた。ううむ、らしくないとは言わんが、なんとも形容し難い出来事としか言いようがない。俺の朝倉に関する知識の中に『ドジッ娘』とか『天然』と言った属性は無いんだが。
「お前、水族館に来たこととか無いのか?」
「ううん……どうかなあ。小さい頃に来たことは有るかもしれないけど、ほとんど忘れちゃったみたい」
 果たしてこの朝倉に子供時代なんてものが有ったかどうか知らないが、忘れているというのなら忘れているということにしておこう。ここで野暮なツッコミをしても空振りに終わるかその逆に面倒なことを引き起こす結果にしかならないからだ。深く追求しない方が身のためなんだろう。何だか色んな目を瞑りすぎている気がするが水族館は思っていたよりも面白いところのようだし朝倉も楽しんでいるようだから、これで良いってことにさせていただきたい。気がかりなことは幾つも有るが、そういうことを常に考えていたら事態が進展する前に俺が潰れちまう。
「みんなどんどん先に行っちゃうね。もっとゆっくり楽しめばいいのに」
 時間制限なんて無いのにね、と言って笑う朝倉は、世界中の全てが宝石箱だと思っている子供のようだった。なんでこんな顔が出来るんだろうね? 何となく目を合わせ辛くて思わず顔をそらしてしまった。
「……キョンくん?」
「あー……何でも無い。そうだ、イルカショーでも見ないか? こっちはまた来ればいいんだし」
「あ、うん、そうだね」
 朝倉がひょいと水槽を離れ、俺の後ろを着いて来る。やがて追い越して道に迷った俺の前に立ち、こっち、などと言って俺の手を引いていく辺りは、やはり朝倉らしいと言うべきなんだろうか。
 二人で座れる場所を確保して遠目から眺めるイルカショーは悪くなかったが、もう一度来たいかどうかと問われると疑問だ。ああいうのは子供の方が楽しめるんじゃないだろうか。
 朝倉は、また来ようね、などと言っているが、俺としてはもっと別のところに行きたいところだな。……朝倉と、という前提を置いた上でそんなことを考えるなんて、俺もどうにかしてる。
 その後もあらゆる水槽の前に居座ろうとする朝倉の後ろから水槽の中を眺め続けていたら、思っていたよりも時間を消費してしまった。水槽の中は一秒ごとに姿を変えて見る者を飽きさせないし、朝倉が話す様子を見ているのも悪いもんじゃ無かったので時間の経過は殆ど気にならなかったが、既にお昼の時間は過ぎている。どうりで腹が減っているわけだ。
「キョンくんってこういうとき急かさないんだね」
「同じ金払っているんだ。じっくり見た方が良いだろ」
「ああ、そうだね」
 なんだその笑い方は。くそ、思わず可愛いなあ、なんて思いそうになってしまったじゃないか。確かに朝倉の容姿は、世間一般的に可愛いと呼ばれる範疇に入れても差し支えないと思うのだが……素直に可愛いと思うと何かに負けたような気分になってしまうのは俺が気負い過ぎているからだろうか。
「ご飯どうする?」
「どこでも良い。レストラン街で選べばいいだろ」
「……あ、うん」
 斜め後ろから着いて来るのは良いんだが、上目使いでずっと見つめるのはやめてくれないか? 後ろに目がついているわけじゃないがこれだけ近ければどういう風に見られているかくらい気配で分かるんだぜ。もどかしいというか居心地が悪いというか……あー、やりづらいっ。
「えっ」
「行くぞっ」
 手を握れば後ろじゃなく隣になる。
「あ、あの……」
「いやか?」
「ううん……嬉しい、かな」
「……そうか」
 嬉しいとか言われても困るんだが。俺は別に朝倉を喜ばせるためにやったわけじゃなく、斜め後ろよりは隣の方がマシだと思ったからで……ああ、そうか、それは、今の朝倉にとっては『嬉しいこと』なのか。そうか、そうだよな。何の因果か知らないが、朝倉は俺のことが好き、ということになっているんだし。
「キョンくん、どうしたの?」
「……行くぞ」
 俺は朝倉から視線をそらすと、その手を引いて再び歩き始めた。


 水族館の後は飯を食い適当にぶらぶらとショッピングという、これ以上無いくらいにオーソドックス、基本の基としか言いようがないデートの時間は、時々気になることは有ったものの概ね俺の想像を逸脱することも無く過ぎていっている。
 慣れない状況だからと言ってバカなことを引き起こすほど緊張しているわけじゃなかったわけだが、それは朝倉の方も同じだったのだろう。楽しんでいる割にどこか地に足がついてないように見えるのは浮かれ過ぎているからだ。何がそんなに楽しいのか、なんてところにツッコミを入れる必要は無いだろう。好きな人と一緒なら楽しい、そういうもんだ。俺にはその辺の感覚がイマイチ理解できないのだが、頭から否定してかかりたいというわけじゃないし、そういう事象が存在しているってこと自体は受け入れているつもりだ。
「えっと……こっちだったかな」
 行きたい雑貨屋さんが有るの、と言って朝倉が大通りから外れた道に踏み込んだ時、俺は何も疑問に思わなかった。行きたいのか見せたいのか、そのどちらだろうか、なんてことを考えた程度だ。朝倉の好みの物を見せられたところで別に嬉しくもなんともないと思うのだが、付き合ってやれないことはない。しかしこんな薄暗い通りに雑貨屋なんてあるのか? 一つ前の角を曲がってからというもの同年代らしい姿にすれ違うこともないし、若者相手らしい店も殆ど見当たらない。俺達とはかすりもしない客層を相手にしてそうな飲食店と、どんな会社が入っているかも分からない雑居ビルが立ち並ぶ界隈。どう考えても道を間違えたとしか思えない。
「こっちかなあ……」
 朝倉がふらふらと歩きつつ壁に手を置いたかと思うと、パッと手を離した。なんだ、と思ったのは一瞬で、俺もまたその壁から目を逸らしてしまった。
 あー、その、なんだ……。まあ、こういう場所が有っても不思議じゃないよな。チラリと横目で壁に貼り付けられた少し古びた看板を眺めてみる。別に罰が当たるようなものでも無いし見ると目が汚れる、というようなものでも無いのだが、正面から見るのは若干ためらいがある。大して気にしない奴の方が多いと思うしこれが一人の時なら俺もスルーしていたのだろうが、直前の朝倉の反応を見てしまった後では全く気にしないというわけにはいかないだろう。そこは、その……ご休憩だの宿泊だの書いてある、所謂ラブホテルというやつだった。
 幸いだったのはこの界隈に来ているのを知り合いに見られてないことだな。見られていたら言い訳のしようもない。
「えっと……あ、あの、道、間違えちゃったみたい。もどろっか」
「あ、ああ」
 二人揃ってギクシャクしすぎだ。別に入りに来たんじゃないんだ、恥ずかしがる必要なんて無いじゃないか。入りに来たんじゃ……いかん、妙なことを考えそうになった。考えるな考えるな考えるな! 朝倉と一緒に来たのは自分の言葉に対して責任を取ろうと思ったからで、それ以上でもそれ以下でも無いんだ。まして朝倉と、だなんて……ええい、冷静になれ、俺!!
 浮かび上がりそうになった妄想を振り払って朝倉の手を握って大通りへと戻る。こういう時のお約束としてチンピラにでも絡まれるかと思ったんだが、幸いにしてそんな展開が待っていることも無く、俺達は無事賑やかな場所に戻ることが出来た。ただ、ほっとした途端どちらともなく手を離してしまった。
 気まずい……。
 別に何か悪いことをしたわけじゃないのだが、悪戯をして叱られるその少し前みたいな気分にさせられる。だがここで叱ってくるのは朝倉の役目じゃない。朝倉も俺と似たような状態なんだろう。
「あの……ごめんね、キョンくん」
「何でお前が謝るんだよ」
「え、その、何でって言われても……」
「別にお前は悪くない」
 俺が悪いわけでも無いし、そもそも誰かが悪いことをしたわけじゃない。朝倉があんな場所で動揺するというのは予想外だったが、まあ、そういうことも有るのだろう。そもそも俺は朝倉のキャラクターについて詳しいわけじゃないんだ。朝倉に俺の知らなかった部分が有ったところでおかしなことなど一つもない。長門とは大分タイプが違うんだが、妙に初というか世間慣れしてなさそうな辺りは長門に少し似ている気がする。
「そろそろ帰るか」
「あ……、うん」
 外出許可はもらっているが門限を破ったら次の外出許可がもらえなくなってしまう。今日一日なんともなかったがこれでも朝倉は一応病人ってことになっている。本人にだってその自覚は有るのだろう。俺はもう一度手をつなぎなおし、駅に向かって歩き出した。


 ――朝倉とのデートという、つまらなくは無いもののはっきりと楽しかったとは言い難い一日が過ぎたその翌日の夕方、俺は一人ぼんやりと自室で過ごしていた。本当は日曜はSOS団で出かける用事が入っていたのだがハルヒがいきなりキャンセルしたのだ。珍しいことも有るものだ、と思ったが、あいつにはあいつなりの事情が有るのだろう。深く追求はしないでおこう。せいぜい、これが次の厄介事への準備期間でないことを祈る程度だ。
「一週間か……」
 朝倉と再会してこれで一週間だ。長門が居なくなってから、という風に言い換えることも出来るんだが、どういう言葉を用いようと周囲の状況が変わるわけじゃないんだ。朝倉が現れた理由は未だによく分からないし、長門の件に関しても手掛かりはない。あまり焦っていないのはそれ以外の懸念事項が無いからだろうか。朝倉が居て長門が居ないというだけでも大事件のような気がするのだが、それ以外の事件性がさっぱり見当たらないというあいまいな状態が俺の危機感を鈍らせるのかも知れない。
「これで良いのかよ」
 良いわけがない、と思うのだが、困ったことに俺はこの状態の解決方法を知らなかったし、そもそも何が問題なのかという点についてさえ把握し切れていなかった。特定の人物が居る・居ないということにどれほどの異常性・事件性が有るというのだろう。長門は大切な仲間だし、出来るなら部室に居て欲しいと思うのだが、どういうわけか長門がこのまま消えてしまうのではないかというような危機感は無かった。あいつは遠からず帰って来ると、何となくでは有るがそんな風に思うのだ。消えてしまうとしたら、むしろ朝倉の方が……って、なんでそんな風に思うんだか。単なる直感に近いものを説明することは困難だが、これじゃ自分自身さえも置き去りだ。長門が帰ってきて朝倉が消えてしまう。そこに何の問題が有る? 何の問題も……無い、と、言い切れるんだろうか。
「キョンくん電話だよー」
 かちゃりとドアを開いて妹が入って来たのは俺の思考が同じ場所で三回転目を始めそうになった頃だった。課題をこなしたり溜めていたビデオを見たり久しぶりに一人でゲームをしていたりしたので時刻は既にかなり遅い。幾ら暇な方だったとはいえ俺だって同じことばかり考えていたわけじゃないぜ。妹が来なくたって三回目の途中くらいで飽きていたはずさ。
「誰からだ?」
「朝倉さんだって」
「そっか」
 朝倉か。昨日の今日では有るが電話をしてくること自体は別に不自然でもなんでもない。不安になったとか、声が聞きたいとか。ま、思いつく理由は色々有る。肩書的には『恋人』になるんだし、その点についてあれこれ考える必要はないだろう。
『……こんばんは』
「よう、朝倉か。家電の方に来るとは思わなかったな」
 朝倉には俺の携帯と家電、その両方の番号を教えてある。家の方の電話番号は前から知っていたようだが、それは去年同じクラスだったからだ。
『あ、うん、電話のところまで来たんだけど、携帯の方をメモした紙を忘れてきちゃったから、手帳に書いてあった家の方にかけたんだけど……ダメだったかな?』
「別に良いよ」
 案外そそっかしいところも有るんだなと思っただけだ。何だかこの数日間で朝倉の新しい側面をいくつも見せられている気がする。それが本来の物なのか作られた物なのかは知らないが、どちらにしろ俺の知らなかった朝倉涼子の姿であることに間違いは無い。
『ごめんね、いきなり電話なんてかけちゃって』
「謝ることじゃないだろ。何か用か?」
『ううん、そういうわけじゃないんだけど……ちょっと声が聞きたかったの』
 正しく思った通りの回答である。やれやれ、ここまでテンプレ通りだといっそ関心しそうになってしまうね。その台詞を聞いてときめくものが有ればよかったのだが、生憎俺はこれが誰かの仕組んだものだってことを知っている。朝倉は見た目は可愛いし声だって可愛いが、普通の女の子じゃないんだ。そりゃあ少しくらいぐっと来るものがないわけではないが……それは、大人しくしているハルヒを見て、こいつ見た目だけなら結構美人だよな、と思うのと似たようなもんだ。要するに、それ以外の個所のインパクトの方が強すぎるってこと。
「ああ、そっか」
『キョンくんの声が聞けて嬉しいなあ』
「……別に、俺の声なんて普通だろ?」
『そんなことないよ? あたし、キョンくんの声は良く通る綺麗な声だと思うなあ』
「そうか?」
『うん、そうだよ』
「俺は声よりも何を話しているかの方が重要だと思うんだが」
 綺麗な声は嫌いじゃないが、普通はそういうもんだと思う。正直自分の話している内容についてあまり自信はないというか、人を楽しませる方向で話術を磨こうと思ったことなんて殆ど無いのだ。面白い話が出来た方が良いのかと思う時も有るんだが、そういうのは無理して身につけるもんでも無いだろ。
『うーん、でも……あたしは、好きな人と話せるだけで楽しいな』
「……そうか?」
『うん、あたしはね。他の人はどうかしらないけど』
 何だか言外に俺はどうなのかと聞かれている気がしたが、その点についてはスルーさせていただくことにした。正直どう答えたらいいかさっぱりだ。
「そういや何時頃退院できそうなんだ?」
『ううん、まだ分かんないの。たまに発作が有るから……』
「まあ、早く治ると良いな」
『うん……』
 病気のことを話す朝倉は若干弱気だ。治る病気だって言って無かったか? 俺としては、宇宙人が死ぬような病気にかかるようになったらそれ以前に人類が全滅しているような気がしてならないんだが。
「じゃあ、またな」
『うん、またね。……ちょっと早いけど、おやすみなさい、キョンくん』
 カチャリと受話器を置く音がして通話が切れる。
 俺は大きく溜め息をつき、ベッドの上で大の字に寝そべった。


 朝倉のことも長門のことも気がかりだが、現在朝倉は入院中、長門は学校を休み中。なので学校に居る時にまでこの二人のことを考える必要は無いってことになってしまう。実際学校で朝倉や長門のことを知っている奴は居ないんだろう。例外の心当たりは有るが俺はまだその人を捕まえられていない。一体彼女はどこに居るんだ? いや、そもそも捕まえようとさえしていない俺が言うべきことではないかもしれないんだが。
「もう一週間ね」
「ああ」
 何、と聞く必要すらない。一週間前から長門が学校に来ていない。今のハルヒにとってこれ以上の重要事項は存在しなさそうだ。特定の部員が一日二日来ない程度では動揺しないハルヒも、さすがに一週間となると話が違ってくるようだ。何より今回は『家庭の事情』というハルヒの与り知らぬことが理由となっている。性質の悪い風邪とどっちが厄介だろうな。
 ハルヒは決して長門に会いたいなどとは言いださないが、会いたいと思っていることは明白だ。沸々と溜まっている不安がどこかで爆発しなきゃいいんだが。
「相変わらず手掛かりは無しか」
「……ええ、状況に変化は有りませんね」
 昼休みの屋上からざっと地上を見渡してみるが、眼下の世界に長門は居ない。多分、長門は本当にこの世界のどこにも居ないのだ。不思議と不安は感じないが何となく心に穴があいたような気分にさせられる。それは古泉も同じなのか。こいつはこいつでどこか力の無い笑みを浮かべている。
「長門は帰ってくるんだよな?」
「今のところ彼女が帰って来ないという可能性は極めて低いでしょうね。『長門有希』という存在が完全に消失するということになれば、もっと動きが有るはずです」
「……そうか」
 けれど俺達には、長門が何時帰ってくるかも分からない。
 長門が消えたと同時に朝倉が現れた理由なんてもっと意味不明だ。あいつは何で現れた? 一体何のために? 何で……恋を、している?
「朝倉はなんのために居るんだろうな」
「それも不明のままです。むしろ長門さんのことよりもこちらの方が不明な点が多いですよ。情報統合思念体が新しいインターフェースを作ること自体は不思議なことでは有りませんが、それを『朝倉涼子』と同じ姿・同じ記憶を持つ者にする理由が有りませんからね」
「……あれは、朝倉涼子本人なのか?」
「それについては、どのような条件によって『本人』と定義するかによるでしょう。ですが……そうですね、あなたが『長門有希』という存在を一つの人格・一人の人間と定義するならば、それと同じことだと言っておきましょうか」
 分からないことばかりだと言う癖に古泉は相変わらず饒舌だ。何でそんなに次から次へと言葉が出てくるのだろう。俺は朝倉の前で何を話したら良いかすら分からないし、ハルヒになんて言ってやれば良いかさえ分からないのに。
 この、何かが喉の奥につっかえたかのような状態は、長門が帰ってくれば解決するのか? 例えば長門が消えたのと同時に朝倉が現れたように、朝倉が消えれば長門が……いや、そうじゃない。そういうことじゃないんだ。
「朝倉さんも相変わらずですか?」
「ああ……、あいつは自分が何者かってことを全く覚えてないらしい」
 あまり突っ込んだことは聞いてないが、朝倉が自分のことをただの人間だと思っていることは間違いない。
「そうですか……」
「また、見舞いに行くつもりだ」
「あまり涼宮さんの機嫌を損ねないようにしてくださいね」
「分かってるよ」
「……おや、案外素直ですね」
「うるさい。……今回はハルヒが不機嫌な理由が理解出来るからな」
「……それもそうですね」
 ハルヒのように不機嫌になっているわけじゃないが、俺の心の中にはぽっかりと穴があいたままになっている。
 なあ、長門……お前は何時帰ってくるんだ?


 結局それからも長門が登校してくることなく、そろそろ出席日数が心配される時期に差し掛かっていた。あと半月もすれば定期試験だってある。長門にテスト勉強は不要だろうが幾らなんでもテストを受けないというわけにはいかないだろう。
「キョン、あんた今日もお見舞いとやらで早退するつもり?」
「今日もって、まだ三回目だろう」
 先週二回今週一回。そんな頻繁なものじゃない。ホームルームが終わった直後にハルヒが部室を飛び出してしまったため一応部室まで来て団活を休みたいと伝えてみたら、ハルヒに凄い目つきで睨まれた。なんだなんだ、俺はそんなまずいことを言ったのか。後に居る朝比奈さんはおろおろしているし、古泉は少し困惑気味だ。
「あんたの友達がどんな状態かしらないけど、家族じゃないんだからお見舞いなんて週に一度行けば十分でしょう。まだ一週間も経ってないわよ」
 まだ、って今日は木曜だ。そろそろ一週間じゃないか。
「あのなあ……」
 何で俺が見舞いに行くのをハルヒに止められなきゃならない。そんなの個人の自由だろう。そもそもSOS団の活動に参加するのだって強制じゃないはずだし、特に今は活動らしいことなんて何もしていない。単にだべって茶を飲んでゲームをして、たまに一緒にパソコンの画面を見たりくだらない話を聞かされたりする程度だ。そんな無為の時間より自分の個人的な約束を優先したって良いじゃないか。俺は何も悪くない。
「良いからここに座りなさい」
 ハルヒはパッと手を延ばして俺の腕をつかむと、あっという間に俺を引きずり俺が何時も座っている席に座らせた。何だよ。一体何をしようって言うんだよ。
「うわっ」
「古泉くん、ちょっとどいて」
「あ、はい」
「それは片づけなくていいわ」
 ハルヒは古泉を押しのけて俺の正面の位置を確保すると、すっと細めた眼で俺のことを見据えた。表情も顔の位置もほとんど動かさぬまま、ハルヒが将棋の駒の入った箱のひとつを俺の方に寄こす。俺達の間には、ついさっきまで古泉が一人で広げていた将棋盤が横たわっている。
「勝負よ」
「……は?」
「あんたがあたしに一度でも勝ったら行っていいわ。でも、勝つまでは絶対行っちゃだめよ」
 ……なんだそりゃ。幾らなんでもいきなりすぎた。元々賭けるような次元に無いことを賭けの対象にするんじゃない。バカバカしい、付き合ってられるか、って、
「団長が望んでいらっしゃるんですよ。ここは団員として受けるべきでしょう」
 立ち上がろうとしたら、肩をぐっと抑えつけられた。
 何時の間にか俺の背後に陣取っていた古泉は目もとこそ笑っていたが口元が完全にひきつっていた。この状態で普通に喋っているというのはちょっとアンバランス過ぎやしないか。ぞっとしない。
「……分かったよ」
 俺は溜め息を一つ吐いて、駒の入った箱を手にとった。相手はハルヒ、勝ち目が有るかどうか微妙なところだが一度勝てばいいんだ。一度だけならそんな難しいことじゃないだろう。
「じゃあ行くわよ。持ち時間は一手十秒だからね!」
 十秒将棋かよ!


 十秒なんて持ち時間じゃまともに考えることもできず、俺はハルヒに連敗し続けた。まともに持ち時間が有る状態ならいざ知らず、ハルヒはこういう反射神経が要求されるようなゲーム全般に長けているのだ。
 おかげで俺は下校時間ぎりぎりまでハルヒに付き合わされることになり、結局面会時間を超えてしまったため朝倉に会いに行くことはできなかった。残念、というわけではないと思うのだが、会いに行く約束を無断ですっぽかすことになってしまったのでなかなか居心地が悪い状態だ。せめて俺の方から謝罪出来ればよかったんだが、朝倉は携帯を持っていないため俺の方からの連絡手段は無いも同然なのである。一応病院に電話をかけて取り次いでもらうことは出来るのだが、その方法はあまり推奨されていない。
 なので俺は朝倉の方から連絡が来るのを待つ、ということになってしまう。
 携帯を片手に連絡を待つ、という状態の重さが身に染みる。相手は朝倉だ。何でそんなに、と思わないわけじゃないのだが、俺の方が約束をすっぽかしたことには変わりはない。病院の電話が使えるのは何時までだったっけ。飯も風呂も終わったこの時間、もしかしたら病院は既に消灯後なんじゃないだろうか。
 不意に鳴り始める着信音。
 朝倉か、と思って携帯を見たが、そこに表示されたのは公衆電話を表す非通知ではなく見知った名前だった。出るのに一瞬躊躇ってしまう。残念、なんて風に思ってしまうのはどうしてだ? 別に、俺は……そう、そんな風に思う必要、無いじゃないか。
『こんばんは』
 携帯を通しても妙に耳通りの良い男の声が聞こえてくる。そういやこいつはどんな時でも平常通りっぽい声が出せるような奴だった。
「……よう」
 古泉がこんな夜中に電話をかけてくるってことは、何か有るってことだ。些細なことから厄介すぎることまで選り取りみどり。幾つかの想像が頭の中で渦巻くものの、古泉の声を聞いただけじゃ答えなんて分かるわけもない。
『何だか元気が無いようですね』
「まあな」
 個人的な予定をハルヒに思いきりつぶされたんだ。そりゃあ機嫌が悪くもなるさ。子供っぽいがわがままをぶつけるつもりはないが、あんなお子様のお守りが嫌になるときだってある。やってられるか。
「で、お前は俺を元気にさせるようなニュースでも持って来たのか?」
『いいえ、こちらは進展無いままです』
「……だったら何の用だ」
 朝倉のことも長門のこと、そのどちらにも何の変化も無いままだというのなら、一体何のために俺に連絡なんてしてきたんだよ。説教なら聞き飽きた。というか、俺が説教される理由なんて無い。俺は悪くない、悪いのはハルヒだ。
『一般的な視点で見た時の善悪やどちらがどれだけ利己的かなどというのは些細な問題です。本質はもっと別のところにある。それはあなたもご存じでしょう?』
 存じあげたくなどないね。
 そりゃあ古泉にとってはハルヒが神様でハルヒが世界の中心なんだろうが俺にとってはそうじゃない。俺は神様なんて信じたつもりは無いし一々ハルヒの顔色を窺って行動する気なんて無いんだ。
『あまり涼宮さんを怒らせるようなことをしないでください。今日はずいぶんひやりとしましたよ。幸い、大したこともなく収まってくれたようですが』
「……」
『お願いですから、あまり彼女を、』
「知るかっ!」
 何でそんなこと言われなきゃならないんだ。
 古泉の言ってきたことなんて所詮何時も聞き流している程度のことと大差ないことでしかなかったが、そんなの、わざわざ電話してまで伝えてくるようなことじゃないだろう。こんな時に追い打ちをかけるようなことをするんじゃない。仮にも友人を自称するなら(された気がする)もうちょっと上手く立ち回れ。別に古泉がハルヒ優先なのは今に始まったことじゃないが、俺の前でまでその態度をとり続けなくたって良いだろう。
 沸々と湧き上がる怒りはどこか歪で、幾つかの矛盾をはらんでいて、はっきりとした言葉にはなりそうになかった。古泉の立場も自分の立場も、本当は良く分かっている。ただ、それを認めたくなかった。そういうものを全て認めたら、俺は幾つかのことを我慢しなきゃいけなくなってしまう。……そんなのは、お断りだ。
 俺はたった一言で強制的に通話を切りそのまま携帯の電源を落とした。もしかしたらこの後他の誰かから電話がかかってくる可能性も有ったが、今日はもう誰とも会話したく無かった。
 明日になれば少しは頭が晴れるんだろうか。それとも明日も引きずっているんだろうか。
 ハルヒのバカ、古泉のバカ。お前等もうちょっと俺のことを考えろ。
 ありとあらゆる思考を放棄した俺は、そのまま携帯を放りだし布団を頭まで被って寝た。


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