springsnow

スウィート・ドリーマー 第五章



 ――朝倉の容態が急変した。
 元々体調不良と発作が有るからということで入院していたんだ。それが悪化することが有ってもおかしくない。と、そんな風に考えられるのは相手が普通の人間であった場合に限られる話だ。
 本来人間じゃないはずの朝倉が本気で体調を崩すところなんて想像もつかなかったし、病院に入院しているのも一種の舞台設定的なものだとしか思っていなかった。昨日の時点で多少の引っかかりは有ったが、それも単なる気のせいのようなものだと思って見過ごしそうになっていたんだ。
 ストレッチャーに乗せられて集中治療室に送られていく朝倉の姿。呼吸器を着けられ医師や看護婦に付き添われて運ばれる姿は、痛々しかった。
 俺はただそれを呆然と見ることしか出来ないんだ……家族や親戚じゃないから細かいことを聞かれることもないし説明する必要もない。ただ、見るだけの立場。
「……キョン?」
「あ、ああ、ハルヒか……」
 恐々とした声で話しかけてきたハルヒが不安そうな面持ちで俺のことを見上げている。
 ああ、自分がどんな表情をしているか分からないってのは、こういう時に使う表現なんだな。ハルヒがびくっと肩を震わせる。俺はいったいどんな顔をしていたんだが。
「朝倉……、大丈夫よね? あんた、あの子の入院している理由とか知っているんでしょ? ねえ、何か分からないの?」
「……俺にも分からないよ」
 詳しい病状のことなんて聞かされてないし聞こうともしなかった。だって朝倉は普通の人間じゃないんだ。病気なんてするはずもない。病気で苦しんだりなんかしない。病気で死んだり――そんなこと、有るわけないじゃないか。


 そのままの状態で一体どれだけの時間が過ぎたのだろう。集中治療室から朝倉が出てくる頃には既に日は沈んでいたと思う。今は安定しています、という看護師さんの言葉に安心してどっと力が抜けて……張り詰めていた緊張が解けてしまったせいだろうか、身体がちゃんと動かなかった。椅子に沈んだ身体が鉛でも縛り付けられたかのように重い。動かなきゃ、と思うのに、足が動いてくれない。
「お疲れ様です」
 影を辿るようにゆっくりと顔をあげると、苦笑気味の古泉と目が合った。
「あ、ああ……あれ、ハルヒと朝比奈さんはどうしたんだ?」
 そういや、二人の姿が見当たらない。
「もう遅いですから、涼宮さんと朝比奈さんは先に帰っていただきましたよ。……覚えていないんですか?」
「悪い、良く覚えてない」
 そういや古泉とハルヒが何か言い合っていた気がするんだが、生憎その時の俺はほとんど何も考えられないような状態だった。そうか、ハルヒと朝比奈さんはもう帰ったのか。うん、もう夜だもんな。というか面会時間はとっくに終わってないか? 何で俺達はここに居られるんだ?
「その辺りのことはこちらで手を回させていただきました」
「……そっか、すまなかたったな」
「いえ、別に気にしなくて結構ですよ。僕は必要だと思ったことをやったまでですから」
 そうは言うけどなあ……何だか頼りすぎじゃないだろうか。何時もは長門に頼りすぎだと思うんだが、今回は長門が居ない分古泉に世話になりすぎている気がする。どっちも頼りになる仲間だし、ことが大きくなるよりも前に頼った方が良いのかも知れないが、あんまり力を借り過ぎるのもどうかと思う。
「なあ、一体何がどうなったんだ? 朝倉が倒れたってのは分かるんだが……」
 何だか幾つか説明をされた気もするんだが、さっぱり聞いて無かったというか、聞けるような状態じゃなかった。自分でも驚きだが、それだけ動揺していたってことなのだろう。朝倉のことで、何で……あ、いや、この言い訳はもういいか。一々否定するのはやめよう。倒れると思って無かった身近な人間が倒れれば誰だって動揺するさ。朝倉のことを身近な人間に分類していること自体が間違っている気もするがその辺に関するツッコミはスルーさせていただこう。今はそんなことを論じている時でも無いさ。
「どうやら心肺機能が低下していたようですね。彼女の身体機能、内臓系の構造や機能などは通常人類と同じですよ。検査や投薬の際に異常が見られたという報告は有りません」
「……」
「先ほどは危険な状態にありましたが今のところは安定しているようです。……倒れる前よりは悪い状態であることは確かなようですが」
「……そうか」
 朝倉が、体調を崩している。
 そんなの、俺にとっては未知の分野も良いところだ。あいつが生死を彷徨ったり病気で苦しんだりするなんてそれこそ完全な想定外だ、想像したことさえ無かった。なあ、何でこんなことになっているんだ? 宇宙人ならぱぱっと治せるだろ。長門は身体に空いた穴を一瞬で修復していたんだ、朝倉だって似たようなことが出来るんじゃないのか。
「今の彼女はただの人間と同じです。あなただってそれは分かっているでしょう?」
 分かって……いる、つもりだった。でも、俺は到底その本質を理解していなかった。いざとなればなんとかなる。あいつが危険な存在になることは有ってもあいつが危険に晒されることなんて無い。ずっと、そんな風に考えていた。
 朝倉の病状の変化だって、俺の届かない所に居る誰かが操作した結果に過ぎないのかも知れない。でも、朝倉は苦しんでいるんだ。集中治療室に運ばれる時も出てくる時も、あんな辛そうな表情をしていたじゃないか。あれは演技なんかじゃなかった。朝倉は本当に苦しんでいるんだ。
「なあ、今朝倉に会うことは出来るか?」
「出来なくは無いですが……」
「会わせてくれないか? 会って話がしたいんだ」
「……分かりました。少々お待ちください」
 古泉はそこで踵を返して俺の前から消えたが、五分ほどで戻ってきた。思ったより早い。
「そんなに難しいことではありませんからね。朝倉涼子の入院している部屋は前と同じです。……僕は居ない方が良いでしょうが、今のあなたを一人で帰らせるというのも不安ですので同じ階の休憩室で待たせていただきます。終わったら僕の居る所に来てください」
 何だか至れり尽くせりのような気がするのは気のせいか。古泉ってこんなキャラだっけ? いや、まあ、古泉個人に対する感想は良いんだ。そもそもここで古泉に放り出されると俺は完全に行き場をなくしてしまう。
 頼りにしてるぜ、相棒。


 そういえば許可は得たものの本人が起きているかどうかの確認をしていなかった、という基本的なことに俺が気づいたのはドアの前に立ってからだった。様子を見てみたいとは思っていたが若干迷うところだ。起こすことにならなきゃいいんだが。
「よう……起きてるか?」
 ゆっくりと扉を開きながら部屋の中を窺う。明かりが無いので起きているかどうかすら分からない。寝ていたら……大人しく帰るべきだろうな。相手は病人なんだし。
「……キョンくん?」
 なんて思っていたのだが、どうやら朝倉は起きていたらしい。弱々しくは有るがしっかりと伝わってくる声だ。寝ぼけているわけではないらしい。
「なんだ、起きてたんだな」
「あ……うん、眠れなくて」
 朝倉がベッドの上にある明かりを点ける。薄明かりに照らされた顔の顔色は良く分からなかったが、思ったよりは普通そうに見えた。さっきまで集中治療室に居たとは思えない。
「体調はどうだ?」
「あんまり良くないけど……すごく悪いわけじゃないよ」
「……そうか」
「あの、心配掛けてごめんね」
 俯いた朝倉がもじもじと両手の指先を絡めている。なんだか小さな子供みたいな仕草だ。
「謝るなって」
 てのひらにてのひらを乗せて、笑いかけてみる。
 何の力もない俺でも、子供みたいな顔で不安そうにしている朝倉を勇気づけることくらい出来るだろうか。
「あ……」
「もう回復したんだろう? いずれ良くなるさ」
「……うん、そうだと良いな」
 学校に行きたいなあ、と呟く朝倉は、どこか遠い目をしていた。俺にとっては面倒ばかりの学校も、朝倉にとっては光り輝く物に見えるのだろう。こいつはずっと学校のことばかり話している気がするが、もしかしたら、それ以外の記憶は――偽物の記憶は、とても曖昧で脆いものなのかも知れない。数少ない拠りどころである学校と、俺と。今の朝倉に見えるのは、そんな狭い世界だけなんだ。
「あのね……あたしね、あんまり体調が良くならなかったら、カナダに帰ることになっているの」
「……なんだって?」
 いきなりの発言に、俺は本気で耳を疑った。カナダに? どういうことだ?
「実は前にも一回こっちに戻って来るって話が有ったんだよ。でも、その時も体調を崩しちゃって……向こうに帰ったら治ったんだけどね。だから今回も……入院があんまり長引くようなら向こうに戻らなきゃならないの」
 そんなの初耳だ!
 そりゃあ朝倉は一度消えたような存在だし、本当にカナダに行っていたわけですらない。だけど何らかの理由が有ってここに現れたはずなのに、そんな勝手な理由でもう一度消えることになるなんて……誰が考えたか知らないが、勝手すぎる。朝倉は、朝倉は……そんなこと望んじゃいないのに。
「長引くって……」
「どのくらいかは分からないの、……決めるのはお父さんだから」
「……」
「ごめんね、キョンくん。せっかく仲良くなれたのに」
「そんな顔するなって。絶対良くなるさ」
 だけどそれを決めるのは俺じゃない、朝倉でもない。
 決めるのは俺達の関与できない誰かで、俺にはその誰かを動かすような力さえ無いんだ。長門が消えそうになったならハルヒを焚きつければ良い。俺は今でも本気でそう思っている。
 でも朝倉は? 朝倉の場合はどうすれば良いんだ? ハルヒが今日再会したばかりの朝倉に大した思い入れが有るとは思えないし、回りくどい手段じゃあいつは動いてくれない。方法が無いわけじゃないだろうが、ハルヒに頼るなんてのは博打を打つようなもんだ。
 俺は……俺は、どうすれば良い? どうすれば、こいつをここに居させてやれる?


 ――朝倉が集中治療室に運びこまれてから早数日。俺は毎日のように見舞いに行っていたが一向に朝倉の体調は回復していないようだった。タイムリミットが何時かしらないが、このままじゃただ消えていく朝倉を見送ることしかできない。
 考えても考えても解決策なんて浮かばない。そりゃあ、ハルヒっていう最終手段を用いる方法が全く思いつかないわけじゃないが――本当にハルヒを動かしたら被害甚大どころでは済まない可能性の方が高そうだ。俺とハルヒと朝倉だけが存在するような世界になってしまっても困る。
 追い詰められてはいるものの、まだギリギリのところで何とか立っていられる。そろそろ、朝倉の前に俺が倒れるんじゃないかって気もするんだが、どうも自分で思っているよりは頑丈に出来ているようだ。サポートに徹してくれている古泉に感謝するべきかね。あいつには功労賞を上げてもいいかもしれない。俺の差し出す賞にどれほどの価値が有るか知らないが。
「おや、あなたが部室に来るとは珍しいですね」
 人を幽霊部員みたいに言うな。そりゃここ一週間ほどの間さっぱり顔を出して無かったけどさ。まあ、今日もすぐにここを出ることになるんだが。今日は単に「あたし達も一緒に行くから一度部室に集合よ」とハルヒに言われたから一旦ここに来たんだ。ところでハルヒと朝比奈さんは一体どこだ。まだ来てないのかよ。
「お二方もそのうちやってくると思いますよ。お手洗いによっているかお見舞いに持っていく物を用意しているといったところでしょう」
 おかしな物を用意してなきゃいいんだが。ハルヒが気紛れで自家製薬なんて作った日には、猫が喋るような薬が完成しかねない。
「それにしても、お二人とも本気で朝倉涼子のことを心配しているようですね
「そりゃそうだろう」
 何せ二人とも朝倉が倒れたところを直接目にしている。それで心配して無かったらそっちの方がどうかと思う。昨日今日と俺が見舞いに行くと言っても何の文句も飛んでこなかったのはそのせいだろう。昨日なんて休み時間中に偶然遭遇した朝比奈さんから身体に良いお茶までもらってしまった。
「ですがあなたほどでは有りませんよ」
「俺が朝倉の心配をしちゃいけないのか?」
 あの二人より、っていう点について今更否定しようとは思わない。ここ数日間で俺の意思は完全に固まっていた。俺は朝倉に消えてほしくない。
 朝倉涼子に、ここに居てほしい。
「いいえ、ただ意外だなと思っているだけです。……あなたは一度彼女に殺されかけたんですよね」
 一度じゃなくて俺の体感としては二度なわけだが……まあ、その件についてはあまり触れないでおこう。古泉やハルヒといったこっちの世界の住人の記憶にない出来事についてあれこれ考える気は無いのだ。いずれまた考えなきゃいけない時が来るのかも知れないがそれは少なくとも今じゃない。今考えるべきは目の前のことだ。
「あの朝倉は……俺を殺そうとした朝倉とは別人だ」
「全く違う人物ということは無いでしょう。自身の存在に関する記憶は無くしているようですが根本的なところは一緒です。裏も取れていますからね」
「何が言いたい」
「いいえ、特に何も」
 だったら耳障りな言葉を続けるのはやめてくれないか。俺が何をしたって俺の自由じゃないか。少なくとも誰かに迷惑をかけたりはしていない。
「まあ、過剰にも見えるあなたの朝倉涼子への執着は、長門さんが居ないことを発端にした逃避行動のようなものかもしれませんけどね」
「……なん、だと?」
 何を言っているんだ? 古泉の言っていることがさっぱり分からなかった。逃避? 俺が何から逃げているって? 朝倉のことと長門のことには関連性が有るみたいだが、俺は別に逃げてなんかいない。俺に出来ることなんてたかが知れているが、それでもちゃんと自分に出来ることをしているつもりだし、抜け出すための方法だって探している。その状態のどこが逃げているってことなんだよ。
 疑問に思う俺とは裏腹に、古泉が笑みを深くする。深淵を思わせるような底知れない笑顔からは表情からは真意が読み取れない。古泉はB級映画のマフィアのボスのようにゆっくりと溜め息を吐き、もう一度唇を開いた。
「言葉通りですよ。『長門有希』という存在の不在によって生まれる不安を『朝倉涼子』という存在に対する不安や疑問とすり替えることによって心の安定を保つ。……実際に安定しているかどうかは疑問ですが、ここに居ない人のことを考えるよりも居る人のことを考える方がまだ健全では有りますからね」
「お前、何言って……」
「もしも朝倉涼子が消えてたとしても、長門さんが戻ってくればあなたの心の隙間は埋まる……そういうことです」
「おまっ、ふざけんなっ!」
 朝倉は朝倉で、長門は長門だ。バカなことを言うんじゃない!
 俺は怒りにまかせて拳を固めて振りかざした。ここに来るまでに持っていた古泉に対する感謝とか労いとかは完全に吹っ飛んでしまった。
 視界が真っ赤に染まるような感覚が有ったが、それは所詮錯覚のようなものでしかなかった。何、と思った時に視界に飛び込んで来たのは、笑みを消した古泉が俺の拳を片手で受け止めているところだった。阻まれた拳を強く握りしめられる。
「痛っ、離せよっ」
「離すのは構いませんが、まずは落ち着いてください」
「落ち着けるか。バカ、朝倉のことと長門のことは無関係だろうがっ」
 無関係では無いと思うが、古泉が言ったような関連性であるはずがない。俺が長門のことを棚上げするために朝倉のことばかり考えている? そんなわけないだろう。俺は長門のことだって心配しているんだ。そりゃあ今は朝倉のことばかり優先してしまっている気がするが、仕方ないじゃないか。今の俺が長門のために出来ることなんて一つも無いんだ。だったら、帰りを待つしかないじゃないか。
「……本当にそう思っているんですか?」
 古泉がパッと俺の手を離す。俺は手をひっこめて距離を取り古泉を睨みつけた。悠然と立つ古泉は俺に協力してくれていた時とは別人のようだ。なんで、なんでそんなに冷たい瞳をしているんだよ。
「朝倉涼子は何れ消える運命の存在です。……これ以上あなたが関わるべきでは有りません」
「ふざけんな! まだそんな風に決まったわけじゃないだろ!!」
 確かなことは自分だって知らないって言っていたじゃないか。なんでそんな風に言いきるんだよ。たった三日で何が有ったんだ? 古泉には俺の知らない情報が伝わっているのか? だったら俺にも教えてくれよ。知らないまま取り残されるのは嫌なんだ。
「……僕は帰ります。涼宮さんには急用が出来たからだとお伝えください」
 古泉は呆然とする俺を残し、あっという間に部室から消えていった。


 古泉の心変わりの理由なんぞさっぱり分からなかったが、俺はハルヒや朝比奈さんと共に朝倉の見舞いに向かうことになった。疑問は有っても時間は進んでいく。幸か不幸か世の中ってのはそういう風に出来ている。部室に来たハルヒと朝比奈さんは古泉が来ていないことに対しての疑問を口にしていたが、バイトだからと言ったらあっさりと騙された。それ以上の追及をする気は無いらしい。
「こんにちは、今日は涼宮さんと朝比奈先輩も一緒なんだね」
 笑顔で挨拶をする朝倉は土曜に倒れた時よりは幾分顔色が良いように見えるが、体調はあまり回復していないらしい。古泉からある程度情報を仕入れているし本人の様子を見ていれば分かることも有る。
 一体どこがリミットなのだろう。俺にはその境界線すら分からない。もしかしたら俺は、朝倉を見送ってやることすら出来ないのかも知れない。そんなのは嫌だと思っても、俺には何の手段も無い。手がかりさえ無い。
「あの、お花取り換えてきますね」
「あ、あたしも一緒に行くわ」
 本日は朝比奈さんが途中の花屋で花を購入してくださったのだ。頭が下がるね。ハルヒが一緒に出て行ったのは気を遣ったからか? あいつにそんなスキルが有るとは思えないのだが。
「あの二人、仲良いねえ」
「ああ」
「学年は違うけど、学校で出来た友達同士だよね?」
「……まあ、一応そんなもんだな」
 あれを友達と言っていいのかどうかという疑問は有るが、外から見れば友達に見えないこともないのだろう。ハルヒが朝比奈さんに無茶ぶりしているところを見たら認識を変えるんじゃないかという気もしたが、まあ、それはそれだ。
 今のところはちょっと気の弱い先輩と強気な下級生にでも見えているのだろう。上下関係に厳しい部活ならいざ知らず、下級生が上級生にタメ口であること自体はそんなに不思議なことじゃない。俺は丁寧語を使う方だが、全員が全員そうってわけでも無いんだ。
「良いなあ……あたしも、友達作れるかなあ」
「戻ってくればすぐ作れるさ」
 二ヶ月未満とはいえ元々北高に居たんだ。ゼロから作るよりよりは楽なんじゃないか。
「でも、きっとみんなあたしのことなんて忘れちゃってるよ」
「そんなこと無いって。……俺は覚えていたじゃないか」
 俺の場合は記憶にこびりつきそうなほどの出来事が有ったおかげなんだが。なんでそんな奴とこんな関係になったのか? こんな、と形容するほどの何かが有るわけでは無いと思うのだが、一応俺と朝倉は男女交際をしている仲ってことになっている。俺達以外は古泉くらいしか知らないし、そもそも何か有ったわけですらなく、俺が朝倉に恋愛感情を抱いているわけでも――無い、と思うのだが。
「うん、でもそれって、あたしが告白したからでしょう?」
「そりゃあ、それも有るけどさ……」
 恋人関係の始まりなんてそんなもんじゃないのか? どっちも好きだけど言い出せなくて、何かの切っ掛けで言ってみたら両想いでした。なんて、フィクションの中での出来事だろう。一方通行から告白、お試しを兼ねて付き合って――みたいな恋愛も、現実にはたくさんあるはずさ。結果として感情がついて来るならそれで良い、そういうもんだと思う。まあ、まともな恋愛経験の無い俺が恋愛について語るのもどうかと思うんだが。
「ねえ、キョンくん……キョンくん、あたしのこと、本当に好き?」
「い、いきなり何言ってるんだよっ」
 予想外の話の展開に俺は心臓を跳ね上げた。おいおい、本当にいきなりだな。好き、だなんて、最初の告白の時以降触れてさえいないフレーズだ。たった今恋愛が辿っていく経緯について考えたばかりだが、俺は自分がその過程に巻き込まれているところが想像出来なかった。俺が、誰かを好きに――
「もしかしてあたしに同情しているだけじゃないの? あたしが、かわいそうな子だから……」
「違うっ」
「でも、」
「違う。そりゃ、お前がかわいそうとか、不憫だとか、そういう気持ちが無かったとは言わないさ。だけどな、そんな理由だけで付き合ったりするわけないだろう? 俺はお前が……お前が好きだから、お前と付き合うって決めたんだ!」
 ……あれ? なんで俺、こんなに必死なんだ?
 自分でも自覚できないほどの速度で舌が回っている。なんだかおかしなことを口走ってないか心配になるレベルだ。別に変なことは言って無いと思うんだが。事実はともかく一応そうなっているわけで。えっと、だから……何で、こんなに言い訳ばっかり浮かぶんだよ。どうせ俺は自分が恋をしているところが想像出来ないような人間だよ。恋、なんて響き、自分には縁遠いものだと思っていたんだ。ずっとずっと……朝倉に告白されたその時は、驚きばかりだった。その告白や付き合ってみたことが理由で恋心が芽生えるなんてことは有り得ないと思っていた。だって相手は朝倉だぞ。こいつは宇宙人で、かつて俺を殺そうとした女で、だけどう今は何も覚えて無くて、ただ、俺だけを頼りにしていて――ああ、もう、何が何だか分かんなくなってきた。ええい、別にいいじゃないか。恋だろうがそうじゃなかろうが、俺は朝倉にここにしてほしいんだよ! 朝倉を幸せにしてやりたいんだよ!
「……」
 俺が大声を出してしまったからだろうか、朝倉が目を丸くしている。意外だったのか? まさかこいつ、返事を口にしたときの俺の気持ちを見抜いていたんじゃないだろうか。その背景事情までは悟られてないというか、気付いて無いと思うんだが……。
 ――カシャンッ
 その音は、時間が止まったかのような部屋に小気味よく響き渡った。
 半開きだったはずのドアの向こうに呆然と立つハルヒ。床に落ちた割れた花瓶。水が広がり、切り花が周囲に散らばっている。
「……ハルヒ?」
 俺はその名前をちゃんと口に出来たんだろうか。

 ――状況を理解するよりも前に、世界が大きく揺れた。


 NEXT


Copyright (C) 2008 Yui Nanahara , All rights reserved.