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スウィート・ドリーマー 第六章



 ――身に覚えのある感覚。
 端的にそういう風に表現できてしまう時点でいかがなものかと思うのだが、時間移動や空間移動なんてものを何度も繰り返せば、そういう種類のものなんだなって程度のことは肌で分かるようになる。実生活においては何の役にも立たないスキルだが勝手に身についてしまったものは落とす方法さえ分からない。
 今度は一体何が起きたんだ。
 ぐるりと回転する世界、消える景色。朝倉が俺の名前を読んでいたような気がするんだが、生憎その辺の記憶は定かじゃない。
 プツリとヘッドフォンのコードを抜くようにして途切れた意識が再び戻ってくるまでにかかった経過時間さえ定かじゃないし、それ以前に時間が普通に流れているかどうかさえ不明だ。

「起きて」

 簡潔すぎる声に覚醒を促されたのは、それなりに時間が過ぎてからだったような気がする。音量は小さいが涼やかでよく通る声。涼やか、という形容詞を用いると別の人物が連想されそうだが名前にその字が入る両名は全くもってそういうキャラクターではない。ハルヒはちょっとうるさ過ぎるし、朝倉の声にはどこか甘みがある。
「よう……結構久しぶりな気がするな」
 目を開いて身体を起こすと、目の前に見慣れたセーラー服姿が有った。カーディガン着用のショートカット文芸部員、長門有希だ。うっかり眼鏡をかけているなんてこともない、俺の知っている何時もの長門だ。
「そう」
 前に会ってから半月以上経っているというのに、この感慨の無さというか無感動っぷりは最早素晴らしいとしか言いようがないね。この辺が長門の長門たる所以なのだろう。一応長門にも寂しいとか懐かしいとかいう感覚は有るみたいだが、こいつの場合基準が大きくずれているのだろう。三年間同じ部屋で待つことや似たような日々を六百年近く繰り返すことに比べたら、半月程度じゃどうってこともないのかも知れない。
 ところでここはどこなんだ。灰色の世界の中にある……閉鎖空間か? ここって、多分さっきまでいた病院の屋上だよな。実際に来たことは無いが建物の形や見下ろせる景色で何となく分かるんだ。色素の欠落した空間ではあるがリアル過ぎる形状が、この世界が現実の写し絵であることを証明してくれている。
「これは……またハルヒ絡みか」
「そう」
 簡潔な返事ありがとう。しかしそれだけじゃさっぱり分からない。長ったらしくても遠まわしでも良いからせめてもうちょっと説明してくれないか。あいつは一体何をしようとしているんだ。
「思ったよりも早かったですね」
 溜息を吐きそうになったところで背後から聞こえる声が有った。気配が無いので驚いたが、よくよく考えたらこんな現実じゃない場所で気配がどうのなんて考えるのも馬鹿げている。振り返るとそこには制服姿の古泉が立っていた。
 何で長門と古泉が一緒に? とは思ったが、無関係の人物がいきなりやってくるほどの驚きは無い。俺にとっては両名どちらもSOS団不可思議担当みたいなもんだ。
 一体何が有ったんだ。どっちでも良いから説明してくれ。
「ここは涼宮ハルヒの精神世界」
 ……なあ、長門、いきなり喋るのはやめてくれないか。びっくりするから。古泉は良いんだ、回りくどいが一応順序立てている方だし俺が理解出来るように伝えようという努力も感じられる。しかし長門の話は常に唐突だ。お前はもうちょっと効率の良い話し方ってのを学んだ方が良いぞ。古泉を参考にすることだけは勧めないが。
「閉鎖空間か?」
 ハルヒの、と言われて思い当るのはその一つだけだ。
「閉鎖空間と呼ばれる空間とは似て非なるもの」
 長門がちらりと古泉の方を見た。説明を譲るのか、珍しいことも有るものだ。
「原因が涼宮さんだというのは同じですけどね。ここはもっと内向的な世界です。ちょうど、以前あなたと涼宮さんが閉じ込められていた場所に似ていますね。もっとも、ここに閉じ込められ居たのはあなたでも涼宮さんでもなく長門さんであったわけですが」
「……はあ?」
 なんだそりゃ、初耳、というか予想外も良いところだ。長門がハルヒの精神世界に閉じ込められていた? 意味が分からん。なんでそんなことになったんだよ。いや、俺がハルヒと一緒に閉じ込められたときもその理由がよく分からなかったんだが今回は明らかにそれ以上に意味不明だ。それに、長門がってことは、この空間自体は半月以上前から有ったってことじゃないか。
「ええ、そうですよ」
「でもお前、長門の居場所は分からないって」
「閉鎖空間とは違うと言ったでしょう? ここは僕たち能力者に感知できない空間だったんです。……情報統合思念体は気づいていたようですが、手を出せなかったようですね」
「そう」
 ううむ、理屈はよく分からないが、とりあえずそういうものだったってことにしておこう。事態は解決できてないが長門には会えたんだ。あまり細かいことは気にしないことにする。どうせ説明されて分かるようなことでもない。要点を絞って解決に繋がりそうなところだけ教えてくれれば、それで良いんだ。
「長門さんが涼宮さんの精神世界に閉じ込められた状態であり、しかしそれ以上の実害もなくかといって解決手段も見つからない……そのため、情報統合思念体は一つの方法を思いついた」
 何だか古泉が饒舌だ。長門が説明を譲った以上それなりの理由が有るのだろうが何でこんなに詳しいんだ? お前だって何も知らないんじゃ無かったのか?
「……途中で長門さんからの救援コールをいただいたんですよ。と言っても、それもごくごく最近のことですけど」
「えっ……」
 記憶の中で何かが繋がる。長門からの、救援? じゃあ、もしかして、古泉が突然態度を変えたのは……まさか、まさか。
 心の中にジワリと黒い物が広がっていくような感覚が有った。予兆めいた何かが符号となって頭の中で繋がりかけている。違う、そうじゃない、そうじゃない……そうじゃないんだって言ってくれ!
「残念ですが恐らくあなたの想像した通りです。……朝倉涼子は、涼宮ハルヒに再び『扉』を開かせる手段として用意されたコマでしかありません。その役目が終われば、彼女は再び消える運命です」
 事実を告げる古泉の声はどこまでも冷徹だった。長門は相変わらず棒立ちで、俺にも古泉にも何の感情も向けていないかのようだ。あるいは、意図的にそうしているのかも知れない。俺の知っている長門はもっと感情表現豊か――では無いが、今が氷だとすれば、普段の長門は冷水ってところだろう。
「彼女に白羽の矢が立てられたのは、彼女があなたにとって印象的な人物であり、あなたを通じて涼宮ハルヒに影響を与えるのに適任である……それだけですよ」
 残酷な真実を告げる唇はどこまでも滑らかだ。死神の役をやったらさぞはまることだろう。だが俺は、そんな死神の台詞をあっさりと受け入れられるような人間じゃないんだ。
「ふざけんなっ」
 殴りかかったのは本日二度目。そして今度もあっさりと阻まれる。ちょっとは学習しろよ、俺。
「どうしようもないことなんですよ」
 冷たい瞳に、寂しげな色が宿る。
 そもそも口にしたのは古泉だが、本来の語り部はこいつじゃない。こいつは、長門の代わりに残酷な宣告をする役目を買って出たのだろう。長門が完全に棒立ち状態なのはそのせいだ。長門は悪くない、古泉だって悪くない。だけど、だけど……。
「落ち着いてください」
「これが落ち着けるかよっ。手段? それだけ? ふざけんなっ。朝倉は、朝倉は……あいつは、あいつは……何にも知らないんだぞ。あいつは、学校に戻れるのを楽しみにしているんだ。それなのに……」
 なんであいつが消えなきゃいけないんだよ。消えるために現れたなんて、悲しすぎるじゃないか。……そうだ、朝倉はどこに居るんだ? それにハルヒも。俺はまだ二人の姿を見ていないぞ。
「……二人とも病室に居る」
 長門がそっと唇を開く。
「あなたは……朝倉涼子を、助けたい?」
「ああ、助けてやりたいと思っている」 
 俺が長門にこんなことを言う日が来るとは。
 あの日曜日よりも前だったら想像もつかなかっただろうが、俺は本気でそう思っているんだ。いやはや、人生何が有るか分からないね。そりゃあ朝倉が居られる代わりに長門が消えるとかは嫌だぜ? だけど出来るだけのことはしてやりたいじゃないか。消えるのを黙って見守るなんてのは性に合わない。たとえ無駄になる可能性の方が高いとしても、最後まであがきたいじゃないか。
「そう……。あなたなら……もしかしたら、出来るかも知れない」
「やるだけやってみるよ」
 努力、という言葉を用いるような状況かどうかは微妙なところだが、俺は俺に出来ることをするしかないんだ。
 屋上に残ることを選んだ古泉と長門を背に、俺は病室へと向かった。


 世界が揺らぐ時に半開きだった扉は、やっぱりこの世界でも半開きのままだった。中を覗いてみると、ハルヒが朝倉の身体を抱えて床に蹲っているところだった。
「……よう」
 出来るだけ何気ないふりをして近づいてみるが、功を奏したのかどうか。正直なところハルヒが何を考えているかなんてさっぱりなんだ。何であの状況で殻に閉じこもろうとするんだよ。意味が分からん。
「キョンっ」
「お前はここに居たんだな」
 近づいて、ハルヒの前に腰を下ろす。朝倉は気を失っているようだがどうやらちゃんと呼吸はしているようだ。一応、一安心、と言えるんだろうか。
「ねえ、キョン、これ何なの? いきなり景色がバーっと変わっちゃって、ここにはあたしと朝倉しかいないし、朝倉は倒れちゃうし……」
「先ずは落ち着け」
「落ち着けって……」
「良いから、とりあえず落ち着いて話を聞いてくれ」
「これが落ち着いてられる? こんな滅茶苦茶な状況なのにっ」
「だからって慌てたって助かるわけじゃないだろう? 良いかハルヒ、これが危機的な状況だって思うならまず落ち着かなきゃいけないんだ」
 遭難や熊に会った場合に例える必要すらない。世の中ってのはそういうもんだ。もしかしたら俺達の知らない場所で終末へのカウントダウンが始まっている可能性もあるが、それはそれだ。今は目に見えないことを気にしている場合じゃない。原因がハルヒだというのなら、ハルヒさえ動かせれば何とかなる、そういうもんだろう。
「……分かったわ」
 良かった、一応話は通じたようだ。いや、不安だからこその反応って可能性もあるか? 何せこんなおかしな空間だからな。どうも俺には何時の間にか耐性のようなものが出来てしまったみたいだが、ハルヒにとっては未知の場所だろう。怖いものなんて無いよう見えるハルヒでも、本能的な恐怖を感じ取ることくらいあるさ。
「なあ、ハルヒ……この世界はお前の心の世界なんだ」
「は? 何それ? あんたバカ?」
 ストレートな反応ありがとう。そう来ると思ったぜ。
「良いからとりあえず信じろ」
「信じろって、無茶なこと言わないでよ。ここがあたしの心の世界? 意味分かんないわ。あんた頭おかしいの?」
「俺はほどほどに正気だよ。……じゃあこっちから聞くが、ここがお前の心の世界じゃないとしたらここは一体何なんだ? 何か他の心当たりとかあるのか?」
「え、そ、それは……」
「ほら、何もないじゃないか」
「だ、だからって……心の世界だなんて信じられないわよ。何それ。じゃあ、ここはあたしが作ったって言うの?」
「そうだよ」
「……ますます意味が分からないわ」
 ハルヒがツンと顔を横に向けた。妙なところで頭が硬いあたりがハルヒらしい。もっとも、俺が逆の立場で同じことを言われても信用などしないだろう。心の世界? なんじゃそりゃ、ってのが一番有り得そうな反応だ。実際かなり嘘っぽいと思う。だがどんなに嘘臭かろうと一種の詐欺のように見えようと、それが現実なんだ。
「まあ、とにかく、ここはそういう場所なんだよ。少なくともここがまともな場所じゃないってのは分かっただろ?」
「……まあ、ね」
「で、こっから戻る為にはお前の力が必要なんだ」
「はああ? ……あんた本当に何言ってんの? 全っ然意味分かんないわ」
「意味なんて俺にも分からん」
 理屈の面に関しては俺の方にも皆目見当がつかん。古泉や長門からの受け売りでしかないし一応そういうもんだって思ってはいるが、全面的に信頼しているってわけでもない。単にそれ以上に信頼出来そうな言葉が見当たらないからそれが正しいってことにしている――という程度だな。古泉や長門個人に対しての信頼も有るが、全て疑ってかかっていたらスタート地点にすら立てそうにないって事情もある。今の状況何か正しくそんな感じだよ。
 出来れば今目の前に居る頭の固い女にも、他の理屈や言葉が無いからって基準で信じてもらえたら良いんだが。
「何それ」
「とにかく、そういうことになっているんだよ。俺を信じろ。いや、自分を信じろ」
「……あんた、怪しい宗教にでも嵌ったの?」
「違う!」
 ああもう、どう言ったら通じるんだろうな。そもそも通じなきゃいけない、ってもんでも無いんだが……ああ、そうか、別に意味や理屈が通じる必要なんて無いんだ。ハルヒが望んで納得して、元の世界への回帰を望む。それさえ出来れば充分なんだ。 
 そして、そこに俺の願いをのっけてしまえばいい。
「なあハルヒ、実は朝倉はこのままだとカナダに帰されることになるかもしれないんだ」
「え? な、何それ……」
「前に一度こっちに戻ろうとしたけど体調が悪くなって帰されたらしい。今回も入院が長引いたらダメってことだな」
「な、なに……それって、本当のこと?」
 ハルヒがすっと声を落とす。その視線が朝倉へと注がれているが、今のところ朝倉が起きる気配はない。これは……単に眠っているんじゃなさそうだな。ハルヒの意識が朝倉を眠らせているんだろうか。
「ああ、本当だ」
「じゃ、じゃあ……このままじゃ、朝倉はこっちに居られなくなっちゃう可能性が高いってこと?」
「そうだよ」
 こっちどころかこの世に居られなくなる可能性もあるわけだが、そこまで話を広げる必要はないだろう。そんな切羽詰まった言い方をしなくても、ハルヒは分かってくれる。というか、ここでまた世界がどうのなんて言ったら話が巻き戻ってしまう。ハルヒ相手なんだ、少しでも現実的な言葉を選んでやらないと。
「なあ、ハルヒ……お前が願えば、朝倉は俺達と一緒に居られるんだ。みんなで一緒に戻れるんだ」
「えっ……」
「理屈とかそういうのは俺にも分からないんだが、そういうことになっているんだ。俺は……こいつと一緒に居たい。こいつを、学校に通わせてやりたいと思っている」
 パジャマ姿の朝倉は可愛かったが、何時までもこの恰好のままじゃかわいそうだ。朝倉は、学校で友人達に囲まれる姿の方が似合っている。ハルヒとは対照的だが、今だったらそこそこ上手くやっていけるはずさ。もしかしたら、案外良い友人になれるかも知れない。
「そ、それは……」
「なあ、それじゃダメか? 朝倉は何も悪くないんだぜ? 朝倉にだって、俺達と同じ学校に通う権利が有るだろう?」
 そうだ、朝倉は何も悪くない。こいつはただ利用されているだけなんだ。記憶を弄られ存在理由さえも知らず、目的を果たすためだけに再び作られまた壊される。……そんなの、許せるわけないだろう。そりゃあ元の朝倉に恐怖を感じたことも有ったし元々プラスよりの感情を持っていたとは言い難いが、それはもう昔の話と言うか、別の話だ。俺は、今ここに居る朝倉を助けてやりたいんだよ。
「……」
 なんだその、捨てられた子犬のような眼は。
 俺のことが信じられないって言うのなら別に信じてくれなくても良い。ただ、そういうものだってことを理解出来なくても、そうであってほしい、という風に願ってくれればそれで良い。それだけで、世界は変わる。
「な、なんで、あたしが……」
「お前は朝倉に居なくなって欲しいのか?」
「違うわよ! そ、そんなこと思うわけないじゃない。そんなこと……思うわけ、ないじゃない」
 今にも涙を流しそうなハルヒが必死で否定しにかかる。……何でこんな状態になっているんだ? 俺が切々と訴えたからってのが理由でも無いだろう。ハルヒがこの空間を作った理由からして意味不明だが、ここに来てますます意味が分からなくなった。だが、別に意味なんぞ分からなくても良いのだ。当初の目的さえ果たせれば幾つかの疑問が残っても問題ないんてない、と言いきってしまうのは余りにも乱暴だが、絶対にここで解決しなきゃいけないってものでないのは確かだな。後々になって影響が出る可能性もあるが、そのときはそのときだ。
「だったら、こいつのために願ってやってくれ。……お前はこいつの友達だろう?」
 友達って。何だか非常に嘘臭い単語のような気がしたが、生憎他の言い方が思いつかなかった。仲間ってのとは違うし、元クラスメイトってのは間違っちゃいないがそれじゃ少々距離が遠すぎる。
「……ともだち」
 ハルヒが口の中で言葉を反芻する。そんなに引っかかる表現だったのか? ことの是非はともかく、ありふれた単語じゃないか。何でそんなに驚くんだよ。
「ねえ……」
「なんだ?」
「……ううん、なんでもないわ。そうね、あたしは朝倉の友達になってあげる。転校して一番目の友達になってあげるんだから、ちゃんとそれなりの便宜を図ってもらわないとね。そのためにも……そうよ、一緒に戻りましょう!」
 ハルヒが朝倉の身体をぎゅっと抱きしめ、泣いているような笑っているような、非常に形容しがたい表情を浮かべた。近寄りがたくもあり抱きしめて慰めたくも……いや、そんなことはしないんだが、なんだろうねこの状態は。
 まあ、ハルヒが戻りたいって思えたなら、それでいいさ。
 ハルヒの背中から現れた後光のような光を捉えきれず目を閉じたところで、俺の意識はふっと消失した。


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